監督・脚本 ギジェルモ・アリアガ 出演 シャーリーズ・セロン、キム・ベイシンガー
「間」にはいろいろな「間」がある。
ギジェルモ・アリアガ監督・脚本「あの日、欲望の大地で」でいちばん印象に残っているのは、キム・ベイシンガーの浮気の相手の埋葬シーンだ。埋葬を、離れた場所からキム・ベイシンガーの家族が見ている。道から少しはみだしたところ。道路わき。父の埋葬を終えて、その家族が車へ向かう。当然、キム・ベイシンガーの家族の前を通る。その、前を通る瞬間を狙って、キム・ベイシンガーの夫が怒りをぶつける。遺族も、じっと浮気相手の遺族を見つめる。このときの距離感、間合いがとてもいい。
キム・ベイシンガーは浮気の最中に火災で焼死した。「許さない」と夫は言う。しかし、相手の遺族に殴り掛かるというのではない。浮気というのは一方的にはできない、相手遺族からすればキム・ベイシンガーのせいで夫・父は死んだということになるという事情はあるにせよ、そのときの怒りのぶつけ方、肉体が触れ合わない距離のとり方が、この映画全体を象徴している。
シャーリーズ・セロンは少女時代、母キム・ベイシンガーが浮気しているのを知った。そして、それを家族への裏切りだと感じた。けれど、それをうまく母に言えない。そして父にも言えない。父に言ってしまえば、母を裏切ることになると思うからだ。家族ゆえに、うまく距離がとれない。直接的にぶつかりあえない。そして、そのことが、ふとしたはずみで不幸を招いてしまうのだ。もし、直接、母に対して「浮気しているのを知っている。許せない」と言うことができれば、あらゆる不幸は起きなかった。
このことが「後遺症」のようにしてシャーリーズ・セロンを責める。他人との「距離」のとり方、間合いが、うまく処理できない。ぴったり密着することがこわい。かといって、だれとも接触せずに生きるのはつらい。他人に対して肌のぬくもりをもとめる一方、他方でその密着が人間関係を変えてしまうことにも恐れを抱いている。
触れ合うことは人間を変えてしまう--それをシャーリーズ・セロンは知ってしまった。そのことが、さらに問題を複雑にしている。シャーリーズ・セロンは母の浮気相手の男の息子と恋をしてしまう。「怒り」とつながるべき男と恋をしてしまう。人間は、触れ合えば、そこではどんな変化が起きるか、だれにもわからない。そして、その変化は制御ができない。
こういう変化は、「間」があるからこそ生まれるのである。
人間はひとりひとり独立している。人間が出会うとき、二人の間には「間(ま)」がある。その「間」を人は「愛」で埋めようとする。「愛」とは自分が自分ではなくなってもかまわないと覚悟することなだ。そして、実際に変化してしまう。「間」は人間のあらゆる変化を受け入れる。「変化」によって、「間」が縮まり、あたたかな触れ合いがつづくことがある。人はそれを願っているが、ときには、その変化が「間」をいびつにして、そこに深い亀裂が入ることもある。それは、すべて「間」があってこそ、起きることがらである。
「間」によって「人」と「人」は出会。人に出会うだけではなく、「間」とこそ出会い、「間」と関係をつくるのかもしれない。「間」を築き上げるのかもしれない。「人」+「間」が「人間」ということかもしれない。
これは、別な言い方をすれば、人が人と出会うということは、そこに新しい「間」が生まれるということでもある。そしてその「間」によって、人は、いやおうなく「人間」にさせられる。「人間」になることを迫られる。
シャーリーズ・セロンの場合、この映画の場合、彼女の前に、突然、ひとりの少女があらわれる。そのとき、それまで孤独を生き、愛を欠いたセックスを生きてきた「キャリアウーマン」が「人」であることから「人間」になることを迫られる。
「人間」になるということは、「人」であることの「自由」を失うことでもある。「間」は「間」を連鎖反応のように呼び寄せる。過去を呼び寄せ、未来を遠ざける。それでも人は「人間」にならなければならない。
シャーリーズ・セロンは、このときの人間の悲しみと苦悩と、その先にある安らぎを、さまざまな「間」の変化で具現化していた。そこに、悲しみと苦悩があるからこそ、だれもが(観客のだれもが)シャーリーズ・セロンを受け入れることになる。
