詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(4)

2009-11-07 00:00:00 | 詩集
阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(4)(思潮社、2009年09月25日発行)

 阿部嘉昭には映画について書いた本があり、音楽について書いた本もある。阿部は「視覚」の人間であると同時に「聴覚」の人間なのだと思う。
 私は映画も音楽も好きだが、実際は「好き」と思い込んでいるだけかもしれない。私は目が悪いし、(手術してから、いっそう見えなくなったが)、耳も悪い。
 「音」に関しては完全な音痴である。たとえば、カラオケというものがある。ある曲を、人がキーを変えて歌っているのを聞く。そうすると私にはその曲がまったく別の曲に聞こえてしまう。知っている曲なのに、音をたどれない。追いかけられない。その人の歌っている音と、もとのキーの音が、ときどき耳のなかでまじりあい、激しく揺さぶられる。現実と記憶が衝突して、船酔いをおこすような感じだ。
 だから、私が書くことは、耳のいい人からみると「でたらめ」「とんちんかん」なことになるのかもしれないけれど、私には、阿部のことばの「音楽」がなじめない。私の感じる「音楽」、私の好む「音楽」と違うだけとういことなのかもしれないけれど、どうも視覚に汚染されているような感じがしてしまうのである。
 「針穴」の途中の2行。

五七五のなかに割る空白を何音にするかはっきりしないが
この何音かが観音だろう、詩は必ず言い了せない。

 「五七五のなかに割る空白」。その美しいイメージ。それは美しいのだが「空白」と次に来る「何音」の関係が、先に書いたカラオケのキーの例で言えば、原曲のキーと、変更後のキーの衝突である。「何音」をなんと読むのかはっきりしないが、その「はっきりしない」(私には、わからない、という意味だが)ことが、「音楽」としてなじめない、ということである。
 そして、そのなじめなさを引き出しているのが「空白」という美しい「視覚」である。「空白」ではなく、もっと「聴覚」になじみのあることばがかわりにあれば、「何音」ということばも違ったものになるかもしれない、と思うのである。(音の「空白」という表現は表現としてあると思うけれど、もっと別のことばの方がきっと「音楽」として「何音」、あるいは「何音」にかわることばと響きあうと思ってしまう。)
 別のことばで言いなおすと。
 「音の遠近感」が、どうも私の感じとは違うのである。音楽には和音がある。和音とは音の遠近感だと私は思っているが、それが、阿部のことばに触れると、何か、かきまぜられてしまう。その印象が強くて、音になじめない部分がある。--音楽について何も知らず、よくまあ、知ったかぶりを書いているなあと反省しながら書いているのだが……。
 うまくいえないが、奇妙な違和感がある。阿部の「音楽」には。
 さらにさらに言い変えれば。(たぶん、以下に書くことの方が、私の感想を正直に伝えることになると思うけれど。)

この何音かが観音だろう

 この音の構成には、阿部独自の「音楽」があるが、その「音楽」と「五七五のなかに割る空白」は、私には完全に別物だと思える。感じられる。その完全に別な「音楽」が、なんと読んでいいかわからない「何音」を中心にしてつながっていく。私には、つかめない。どこが手前? どこが遠く? 何が近景で、何が遠景? 「何音」で、どこからでてきたの?
 「何音」ではなく、私には「難音」である。

 きっと私の読み方が間違っているのだろう。「音楽」の感じ方が、今風ではないのだろう。
 そもそも阿部の書いている「何音」はリズムの数え方、1音、2音(5・7・5)のことだから、それを「音階」をもった「音」と読む方が間違っている、ということかもしれない。
 けれど。
 ねえ、そういうときは、「何音」とは言わずに、「何拍」と言わない? リズムなら、「音」ではなく「拍」じゃない? 「ここの休止は3拍、ちゃんと数えて」とはいうけれど、「ここの休止は3音」とはいわないのじゃないだろうか? と、私のことばの「遠近法」は、どこかで異議を呟くのである。たしかに「5・7・5」は「5音7音5音」であって、「5拍7拍5拍」とは言わないけれど……。

 ようするに、「空白」「何拍」の方が、「何音」「観音」よりも、私の「音の遠近法」にはなじみやすいのである。それだけのことである。たぶん。

 なんだか、私のことばかり書いてしまった。やっぱり、私の読み方が間違っているのだろう。
 「何音」がもっている不思議な「ノイズ」(私の知っている「音楽」ではとらえられないん音)に耳を澄まし、そこから阿部の詩を読み直すべきなのだろう。
 使い古された「遠近法」(和音)を破壊し、ことばを動かす。いままでのことばの運動を破壊するために、あえて「ノイズ」を組み込み、「意味」の流れを、破壊する。新しい流れをつくりだす。それは、最初は、ただ、まわりの風景を荒らすだけかもしれない。けれど、繰り返し繰り返し、それまでの「遠近法」を叩き壊していると、そのなかからきっと新しい流れ、河が生まれてくる。新しい河が新しい遠近法をつくる。
 そして、そういう新しい河(流れ、遠近法)をつくるには、水源に膨大な水量が必要である。エネルギーが必要である。あふれるままにまかせ、それがどこへ行こうと関係ない。あふれつづけることこそが大事なのだ。
 たしかに、そうなのだ。
 どんなものでも、あとから説明がつく。音楽に「不協和音」ということばがあるが、「不協和音」などというものは「規則」にのっとって理解するから「不協和音」なのであって、「音楽」になってしまえば、それは新しいひとつの「和音」、いままで人が知らなかった「和音」というのにすぎない。
 阿部は新しい「和音」を探しているのである。私の耳にはその「新しい和音」を見つけ出すことはむずかしい。きっと、だれか、ほかの人がそのことを書いてくれるに違いないと思う。あるいは、阿部自身が、「ここが新しい」と書くことになるのかもしれないが……。

 新しい時代の、強靱な耳をもった人の、感想・批評を読んでみたいと思った。



 詩集には「春ノ永遠」という長い詩があるのだが、私のいまの視力にはなかなか読むのがたいへんである。ほんの少し、思いつきの感想だけ。

「明月が来月に出た」
端的には腹が減った
減った腹を愛撫して
再帰性のあこがれを知る
性器以上のことだ
「ここがここだ」

 こういう「視覚」に汚染されない「音楽」が好きだ。「音楽」は「視覚」よりも「触覚」が似合う。たぶん、触覚は「音」を出すからだろう。「目」で何かを叩いても、反応するのは「こころ」くらいである。「目」がものをいうのは「こころ」に対してである。けれども、「触覚」は違う。「触覚」のリズムは、そのままだれかの「肉体」に伝えられる。減った腹を撫でる「自己愛」から、性器(きっと、異性の、であって、自分のじゃないよね)を撫でるへ変化していくときの「遠近法」。
 いいなあ。
 「視覚」はここではかかれていないけれど、私は基本的に「視覚」の人間なのか、「触覚」しか書かれていないのに、なぜか、性器まで「見て」しまう。どこかで感覚が越境する。「触覚」が知らずに、記憶の「視覚」を呼び覚まし、いっしょになって動いていく--こういう運動を誘うことばが、私はとても好きだ。




僕はこんな日常や感情でできています?サブカルチャー日記
阿部 嘉昭
晶文社

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