詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(1)

2009-11-04 00:00:00 | 詩集
阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(1)(思潮社、2009年09月25日発行)

 阿部嘉昭『頬杖のつきかた』は4冊分の詩集が1冊になっている。1回では書き切れない。少しずつ感想を書いて行きたい。
 「水辺舞台のぴんく映画が」という作品の書き出し。

記憶のわたなべくんの家で
水辺舞台のぴんく映画が
芋虫のようにぷるぷるしている
まだ若かった葉月蛍の肌が
とりもち以上に吸いついて
いつも鳥の肋骨が
飛翔ていどでも割れてゆくんだ
太陽毛への十五度の視覚
ばさりばさり墜ちている
へもぐろ瓶が
血の匂いあふらさんと
あぶさんの亡霊もぶらぶら
女のなるべく長い後頭部を探すが
滅多なのか探ししくじる

 ここには私には聞き慣れない「音楽」がある。
 「とりもち」から「鳥」、「へもぐろ瓶」(ヘモグロビン?)から「血」、「あふらさん」から「あぶさん」、そして「あぶさん」から「ぶらぶら」。
 純粋に「音」だけが交錯し、互いの音を引き立てる、あるいは互いの音のあいだに、いま、ここには存在しない「音」の可能性を浮かび上がらせる--という音楽ではない。阿部の「音楽」は、何かしら「意味」に汚染されている。
 「へもぐろ瓶」という音から「血」が導き出される展開に、特にそういう要素が噴出している。「へもぐろ瓶」というものを私は知らないが、ヘモグロビンなら知っている。そして、それが赤血球と関係していること、血と関係していることを知っている。だから、どうしても「へもぐろ瓶」を「ヘモグロビン」と読んでしまう。「へもぐろ瓶」が「血」ということばに触れた瞬間に、「ヘモグロビン」に記憶のなかで変わってしまう。「瓶」は破壊され、記憶のなかで別の存在に変わっている。
 これは逆に見れば、「意味」を破壊する「音楽」ということになるのかもしれないが、私の「目」と「耳」には、ちょっとむずかしい「音楽」である。

 「目と耳」と私は今書いたが、阿部の「音楽」は「音楽」とはいいながら、「目」を必要とする「音楽」なのかもしれない。
 「へもぐろびんをかついで」という「音」を聞いて「へもぐろ瓶をかついで」と文字に書き換えることができる人がはたしているかどうか。たぶん、いない。阿部の「意味を破壊する音楽」は「耳」だけでは成立しない。「目」で文字を読むことで、はじめて「意味の破壊」が起きる。それは、いわば「視覚の音楽」なのである。
 視覚化された音のゆらぎが、イメージの揺れ(ゆさぶり)につながる。あるいは、音が視覚化されて、そのあとにイメージのゆさぶりがやってくる、というべきか。
 阿部は基本的に「視覚」の詩人なのだろう。

 そして、その視覚は「ぴんく映画」ということばや「あぶさん」ということばからうかがえるように、いわゆる「俗」(サブカルチャー、というとかっこいいかもしれないが、今でもサブカルチャーという言い方はあるのかな?)の視線である。「あぶさん」は「アブサン」であり、リキュールなのかもしれないが、私はマンガの「あぶさん」(酔っぱらいの野球漫画)を思い出してしまう。
 いわば「聖」というか、純粋芸術(?)の視覚ではなく、「俗」の視覚。そういうものをことばのなかに持ち込み、ことばをたがやそうとしている。--そんなふうに感じられる。
 だから、「太陽毛」ということばで阿部が何を表現したかったのかよくわからないけれど、私はついつい、女性の性器を描いたいたずらを思い出してしまう。丸を二つ書いて、真ん中に棒を引き、まわりに放射状に毛を描いた絵。「ぴんく映画」ということばの影響かもしれないけれど……。

 そして(またまた、そして、なのだけれど)、そういう「視覚」にひっかきまわされていると、どうも「音楽」が直接的に響いて来ない。
 音の試みが繰り返されれば繰り返されるほど、音が音楽ではなく「ノイズ」に感じられる。
 「ノイズとしての音楽」と言われてしまえば返すことばがないけれど、どうも、私の感じる音楽とは違っている。

 別の言い方をしてみると……。
 「俗」の音楽は「俗」の音楽でいいのだけれど、そういものは「視覚」とは無縁に、もっと「音」そのものとして、なまなましい何かではないか、という気がするのである。「視覚」を通らずに、肉体の内側から耳をつきやぶってくるものではないか、という気がするのである。

 ちょっと、脱線。(かなり脱線。)
 私は9月に網膜剥離を起こし、入院、手術をした。そのとき私が聞きつづけたのはビートルズと美空ひばりだった。ひばりの「津軽のふるさと」は私のとても好きな曲だ。一番好きな曲だ。繰り返し繰り返し聞いて、それまで感じなかったことを感じた。
 モノラルの音源である。ひばりの、少女時代の歌である。入院するまで、私は、この曲を、神がひばりに歌わせていると感じていた。透明な哀愁。どこまでもどこまでも透明なこころ。その透明さは、神に選ばれたひばりだけが到達できる透明さである。いや、こういう言い方は正確ではないかもしれない。ひばりが、神に選ばれていることをどこかで感じていて、せいいっぱい背伸びしている。神に応えようとしている。そこには少しむりがある。ひばりが、ひばりを超えようとしているむり--そのむりが、ひばりから夾雑物を取り去り、透明な音が生まれている。背伸び、むり、というものが、ひばりをして、ひばりを超えさせているのだ。
 私は、長い間、そんなふうにして感じていた。
 ところが、手術後、同じ音楽を聴きながら、少し違うものを感じた。うまくいえないが、どこかで、ひばりは神を裏切っている。神に選ばれ、歌わされているだけではなく、何か神を裏切って、神に対して歌うのではなく、人間にむけて歌っている温かさがある。
 神の純粋さではなく、人間の純粋さ。人間に対する共感と言いなおすべきか。そういうものに向けて歌っている。
 そこには、たしかに、ひばりの肉体があるのだ。声は純粋な音ではない。肉体をとおってきた音である。肉体をとおるとき、肉体は、ひばりの肉体だけではなく、他人の(生きている人間の)肉体をもとおってきている。
 肉体は、精神に対すると「俗」と呼ばれることがあるが、その「俗」をくぐりぬける温かさ、そしてつやっぽさ。

 阿部がことばのなかに持ち込む「俗」にも、そういう感じがあればいいのになあ。そうすれば、きっと阿部の「音楽」は気持ちよく聞こえるだろうなあ、と思った。
 --これは、かなりよくばりな註文なのかもしれない。けれど、よくばりな註文をしてみたい気持ちを、阿部の詩集は呼び覚ますのである。批判的なことを書いたけれど、批判的なことを書かずにはいられない読みごたえのある詩集なのだ、きっと。




頬杖のつきかた
阿部 嘉昭
思潮社

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コメント (1)
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