詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

水田伸生監督「なくもんか」(★★)

2009-11-28 13:28:45 | 映画

監督 水田伸生 脚本 宮藤官九郎 出演 阿部サダヲ、瑛太、竹内結子 

 大人計画の宮藤官九郎が脚本を書いて、阿部サダヲが出演している。この映画と、「さっちゃんの明日」を比較すると、映画と芝居の違いがよくわかる。
 芝居はフレームが決まっている。舞台の広さはいったん幕が開くとかわらない。スクリーンもスクリーンという枠があるが、これは見せ掛けの枠である。観客は、実は、舞台の大きさ(広さ)やスクリーンの大きさをフレームとして見ていない。出演者の身体、顔の大きさをフレームとして見ている。いや、役者が役者自身に引きつけた「場」の大きさをフレームとして見ている。役者は身体に「場」を引きつけて演技しなければならない。「場」をどれだけ引きつけられるかが役者の勝負である。
 役者の「存在感」(肉体的特権)というものが語られることがあるが、これは「場」をどれだけ引きつけられるかという力の問題である。役者自身の身体の内部から何かを発散するかではなく、役者の体の外にあるものをどれだけ引きつけることができるか。そう考えた方がわかりやすい。(そして、引きつけられるものというのは、実は観客の想像力である。あるいは、観客の、それまでの人生の時間である。)
 舞台では、役者が「場」を引き寄せるとき、役者が頼るべきは役者自身の身体しかない。ところが映画では違う。カメラがある。カメラが役者が引きつけるべき場を演出することができる。アップのことである。カメラが役者の顔をアップする。そうすると、顔の周囲に「場」が集まってくる。顔の周囲の「場」が濃密になる。カメラが、いわば役者の手助けをしてくれる。舞台では、こういうことはできない。役者の顔は、大きくはならない。大きくするためには工夫がいる。カメラのかわりに、照明や「装置」が活躍しなければならない。
 「大人計画」の「さっちゃんの明日」には、その役者を手助けする「装置」に大きな欠陥があった。きのうの日記に書いたことだが、舞台の「場」の分割が、役者の演技を殺している。役者が「場」を引きつけようとしても、「場」そのものが分割されて舞台上にでんと居座り、動かない。これでは、よほど役者に力がないと、演技にならない。
 「Billy Elliot」も「The 39 Steps」も、この点で、非常に工夫されていた。「装置」そのものが自在に「演技」に参加していた。大人計画の芝居では「装置」が演技をしない、という大きな問題があった。(欠陥があった。)
 さて、映画である。「なくもんか」。カメラは自在に動き回っている--ように、見える。出演者をアップで撮ったり、ロングで撮ったり、さまざまな距離で役者を写し出し、その周囲に「場」を引き寄せる--ように見える。
 けれども、どうも「間」が悪い。「間」を感じることができない。ただ単にアップとロングを適当につないでいるようにしか感じられない。「場」が、役者の身体から滲み出て来ない。これは、カメラと役者が一体となって「場」をつくっていない、ということなのだと思う。変な言い方になるかもしれないが、舞台中継をカメラをとおして見せられているような感じがするのである。最初からカメラがあるのではなく、まず芝居がある。その芝居が完成した後、カメラが適当に(?)近づいて行って役者を映している--そんな印象がある。
 役者が演技をしすぎて、カメラに演技をさせていない。
 これは「台詞」についてもいえるかもしれない。舞台では「台詞」ですべて説明しないとわからない。けれども映画では「台詞」がなくてもいい。「台詞」は少ない方がいい。カメラが「台詞」のかわりをしてくれることがある。アップが、「愛している」ということばよりも強く感情を表現することがある。ことばが多すぎる。そのため、私の場合、なんだか見ていて、目と耳が一致しない。一体になってくれない。耳をそばだてていないと、映画がわからなくなる、という印象が残る。
 あ、これは、舞台の脚本だ、と思ってしまう--というのは、まあ、あとから考えた付け足しのようなことだが、どうもなじめないのである。
 阿部サダヲもおもしろい役者なのだろうけれど、映画の演技とは違うんじゃないだろうか、と思ってしまった。



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小西民子『春のソナチネ』

2009-11-28 00:00:00 | 詩集
小西民子『春のソナチネ』(編集工房ノア、2009年11月18日発行)

 小西民子『春のソナチネ』には短い詩が多い。短い分だけ、無理がない。ことばを無理やり動かして、ことばをいじめるということがない。
 「ねむい空」の全行。

光が透けて
  やってくる

一枚の葉が
  ふるえている

書店の店主が
  いねむりをはじめる午後

花の中は
  暗くて湿ったまま

どこから
  わたしだか

どこまで
  葉っぱだか

 最後の2連が小西の「思想」(肉体)である。「どこから」「どこまで」--それがわからない。いま、ここに、生きている。そのとき、小西は、ここに生きているものを区別しない。区別せずに、ただ「一体」になる。透けた光も、居眠りをする店主も「わたし」なのだ。そこに生きているものすべてをつつむ「空気」そのものが「わたし」ということでもある。

 「ソナチネふたたびの夏」の最後の部分。川を描いた行も美しい。

逢いに
行くことは
川を渡ることであり

川の夢を
いくつも渡ることであり

見えない川も
渡ることである

たどりつくと
いつも
どこかが濡れていて

 切ない恋の思い出だろう。そして、その思い出は「川」、「渡る」ということと「一体」になっている。切り離せない。人間は「ひとり」で生きていくものだけれど、その「ひとり」のまわりには必ず「わたし」以外のものが存在する。そして、その「まわり」というのは、たとえば「ねむい空」では「書店」であったかもしれないけれど、この詩では、小西の寝室、ベッドを越えて、遠い遠い「川」までを含んでいる。人間は、いま、ここにいるのだけれど、その「肉体」は、いま、ここにしばられない。どこまでも自在に広がってゆく。そんなふうに広げてゆくのが小西の「思想」である。

 「秋のソナチネ」の「キリン」の部分は、そうした小西の「思想」が美しく結晶した行である。

本の中を
キリンが歩いている
ときどき
立ちどまり
まわりを見まわして
高い木の葉を食べる

本を閉じると
私の中に入って
暗い夜を一緒に夢をみる

 小西は、キリンのような、まったくの「他者」とも「一体」になるやわらかな「思想」(肉体)を持っている。



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