詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原『石の記憶』(4)

2009-11-13 00:00:00 | 詩集
田原『石の記憶』(4)(思潮社、2009年10月25日発行)

 私の感想は、ちょっと風変わりすぎていて、田原の詩の紹介にはなっていないかもしれない--という気がしないでもない。もっと、普通の(?)感想が書けないものだろうか、と自問してみた。「二階の娘」とか「七月」とか、異性に対してことばがいきいきと動く詩なら、別の(?)魅力、美しい感性、精神の運動について書けるかもしれない--と、思った。

七月は少女の乳房を大きくし
少女の指を長くする
七月の少女は優しくて 大胆で多情である

 この「七月」の1行目の美しさ。そののびやかな肉体、乳房のの豊かさから、2行目の指への視線の動き、そしてそれにともない長い指(指を長くする)から繊細(優しさ)への感覚の動き--そこには、とてもしなやかないのちが息づいている。
 また、

海は少女の情欲にそそられて満潮になる

 という地球と少女の一体感のような動き、その空間というか、いのちのひろがりというか、そうしたとらえ方の巨大さに、大陸的なものを感じる。

 --と、メモをとってみるが、だめ。やっぱり、だめ。

波が私のまぶたの下で逆巻く
先の欠けた刃の上で
風は時間を引っ張って歴史と一緒に転がる
記憶の傷口が戦慄している
瀕死の老人の枯れた命令の声は汚い塩粒のように
その傷口で溶ける

 この、強烈な緊張感、ことばのゆるぎのなさに、「漢詩」の伝統を感じる--、とメモをとってみるが、だめ。やっぱり、だめ。
 そういうメモは、次の部分で吹っ飛んでしまう。

欲情が飽満した七月は
暴雨と洪水の洗礼
大河の濁流が海へ雪崩込む
魚腹の中に秘密が実る
蝉は蝉の鳴き騒ぎの中で死に
鰐の涙は鰐を毒死させる
蛙の鳴き声 法螺貝とぶんぶんと舞う蚊は
肉体を賛美する詩篇を朗読している

 書きたいことが山ほどあるが、ひとつだけ。
 「鰐の涙は鰐を毒死させる」の「鰐」って、何? 「わに」、英語で言う「クロコダイル」? そうなの?
 もしかすると、因幡山の白ウサギに出てくる「わに」のこと? 「鰐鮫」、つまり、サメってこと?
 中国でも、サメのことを「わに」というのかな? そのとき、どう発音する?

 この連では、暴雨というかわったことば(暴風雨は聞いたことがあるけれど、私は「暴雨」ということばを知らない)をはじめ、熟語(漢語?)の音がとても印象に残る。私はもちろん「日本語」の音をあてて読むのだけれど、濁音の豊かな響きがつややかでにぎやかだ。他の音に比べると静かなはずの蚊は「ぶんぶん」という音で元気に飛び回っている。
 でも、「鰐」で、私の耳せ、音を聞きとれなくなる。私の舌は動かなくなる。喉は、空気のとおる音さえ発しない。

 「文字」のなかで、中国と日本が出会っている。けれど、私は、その出会いを「文字」としてしかわからない。「音」としてはまったくわからない。「音」がわからないだけに、より強く「文字」に引っ張られる。
 そして、また、思うのだ。田原は、「鰐」という「文字」を書くとき、いったいどんな「音」を聞いて書いているのか、と。

 ああ、田原の詩をだれか日本語に翻訳してくれないかなあ。谷川俊太郎が翻訳すると、どうなるだろうなあ、とまたしても思ってしまうのだ。

 そんなことを思いながら、詩集を読んでいくと「夏祭--川端康成に」という詩がある。ちょっと奇妙な印象がある。なんとなく田原のことばづかい、音の印象が違う。あとがきには「この詩は元毎日新聞社の記者・新井宝雄氏の目にとまり、彼の手によって日本語に翻訳された」とある。詩集の作品は、その新井の翻訳そのものなのか、新井の翻訳を踏まえて田原が日本語に書き直したものかはっきりしないが、書き直したにしろ、そこに新井訳の日本語が影響しているかもしれない。そのために、ちょっと違う印象がある。
 特に、

あなたの源とそこからの流れに漂い
あなたのすべての中国熟知を畏れ
康成よ! わたしはただ中国の詩
五千年のまことの声をたずさえているだけです

 の、ぎくしゃくした「音」に驚いてしまう。
 そして、そのぎくしゃくした「音」の動きはちょっとわきに置いておくと……。ここに「声」が出てくるところに、私は、もしかすると田原も私と同じように、「文字」と「音」のあいだで、何かを感じているかもしれないとも思うのである。
 「文字」の「底」を流れている「音」(声)。私は田原の「文字」にひかれるが、その奥深いところでは、視覚にならない何か、「音」(声)を聞こうとするからこそ、目に見えるもの(わかるもの)が気になるのかもしれない、とも思うのである。
 そして、次の部分。私は、震えてしまう。

雪国と向き合って あなたがきりもなく
漢字を書いた日本の地で
あなたの寒々とした一生を
わたしは読みました
仰ぎ見て 耳をすまして聞くと
あなたは依然として
ゆっくり独りで歩いている

 「漢字」を「読みました」。そして「耳をすまして聞く」。田原は「漢字」を読んでいる。中国の文字。そのとき、田原の耳に聞こえていたのは「日本語の音」だろうか。「中国語の音」だろうか。
 私たちは、中国から漢字を借りている。そこには「中国の音」(類似の音)も含まれはするけれど、それとは別に「日本の音」もある。「雪国」を中国の音では「ゆきぐに」とは言わないだろう。けれど、「雪国」で中国人も、空から降ってくる雪、そして雪の多い土地を想像するだろう。目で理解するものと、耳で理解するもののあいだの、ずれ。田原も、そういうものをどこかで感じている。耳をすまして、漢字の奥にある日本の音を聞こうとしている。その最初は聞こえなかった「音」、「日本語の音」とともに、川端康成がいるのだ、存在しているのだと感じているように、私にはつたわってくる。

 ああ、「音」が聞きたい。田原は耳を澄まして康成のいのちを聞いたのに、私には田原の「音」が聞こえない。沈黙よりも遠くにある。ただ「文字」だけが、私を揺さぶる。


コメント
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