詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大人計画「さっちゃんの明日」

2009-11-27 11:58:29 | その他(音楽、小説etc)
大人計画「さっちゃんの明日」(北九州市民劇場・中劇場)

作・演出 松尾スズキ 出演 鈴木蘭々、宮藤官九郎、猫背椿、松尾スズキ

 大人計画「さっちゃんの明日」は、役者ははりきって演技をしている(母親役がうまい)が、装置がまったく演技をしていない。そのために、とても退屈である。舞台の「場」が濃密にならない。いつも余分な空間がある。その余分な空間が、役者と役者のからみあい、人間関係を「すかすか」にしてしまう。
 私が見た北九州市民劇場との相性が悪いのかもしれない。もっと小さな劇場ならいくぶん印象が違ったかもしれない。
 あ、これはひどい、と思ったのが、2幕目の、幻のパンクロッカーを訪ねていく場面。アパートの2階(?)かなあ。そのシーンが、「さっちゃん」のそば屋の2階部分で演じられる。舞台の、約1/6の、右手上部の空間である。そこで演技がつづいているあいだ、他の空間は生かされていない。単なる暗闇である。
 芝居のことはよくわからないが、私は、演技は常に舞台の中央で演じられるべきだと考えている。役者は特別なことがない限り中央にいて、「場」の変化は「装置」で見せるべきであると考えている。役者が「場」へ動いていくのではなく、「場」を役者が呼び寄せて演技する--それが芝居の基本だと思っている。この基本から、この芝居は完全に外れてしまっている。だからおもしろくない。
 ブロードウェイの芝居と比較してはいけないのかもしれないけれど、「The 39 STEP 」は、役者が「場」を引き寄せるという基本を完全に守っている。箱の上に乗って、体を前かがみにして、コートの裾を翻せば、そこは列車の屋根の上。どこからか木枠を取り出せば、そこが「窓」。観客の想像力を最大限に利用し、常に、舞台の中心の「役者」を、舞台の中心の板の上に置く。
 観客が首を振って、あっちを見たり、こっちを見たりして「場」の変化を知るという「さっちゃんの明日」のやり方は、観客の意識を散漫にしてしまう。「持続」がとぎれる。それではおもしろくない。
 ほかのシーンでも同じである。
 だいたい、基本の「さっちゃん」のそば屋が、右手がそば屋そのものの店内、左が居住場所(日常の生活空間)という二分割が、この芝居を窮屈にしている。図式化してしまっている。人には公(そば屋の店内)と私(私空間としての居住場所、部屋)があるというとらえ方かがつまらない。それが隣り合っているというとらえ方がつまらない。
 主人公のさっちゃんには、そば屋の店長という「公」の人格があり、明るくふるまっている。けれど、さっちゃんは「私」の部分では、左の部屋のパソコンでエロサイトを覗きまくっているという「並列」がとてもつまらない。
 人間の生活というのは、「公・私」というものが、「並列」しているようで、並列していない。入り乱れている。左右に図式化できるものではなく、上下にも入り乱れている。(上下の乱れを、そば屋の2階で表現した--というのは、屁理屈になるだろう)。そして、その入り乱れは、瞬時に交代する。そこに、人間のおもしろさがある。やっかいさがある。
 そういう部分をどう「肉体」で具現化するか。肉体を動かすことで納得させるか--という点では、唯一、身体障害者のセールスマンがドラッグでハイになり、ブレークダンス(パンクダンス?)を完璧にこなすという部分がおもしろかった。ブラックな肉体批評が、肉体そのものとして表現されていた。

 そば屋、居住空間、パンクロッカーのアパートが、舞台の中央で展開する「大道具」の工夫があれば、この芝居の印象は、もっと違ったものになると思った。あるいは、もっと小さな劇場でやれば、印象は違ったかもしれない。脚本はそれなりにおもしろいが、「装置」に問題がある作品だ。


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白鳥信也「カエルになって」

2009-11-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
白鳥信也「カエルになって」( 「モーアシビ」19、2009年10月30日発行)

白鳥信也「カエルになって」は、久しぶりの雨の日、カエルを見かけ、カエルが感じている「水」を感じたいと思い、「カエルになった自分を想像する」という作品である。
その2連目の途中から引き込まれてしまった。

舗装され平坦な道だけれど
水がなめらかに流れているわけではない
よく見ればアスファルトは
ひとつひとつの砂利が黒く固められ
平らを装った路面そのものは小さなすきまだらけ
水はまずこのすきまに流れ込み
やがて路面をおおっている

カエルはこんなことを考えるはずがないのだが、カエルがこんなことを考えるはずがない--ということを忘れてしまう。そこには、私には「わからないこと」が書かれているからである。「わからない」とはいいながらも、読むと「わかる」。「わからない」とは、つまり、それまで私がことばにするということを思いつかなかったことが書かれているということである。そういうことばを読むとき、それが「カエル」のことばであるなんてことは、すっかり忘れてしまう。こういう瞬間が好き。

