詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ギジェルモ・アリアガ監督・脚本「あの日、欲望の大地で」(★★★★)

2009-11-23 22:23:31 | 映画
監督・脚本 ギジェルモ・アリアガ 出演 シャーリーズ・セロン、キム・ベイシンガー

 「間」にはいろいろな「間」がある。
 ギジェルモ・アリアガ監督・脚本「あの日、欲望の大地で」でいちばん印象に残っているのは、キム・ベイシンガーの浮気の相手の埋葬シーンだ。埋葬を、離れた場所からキム・ベイシンガーの家族が見ている。道から少しはみだしたところ。道路わき。父の埋葬を終えて、その家族が車へ向かう。当然、キム・ベイシンガーの家族の前を通る。その、前を通る瞬間を狙って、キム・ベイシンガーの夫が怒りをぶつける。遺族も、じっと浮気相手の遺族を見つめる。このときの距離感、間合いがとてもいい。
 キム・ベイシンガーは浮気の最中に火災で焼死した。「許さない」と夫は言う。しかし、相手の遺族に殴り掛かるというのではない。浮気というのは一方的にはできない、相手遺族からすればキム・ベイシンガーのせいで夫・父は死んだということになるという事情はあるにせよ、そのときの怒りのぶつけ方、肉体が触れ合わない距離のとり方が、この映画全体を象徴している。
 シャーリーズ・セロンは少女時代、母キム・ベイシンガーが浮気しているのを知った。そして、それを家族への裏切りだと感じた。けれど、それをうまく母に言えない。そして父にも言えない。父に言ってしまえば、母を裏切ることになると思うからだ。家族ゆえに、うまく距離がとれない。直接的にぶつかりあえない。そして、そのことが、ふとしたはずみで不幸を招いてしまうのだ。もし、直接、母に対して「浮気しているのを知っている。許せない」と言うことができれば、あらゆる不幸は起きなかった。
 このことが「後遺症」のようにしてシャーリーズ・セロンを責める。他人との「距離」のとり方、間合いが、うまく処理できない。ぴったり密着することがこわい。かといって、だれとも接触せずに生きるのはつらい。他人に対して肌のぬくもりをもとめる一方、他方でその密着が人間関係を変えてしまうことにも恐れを抱いている。
 触れ合うことは人間を変えてしまう--それをシャーリーズ・セロンは知ってしまった。そのことが、さらに問題を複雑にしている。シャーリーズ・セロンは母の浮気相手の男の息子と恋をしてしまう。「怒り」とつながるべき男と恋をしてしまう。人間は、触れ合えば、そこではどんな変化が起きるか、だれにもわからない。そして、その変化は制御ができない。
 こういう変化は、「間」があるからこそ生まれるのである。
 人間はひとりひとり独立している。人間が出会うとき、二人の間には「間(ま)」がある。その「間」を人は「愛」で埋めようとする。「愛」とは自分が自分ではなくなってもかまわないと覚悟することなだ。そして、実際に変化してしまう。「間」は人間のあらゆる変化を受け入れる。「変化」によって、「間」が縮まり、あたたかな触れ合いがつづくことがある。人はそれを願っているが、ときには、その変化が「間」をいびつにして、そこに深い亀裂が入ることもある。それは、すべて「間」があってこそ、起きることがらである。
 「間」によって「人」と「人」は出会。人に出会うだけではなく、「間」とこそ出会い、「間」と関係をつくるのかもしれない。「間」を築き上げるのかもしれない。「人」+「間」が「人間」ということかもしれない。
 これは、別な言い方をすれば、人が人と出会うということは、そこに新しい「間」が生まれるということでもある。そしてその「間」によって、人は、いやおうなく「人間」にさせられる。「人間」になることを迫られる。
 シャーリーズ・セロンの場合、この映画の場合、彼女の前に、突然、ひとりの少女があらわれる。そのとき、それまで孤独を生き、愛を欠いたセックスを生きてきた「キャリアウーマン」が「人」であることから「人間」になることを迫られる。
 「人間」になるということは、「人」であることの「自由」を失うことでもある。「間」は「間」を連鎖反応のように呼び寄せる。過去を呼び寄せ、未来を遠ざける。それでも人は「人間」にならなければならない。

 シャーリーズ・セロンは、このときの人間の悲しみと苦悩と、その先にある安らぎを、さまざまな「間」の変化で具現化していた。そこに、悲しみと苦悩があるからこそ、だれもが(観客のだれもが)シャーリーズ・セロンを受け入れることになる。

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高塚謙太郎『さよならニッポン』

2009-11-23 00:00:00 | 詩集
高塚謙太郎『さよならニッポン』(思潮社、2009年10月25日発行)

 高塚謙太郎『さようならニッポン』は、詩集のタイトルに漢字がつかわれていない。なぜだろう。そんな疑問にとらわれるくらい、高塚は漢字が好きである。漢字のことばが好きである。いや、ことばの漢字が好きである。「ことばの漢字」というのは奇妙な言い方になってしまうが、思わず、そう書いてしまった。
 詩人というのは誰でもことばが好きだとは思うけれど、どんなことばが好きかはひとによって違う。そして、そのことばをどんなふうに書くのが好きかということもひとによって違うのだが、高塚は漢字が好きな詩人だ。ことばを漢字で書くのが好きだ。そして、そのことばと漢字は、いささか古い。『さよならニッポン』はなぜか「侍ニッポン」に音が似ているが、その、私の聞いたことのない歌謡曲のような感じで、古くさい。
 古いことばを漢字で書くことが好きなのかもしれない。そうすることで、いま、ここから「さよなら」し、別の「ニッポン」に行きたいのかもしれない。その「ニッポン」で、ことばを動かしたいのかもしれない。
 この欲望も「暴走」だと私は思う。