「間」にはいろいろな「間」がある。
ギジェルモ・アリアガ監督・脚本「あの日、欲望の大地で」でいちばん印象に残っているのは、キム・ベイシンガーの浮気の相手の埋葬シーンだ。埋葬を、離れた場所からキム・ベイシンガーの家族が見ている。道から少しはみだしたところ。道路わき。父の埋葬を終えて、その家族が車へ向かう。当然、キム・ベイシンガーの家族の前を通る。その、前を通る瞬間を狙って、キム・ベイシンガーの夫が怒りをぶつける。遺族も、じっと浮気相手の遺族を見つめる。このときの距離感、間合いがとてもいい。
キム・ベイシンガーは浮気の最中に火災で焼死した。「許さない」と夫は言う。しかし、相手の遺族に殴り掛かるというのではない。浮気というのは一方的にはできない、相手遺族からすればキム・ベイシンガーのせいで夫・父は死んだということになるという事情はあるにせよ、そのときの怒りのぶつけ方、肉体が触れ合わない距離のとり方が、この映画全体を象徴している。
シャーリーズ・セロンは少女時代、母キム・ベイシンガーが浮気しているのを知った。そして、それを家族への裏切りだと感じた。けれど、それをうまく母に言えない。そして父にも言えない。父に言ってしまえば、母を裏切ることになると思うからだ。家族ゆえに、うまく距離がとれない。直接的にぶつかりあえない。そして、そのことが、ふとしたはずみで不幸を招いてしまうのだ。もし、直接、母に対して「浮気しているのを知っている。許せない」と言うことができれば、あらゆる不幸は起きなかった。
このことが「後遺症」のようにしてシャーリーズ・セロンを責める。他人との「距離」のとり方、間合いが、うまく処理できない。ぴったり密着することがこわい。かといって、だれとも接触せずに生きるのはつらい。他人に対して肌のぬくもりをもとめる一方、他方でその密着が人間関係を変えてしまうことにも恐れを抱いている。
触れ合うことは人間を変えてしまう--それをシャーリーズ・セロンは知ってしまった。そのことが、さらに問題を複雑にしている。シャーリーズ・セロンは母の浮気相手の男の息子と恋をしてしまう。「怒り」とつながるべき男と恋をしてしまう。人間は、触れ合えば、そこではどんな変化が起きるか、だれにもわからない。そして、その変化は制御ができない。
こういう変化は、「間」があるからこそ生まれるのである。
人間はひとりひとり独立している。人間が出会うとき、二人の間には「間(ま)」がある。その「間」を人は「愛」で埋めようとする。「愛」とは自分が自分ではなくなってもかまわないと覚悟することなだ。そして、実際に変化してしまう。「間」は人間のあらゆる変化を受け入れる。「変化」によって、「間」が縮まり、あたたかな触れ合いがつづくことがある。人はそれを願っているが、ときには、その変化が「間」をいびつにして、そこに深い亀裂が入ることもある。それは、すべて「間」があってこそ、起きることがらである。
「間」によって「人」と「人」は出会。人に出会うだけではなく、「間」とこそ出会い、「間」と関係をつくるのかもしれない。「間」を築き上げるのかもしれない。「人」+「間」が「人間」ということかもしれない。
これは、別な言い方をすれば、人が人と出会うということは、そこに新しい「間」が生まれるということでもある。そしてその「間」によって、人は、いやおうなく「人間」にさせられる。「人間」になることを迫られる。
シャーリーズ・セロンの場合、この映画の場合、彼女の前に、突然、ひとりの少女があらわれる。そのとき、それまで孤独を生き、愛を欠いたセックスを生きてきた「キャリアウーマン」が「人」であることから「人間」になることを迫られる。
「人間」になるということは、「人」であることの「自由」を失うことでもある。「間」は「間」を連鎖反応のように呼び寄せる。過去を呼び寄せ、未来を遠ざける。それでも人は「人間」にならなければならない。
シャーリーズ・セロンは、このときの人間の悲しみと苦悩と、その先にある安らぎを、さまざまな「間」の変化で具現化していた。そこに、悲しみと苦悩があるからこそ、だれもが(観客のだれもが)シャーリーズ・セロンを受け入れることになる。
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