池井昌樹小詩集「とこしえに」(「現代詩手帖」2009年11月号)
池井昌樹の詩が変わってきた。「月の光」の前半。
「しにたくないとねがっている」に私は驚いた。同じような行を池井がこれまでにも書いているかどうか、ちょっとはっきりしないが、書いていたとしても、今回の詩ほど痛切には響いて来なかった。今回の詩では、とても痛切に響いてくる。
なぜ、死にたくないのか。
まだ、「けだもの」としての「いのち」を詩に書いていないからだ。
池井のこれまでの詩の中心は、「いのち」のリレーである。延々とつづく人間の「いのち」。それを受け継ぎ、引き渡す。そこには「家族のくらし」というものがある。「家族のくらし」のなかにも「けだもの」の領域はあるだろうけれど、池井の詩の場合、それはかなり少ない。「けだもの」ではなく、もっと違う部分が前面に出ていた。
そして、その違う部分と密接に関係するものが後半に登場する。
自分ではない誰か--その存在は池井の詩には何度も登場する。そしてその誰かは、じっと池井を見つめる。池井は、その「まなざし」を感じる。その「まなざし」につつまれる。それが、これまでの詩である。
この詩では「みみもとで/だれかささやきかけるこえ
」という具合に、「まなざし」ではなく、「こえ」として登場する。「みみ」に働きかけてくる。目には見えないので、その正体はわからず、ただ受け止めるしかない「こえ」。
ほんとうに誰かがささやきかけてくるのか。それとも、池井自身の「にくたい」が発する声なのか。それも、実は、はっきりとはしない。
この3行がすばらしい。「それはあんまりやさしくて」は、これまで池井をつつんでいた「まなざし」と同じ性質である。けれども、声はそれにくわえて「あんまりあんまりくるしくて」という要素がくわわる。
池井が苦しいのではなく、声が苦しい。
けれど人間の肉体というものは不思議なもので、自分の苦しみではなく他人の苦しみであっても、それに触れると苦しみを感じ取ることができる。あ、この声は苦しんでいるのだと感じることができる。他人の苦しみと自分の苦しみは別個のものだから、ほんとうは、他人の苦しみなどに自分の肉体が反応しなくてもよさそうだが、なぜだかわからないが、反応してしまう。--自分のなかにある苦しみの体験、記憶が呼び覚まされるということかもしれない。
この反応を、池井は「みみ」(こえ)で向き合っている。
しかし、正確には向き合えていない。
「みみ」(こえ)が最後で、突然目に見えるもの「つきのひかり」に変わっている。「まなざし」でとらえられるものにかわっている。
これは、池井のことばの不徹底を証明するものだが、その不徹底は同時に、転換期の象徴ともいえるかもしれない。
「みみ」(こえ)で最後までむきあわなければ、「けだもの」の「やさしさ」「くるしさ」と合体できないのだけれど、いまはまだ、一歩を踏み出したという感じなのだ。踏み出しては見たけれど、どこへすすんでいいかわからず、いつもの道へひきかえすしかない。それが「つきのひかり」に象徴されている。
あるいは、「やさしく」「くるしい」声であっても、それが「つきのひかり」のように、池井を静かに照らしてくれるものにかわることを願っている--その願いが最後の行に託されているのかもしれないけれど……。
それがどんなものであるにしろ、池井は、それをはっきりと受け止めたいと、いま感じているのだと思う。知りたいと思っているのだと思う。だから
のである。
この「月の光」に、つぎの「とこしえ」は直接つづいている。別のタイトルがついているが、ほんとうはつづいている。
この詩にでてくる「だれか」は、これまでの池井の詩に登場する「だれか」と同じである。
池井は、「月の光」のなかで、「けだもの」につながる「だれか」に触れている。それは「やさしく」同時に「くるしい」。その「やさしく」「くるしい」ものが、いま、池井の「にくたい」をとおして、ことばになりたがっている。池井はそれを感じている。それを受け止めようとしている。
その一方で、その変化に対して、自分自身でとまどっている。それこそ、その苦しみを受け止めようという「やさしさ」を発揮しながら、その「くるしさ」が「「あんまりあんまりくるしくて」、「にくたい」が立ちすくんでいる。