 「馬」という作品の、書き出しの2連。

柵を越えてくる。轍を翻し露わな季節を鷲づかみ、野卑と枯淡の水蜜の柵を築
く音のその以前にいつ果てるともない朝焼けの頬をつたう墓碑銘が。

季節の臀部に見惚れ、それなり睫は逃亡に泥む。蹲りの姿勢から澱む膝に表情
を残したまま、呼吸の呵成に首を立てる。いつしか片腕には一本の鞭が延び、
一頭の馬へと到る。額に鮮やかな濡れた鼻面にぶら下がる畏れ。撲殺したのは
いつ。

 この奇妙なことばたち。「轍を翻し」は、たぶん、漢字が存在しなければ、思いもつかないような表現だろう。「季節の臀部」も「臀」という漢字がなければ、思いつかない表現に違いない。
 それにしても、「轍」とか「臀部」、あるいは「露わな」「鷲づかみ」「蹲り」という~ことば」と「漢字」、その組み合わせを高塚はどこからみつけてきたのだろう。とても興味をかきたてられる。
 私は、そこに書かれていることばを「見る」ことができる。「見て」存在することはできるが、まあ、自分ではけっしてつかわない。特に漢字と組み合わせてはつかわない。
 だから、そこに「ことばの暴走」「表現の暴走」を感じる。
 私はいつでも「私」を基準にしてしか、ことばに接しない。他の読者にとっては、高塚のことば、漢字は「暴走」ではないかもしれないが、私には「暴走」に感じられる。
 そして、これから書くことが、ほんとうの感想の部分になるのかもしれないが、この「暴走」は、実は、私にとっては、とてもとてもとてもとても、気持ちが悪い。「清潔」というものを感じない。なんといっていいかわからないが、人工的な、それも「むりやり」の繊細さがそこにあると思う。そして、もし「暴走」がほんとうにあるとすれば、その「むりやり」にこそあるのだと思う。感覚を、それも「表現」に(漢字とひらがなの組み合わせという表現に)、対する感覚を鋭敏にし、そこから差異を浮き彫りにする--そういう「むりやり」がおこなわれている。
 漢字の好きなひと、漢字とひらがなの組み合わせに、深い意味を読みとる視力の持ち主には、この繊細さはとても気持ちがいいかもしれない。しかし、私は、あいにく(?)、目の手術をして、視力もおぼつかないせいもあるかもしれないが、そういう繊細さについてゆけない。いらいらし、気持ちが悪くなる。

 「姫」の書き出しの1連目。

翻る乳房の屋根裏で、滞る在来線、或は、心思う軸の傾き、雲級並べ。鄙びつ
つ哮く番傘の集い、浚いの果て、祈りの姿勢に比える、その先に、姫。

 「心思う」には「うらも(う)」、「哮く」には「うた(く)」、「比える」には「たぐ(える)」というルビが打ってある。この「ルビ」が私には、また、非常に気持ちが悪い。「むりやり」そこでことばの速度を落とされた感じがする。そして、それが漢字がもっているスピード感と、私の場合、相いれない。私の感覚では、漢字は速度が速い。ひらがなは遅い。けれど、高塚は、漢字に「ルビ」を打つことで、漢字のスピードを「むりやり」落としている。スピードを落とすことで、漢字そのものの肉体にひらがなを融合させている。この「力業」(むりやり)が高塚の「暴走」なのだが、その「暴走」は「視力」にしかわからない「暴走」である。
 こういうものが、私には、とても気持ちが悪い。

 私は、高塚の詩を読み、味わうには向いていない人間なのである。ほかの詩人なら、高塚の魅力を語ることができるかもしれないが、私には、高塚の魅力は、私が気持ち悪いと感じているところにあるに違いない、ということしか書けない。

 --と、こんな奇妙な、書かない方がいい感想を書いてしまうのは……。
 ときどき、その漢字(漢字のことば)のつかい方に、あ、ここは「清潔」だなあと感じるところがある。それが、実は、困る。
 「黄金」の次の部分。

あらゆるものは生長している。覚醒と隔世の問題禍において衰えを
隠蔽しつつ、枝葉を延べ、連鎖につぐ連鎖、そして作用に、姿とし
て生長はあり得る。程には変態する。

 漢字(文字)がないことには、ことばを追いかけることができない部分、「覚醒」「隔世」は、しかし、そこでスピードダウンするのではなく、スピードアップする。漢字によって軽くなる。こういうとき、私は「清潔」を感じる。だからこそ、とまどう。高塚は、なぜこんな漢字(視力)の軽さを、ここで、こうして書いているのか。
 こういう部分がなければ、たぶん、「気持ち悪い」「気持ち悪い」と書くことが、きっと「とてもすばらしい」に「変態」するはずなのに、と思ってしまう。

 「暴走」するなら、どんな方向でもいいけれど、絶対に「暴走」しつづけてほしい、私は、いつでも、そう思っている。誰に対しても。どんな本に対しても。




さよならニッポン
高塚 謙太郎
思潮社

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