大人計画「さっちゃんの明日」(北九州市民劇場・中劇場)
作・演出 松尾スズキ 出演 鈴木蘭々、宮藤官九郎、猫背椿、松尾スズキ
大人計画「さっちゃんの明日」は、役者ははりきって演技をしている(母親役がうまい)が、装置がまったく演技をしていない。そのために、とても退屈である。舞台の「場」が濃密にならない。いつも余分な空間がある。その余分な空間が、役者と役者のからみあい、人間関係を「すかすか」にしてしまう。
私が見た北九州市民劇場との相性が悪いのかもしれない。もっと小さな劇場ならいくぶん印象が違ったかもしれない。
あ、これはひどい、と思ったのが、2幕目の、幻のパンクロッカーを訪ねていく場面。アパートの2階(?)かなあ。そのシーンが、「さっちゃん」のそば屋の2階部分で演じられる。舞台の、約1/6の、右手上部の空間である。そこで演技がつづいているあいだ、他の空間は生かされていない。単なる暗闇である。
芝居のことはよくわからないが、私は、演技は常に舞台の中央で演じられるべきだと考えている。役者は特別なことがない限り中央にいて、「場」の変化は「装置」で見せるべきであると考えている。役者が「場」へ動いていくのではなく、「場」を役者が呼び寄せて演技する--それが芝居の基本だと思っている。この基本から、この芝居は完全に外れてしまっている。だからおもしろくない。
ブロードウェイの芝居と比較してはいけないのかもしれないけれど、「The 39 STEP 」は、役者が「場」を引き寄せるという基本を完全に守っている。箱の上に乗って、体を前かがみにして、コートの裾を翻せば、そこは列車の屋根の上。どこからか木枠を取り出せば、そこが「窓」。観客の想像力を最大限に利用し、常に、舞台の中心の「役者」を、舞台の中心の板の上に置く。
観客が首を振って、あっちを見たり、こっちを見たりして「場」の変化を知るという「さっちゃんの明日」のやり方は、観客の意識を散漫にしてしまう。「持続」がとぎれる。それではおもしろくない。
ほかのシーンでも同じである。
だいたい、基本の「さっちゃん」のそば屋が、右手がそば屋そのものの店内、左が居住場所(日常の生活空間)という二分割が、この芝居を窮屈にしている。図式化してしまっている。人には公(そば屋の店内)と私(私空間としての居住場所、部屋)があるというとらえ方かがつまらない。それが隣り合っているというとらえ方がつまらない。
主人公のさっちゃんには、そば屋の店長という「公」の人格があり、明るくふるまっている。けれど、さっちゃんは「私」の部分では、左の部屋のパソコンでエロサイトを覗きまくっているという「並列」がとてもつまらない。
人間の生活というのは、「公・私」というものが、「並列」しているようで、並列していない。入り乱れている。左右に図式化できるものではなく、上下にも入り乱れている。(上下の乱れを、そば屋の2階で表現した--というのは、屁理屈になるだろう)。そして、その入り乱れは、瞬時に交代する。そこに、人間のおもしろさがある。やっかいさがある。
そういう部分をどう「肉体」で具現化するか。肉体を動かすことで納得させるか--という点では、唯一、身体障害者のセールスマンがドラッグでハイになり、ブレークダンス(パンクダンス?)を完璧にこなすという部分がおもしろかった。ブラックな肉体批評が、肉体そのものとして表現されていた。
そば屋、居住空間、パンクロッカーのアパートが、舞台の中央で展開する「大道具」の工夫があれば、この芝居の印象は、もっと違ったものになると思った。あるいは、もっと小さな劇場でやれば、印象は違ったかもしれない。脚本はそれなりにおもしろいが、「装置」に問題がある作品だ。
作・演出 松尾スズキ 出演 鈴木蘭々、宮藤官九郎、猫背椿、松尾スズキ
大人計画「さっちゃんの明日」は、役者ははりきって演技をしている(母親役がうまい)が、装置がまったく演技をしていない。そのために、とても退屈である。舞台の「場」が濃密にならない。いつも余分な空間がある。その余分な空間が、役者と役者のからみあい、人間関係を「すかすか」にしてしまう。
私が見た北九州市民劇場との相性が悪いのかもしれない。もっと小さな劇場ならいくぶん印象が違ったかもしれない。
あ、これはひどい、と思ったのが、2幕目の、幻のパンクロッカーを訪ねていく場面。アパートの2階(?)かなあ。そのシーンが、「さっちゃん」のそば屋の2階部分で演じられる。舞台の、約1/6の、右手上部の空間である。そこで演技がつづいているあいだ、他の空間は生かされていない。単なる暗闇である。
芝居のことはよくわからないが、私は、演技は常に舞台の中央で演じられるべきだと考えている。役者は特別なことがない限り中央にいて、「場」の変化は「装置」で見せるべきであると考えている。役者が「場」へ動いていくのではなく、「場」を役者が呼び寄せて演技する--それが芝居の基本だと思っている。この基本から、この芝居は完全に外れてしまっている。だからおもしろくない。
ブロードウェイの芝居と比較してはいけないのかもしれないけれど、「The 39 STEP 」は、役者が「場」を引き寄せるという基本を完全に守っている。箱の上に乗って、体を前かがみにして、コートの裾を翻せば、そこは列車の屋根の上。どこからか木枠を取り出せば、そこが「窓」。観客の想像力を最大限に利用し、常に、舞台の中心の「役者」を、舞台の中心の板の上に置く。
観客が首を振って、あっちを見たり、こっちを見たりして「場」の変化を知るという「さっちゃんの明日」のやり方は、観客の意識を散漫にしてしまう。「持続」がとぎれる。それではおもしろくない。
ほかのシーンでも同じである。
だいたい、基本の「さっちゃん」のそば屋が、右手がそば屋そのものの店内、左が居住場所(日常の生活空間)という二分割が、この芝居を窮屈にしている。図式化してしまっている。人には公(そば屋の店内)と私(私空間としての居住場所、部屋)があるというとらえ方かがつまらない。それが隣り合っているというとらえ方がつまらない。
主人公のさっちゃんには、そば屋の店長という「公」の人格があり、明るくふるまっている。けれど、さっちゃんは「私」の部分では、左の部屋のパソコンでエロサイトを覗きまくっているという「並列」がとてもつまらない。
人間の生活というのは、「公・私」というものが、「並列」しているようで、並列していない。入り乱れている。左右に図式化できるものではなく、上下にも入り乱れている。(上下の乱れを、そば屋の2階で表現した--というのは、屁理屈になるだろう)。そして、その入り乱れは、瞬時に交代する。そこに、人間のおもしろさがある。やっかいさがある。
そういう部分をどう「肉体」で具現化するか。肉体を動かすことで納得させるか--という点では、唯一、身体障害者のセールスマンがドラッグでハイになり、ブレークダンス(パンクダンス?)を完璧にこなすという部分がおもしろかった。ブラックな肉体批評が、肉体そのものとして表現されていた。
そば屋、居住空間、パンクロッカーのアパートが、舞台の中央で展開する「大道具」の工夫があれば、この芝居の印象は、もっと違ったものになると思った。あるいは、もっと小さな劇場でやれば、印象は違ったかもしれない。脚本はそれなりにおもしろいが、「装置」に問題がある作品だ。
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