もし、このまま、池井がその「あんまりあんまりくるしくて」という声のなかに入っていってしまったら、どうなるのだろうか? いままで書いてきた世界はどんなふうにかわるのだろうか。
池井は、ここでは、強く願っている。
たとえ池井が「けだもの」になってしまっても、
ということは受け継がれていくと。その「くらし」の窓の明かりはやがて消えるかもしれない。「とこしえに/あかりはきえてしまうだろう」けれど、その明かりがあったということは、「とこしえに」失われはしない。
私も、そう思う。
だから、池井には、今回書きはじめた「けだもの」の「あんまりあんまりくるしくて」という声を正確に書いてもらいたいと思う。そういう声は「しにたくない」と願っている詩人にしか書けないものである。
「こころ」という詩の最後に登場する「しんぱいがお」の「だれか」は、きっと「あんまりあんまりくるしくて」池井に助けを求めてきた「けだもの」のなかの「やさしい」いのちだと私は信じている。
池井昌樹の詩が変わってきた。「月の光」の前半。
わたしはけだものかもしれない
くらいめをしてかんがえながら
おんなやさけをおもっている
しにたくないとねがっている
「しにたくないとねがっている」に私は驚いた。同じような行を池井がこれまでにも書いているかどうか、ちょっとはっきりしないが、書いていたとしても、今回の詩ほど痛切には響いて来なかった。今回の詩では、とても痛切に響いてくる。
なぜ、死にたくないのか。
まだ、「けだもの」としての「いのち」を詩に書いていないからだ。
池井のこれまでの詩の中心は、「いのち」のリレーである。延々とつづく人間の「いのち」。それを受け継ぎ、引き渡す。そこには「家族のくらし」というものがある。「家族のくらし」のなかにも「けだもの」の領域はあるだろうけれど、池井の詩の場合、それはかなり少ない。「けだもの」ではなく、もっと違う部分が前面に出ていた。
そして、その違う部分と密接に関係するものが後半に登場する。
わたしはけだものかもしれない
いそじもなかばすぎこしてきた
ひとのかおしてすましていても
はなさきにえさぶらさげれば
たちまちしっぽがおきてくる
べんかいしようとしたこえが
きいきいめすをもとめている
わたしはけだものかもしれない
くらいめをしてかんがえこむと
みみもとで
だれかささやきかけるこえ
それはこえだかかささやきだか
かぜのおとかもしれないけれど
それはあんまりやさしくて
あんまりあんまりくるしくて
たえられなくて
おおごえで
だれかよびつづけていたような
それはだれだかだれのかげだか
つきのひかりかもしれないけれど
自分ではない誰か--その存在は池井の詩には何度も登場する。そしてその誰かは、じっと池井を見つめる。池井は、その「まなざし」を感じる。その「まなざし」につつまれる。それが、これまでの詩である。
この詩では「みみもとで/だれかささやきかけるこえ
」という具合に、「まなざし」ではなく、「こえ」として登場する。「みみ」に働きかけてくる。目には見えないので、その正体はわからず、ただ受け止めるしかない「こえ」。
ほんとうに誰かがささやきかけてくるのか。それとも、池井自身の「にくたい」が発する声なのか。それも、実は、はっきりとはしない。
それはあんまりやさしくて
あんまりあんまりくるしくて
たえられなくて
この3行がすばらしい。「それはあんまりやさしくて」は、これまで池井をつつんでいた「まなざし」と同じ性質である。けれども、声はそれにくわえて「あんまりあんまりくるしくて」という要素がくわわる。
池井が苦しいのではなく、声が苦しい。
けれど人間の肉体というものは不思議なもので、自分の苦しみではなく他人の苦しみであっても、それに触れると苦しみを感じ取ることができる。あ、この声は苦しんでいるのだと感じることができる。他人の苦しみと自分の苦しみは別個のものだから、ほんとうは、他人の苦しみなどに自分の肉体が反応しなくてもよさそうだが、なぜだかわからないが、反応してしまう。--自分のなかにある苦しみの体験、記憶が呼び覚まされるということかもしれない。
この反応を、池井は「みみ」(こえ)で向き合っている。
しかし、正確には向き合えていない。
それはだれだかだれのかげだか
つきのひかりかもしれないけれど
「みみ」(こえ)が最後で、突然目に見えるもの「つきのひかり」に変わっている。「まなざし」でとらえられるものにかわっている。