 このことばの運動はどこから来ているか。白鳥信也の「キイワード」は何か。「よく見れば」である。アスファルトと雨(水)の関係なんか、ほんとうは「よく見る」必要などない。人間にも。たぶん、カエルにも。(カエルではないから実際のところはわからないが。)雨が降れば濡れる--それだけである。
 けれど、白鳥は「よく見れば」と目を凝らしてしまう。そのとき白鳥はカエル? 違うよね。どうしたって、人間である。「ひとつひとつの砂利が黒く固められ」という具合に認識できる(ことばで追認できる)のは、その作業、その仕組みを知っている人間だけである。そして、その「仕組み」を知っているというのは、実は、いま、そのアスファルトと水を見ている「目」ではない。そういう「作業」を見てきた「記憶の目」である。「よく見る」というのは、裸の目をこらして見るということではなく、「記憶」を動員して「見る」、「知識」を動員して見る--つまり「肉眼」で見るということである。
 そのことばを追うとき、私は、実際にカエルになった白鳥が見ているものではなく、かつて白鳥が見てきたもの、その過去の時間とともに育ってきた「肉眼」そのものを見ることになる。白鳥の目の前にあるものをことばをとおして見るのではなく、目の前にある存在に刺戟されて動きはじめる白鳥の「肉体」のなかにあるもの、その源流へ遡るようにして、白鳥そのものを見る。だから、楽しい。
 つづく3連目。

川底からすくわれた砂利たちがアスファルトに閉じ込められて
流れ込む水滴を味わっている
だからいまここは再び川底になっている

 あ、なんと美しいことばだろう。ことばの運動だろう。ことばでしかたどりつけない美しさがここにある。
 「よく見る」白鳥の目は、ここではカエルであることを超越して、「砂利」になっている。カエルになって「水」を感じようとした白鳥は、カエルであることを忘れて、ここでは完全に「砂利」になっている。「川底」という故郷から切り離された「砂利」になって、その遠い故郷の川底を感じている。
 白鳥は、その「砂利」に、しずかな悲しみとともに寄り添う。

 けれど……。

 3連目の静かな悲しみで終われば、とても美しいのだけれど、白鳥のことばはついつい先へ進みすぎる。「肉眼」の領域を突き破って「精神・感情」にまでことばを整えてしまう。
 4連目。

山岳の岩から割れてこぼれ落ち
ごろごろと川を転がり続けてきた小石たち砂利たちが
ここまでたどりついて
黒く固定されしばりつけられている
カエルの裸足でその時間を味わいながら歩いている
この川底はいつほどけるんだろうか

 たとえば、川で砂利を採取している作業なら多くの人が見ることができる。白鳥にもそういう「記憶」はあるだろうと思う。アスファルトを道路にまいている作業も見たことがあるだろう。見た「記憶」はあるだろう。
 けれど、山岳の岩が割れてこぼれ落ち、それが川を転がりつづけて砂利になるというのは「見た」記憶だろうか? それは実際に白鳥が立ち会って見たものではないだろう。「知識」として知っている「記憶」だろう。「知識」で「世界」を整えすぎると、そこから「肉体」の味が消えてしまう。アスファルトの故郷は川底の砂利である、というのはいいけれど、その砂利の故郷は山岳であり、砂利になるまでには長い「時間」があると故郷の「歴史」まで語りはじめると、もう、そこにはカエルの「肉体」は存在せず(カエルは川底にいたことがあるかもしれないが、山岳には行ったことがないだろう)、むりやり人間の(白鳥の)、どこで知ったかわからない「頭」がくっつけられたような、まるで化け物に変身してしまう。

カエルの裸足でその時間を味わいながら歩いている

 あ、そんなことは、できないねえ。アスファルトのなかの「砂利」が「水滴」を味わうというときの「味」には「肉体」の切なさがあるけれど、巨大な岩が砕け、砂利になり、アスファルトになるまでの「時間」の「味」には「肉体」がない。それは「頭」が感じる「味」、捏造された「味」だ。「カエルの裸足」ではなく、白鳥の「頭」で「時間」を味わっているにすぎない。
 ここには捏造されたセンチメンタルがある。そして、さらにセンチメンタルのだめ押しがつづく。

この川底はいつほどけるんだろうか

 清水哲男なら大喜びするだろうけれど、こういうことばに、私はぞっとしてしまう。「頭」で書かれた敗北主義のセンチメンタルには、どうにも我慢がならない。「いつほどけるんだろう」というのは「頭」が考えた悲しみにすぎない。
 「よく見れば」からはじまった「肉眼」(肉体)の美しいことばは、どこへ行ってしまったんだろう。

アングラー、ラングラー
白鳥 信也
思潮社

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