これは、池井のことばの不徹底を証明するものだが、その不徹底は同時に、転換期の象徴ともいえるかもしれない。
「みみ」(こえ)で最後までむきあわなければ、「けだもの」の「やさしさ」「くるしさ」と合体できないのだけれど、いまはまだ、一歩を踏み出したという感じなのだ。踏み出しては見たけれど、どこへすすんでいいかわからず、いつもの道へひきかえすしかない。それが「つきのひかり」に象徴されている。
あるいは、「やさしく」「くるしい」声であっても、それが「つきのひかり」のように、池井を静かに照らしてくれるものにかわることを願っている--その願いが最後の行に託されているのかもしれないけれど……。
それがどんなものであるにしろ、池井は、それをはっきりと受け止めたいと、いま感じているのだと思う。知りたいと思っているのだと思う。だから
しにたくない
のである。
この「月の光」に、つぎの「とこしえ」は直接つづいている。別のタイトルがついているが、ほんとうはつづいている。
けれどゆうひはうつくしい
むかしのはなびのにおいがする
ゆうひをあびて
あさきたみちを
いつものようにかえるとき
わたしのむねがいっぱいになる
がくあじさいがさいている
いしころだらけのみちのさきには
だれかわたしをまっていて
わたしはやがてただいまをいい
やがてだれかとゆうはんをたべ
やがてだれかとねむるだろう
まどにあかりがついている
あかりはやがてきえてしまうだろう
とこしえに
あかりはきえしてまうだろう
がくあじさいがさいている
いつものみちを
いつものように
おかえりとまつ
だれかのもとへ
けれどもゆうひはうつくしい
むかしのはなびのにおいがする
ゆうひをあびて
とこしえに
この詩にでてくる「だれか」は、これまでの池井の詩に登場する「だれか」と同じである。
池井は、「月の光」のなかで、「けだもの」につながる「だれか」に触れている。それは「やさしく」同時に「くるしい」。その「やさしく」「くるしい」ものが、いま、池井の「にくたい」をとおして、ことばになりたがっている。池井はそれを感じている。それを受け止めようとしている。
その一方で、その変化に対して、自分自身でとまどっている。それこそ、その苦しみを受け止めようという「やさしさ」を発揮しながら、その「くるしさ」が「「あんまりあんまりくるしくて」、「にくたい」が立ちすくんでいる。
もし、このまま、池井がその「あんまりあんまりくるしくて」という声のなかに入っていってしまったら、どうなるのだろうか? いままで書いてきた世界はどんなふうにかわるのだろうか。
池井は、ここでは、強く願っている。
たとえ池井が「けだもの」になってしまっても、
だれかわたしをまっていて
わたしはやがてただいまをいい
やがてだれかとゆうはんをたべ
やがてだれかとねむるだろう
ということは受け継がれていくと。その「くらし」の窓の明かりはやがて消えるかもしれない。「とこしえに/あかりはきえてしまうだろう」けれど、その明かりがあったということは、「とこしえに」失われはしない。
私も、そう思う。
だから、池井には、今回書きはじめた「けだもの」の「あんまりあんまりくるしくて」という声を正確に書いてもらいたいと思う。そういう声は「しにたくない」と願っている詩人にしか書けないものである。
「こころ」という詩の最後に登場する「しんぱいがお」の「だれか」は、きっと「あんまりあんまりくるしくて」池井に助けを求めてきた「けだもの」のなかの「やさしい」いのちだと私は信じている。
いろいろやりたいことがある
わたしはこころにおいつけない
きょうまたわたしがねむるとき
こころはあかあかおきてきて
わたしのしらないさえずりや
わたしのしらないはなのにおいや
わたしのしらないときめきで
たちまちわたしをみたすのだ
まだまだやりたいことがある
わたしはけれどもさけをのみ
わたしはいやしくいさかいし
わたしはわたしはわたしはわたしは
わたしをたびかさねるうちに
こころはとおくはこばれて
きょうまたわたしをてらすのだ
みずをたたえたこのほしを
めのみちかけを
たゆたいを
だれもしらないかがやきを
いとおしそうに
しんぱいがおで
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