北川朱美『電話ボックスに降る雨』(思潮社、2009年09月17日発行)
北川朱美の詩には他人が出てくる。「他人のことば」と言い換えた方がいいかもしれない。「舌あそび」その後半。
キリンの不思議な行動。それを説明する「他人」のことば。そのことばに北川は揺さぶられ、それまでの北川ではなくなってしまう。ここに北川の「思想」がある。「肉体」がある。
他人に出会う。他人のことばに出会う。そのとき、他人を拒絶するのではない。他人のことばを否定するのではない。全身で受け入れる。肉体で受け止める。他人のことばが教えてくれるもの、「自分の肉体」にないもの--正確にいうと、「自分の肉体」にもあるのだけれど、気がつかなかったもの、意識しなかったものを、ていねいに見つめなおす。他人のことばをとおして他人を知るのではない。他人のことばをとおして、自分自身の肉体のなかに生きている「他人」を発見し、その肉体を生きてみる。その肉体がどんなふうに動いていくのか、その動きをていねいにたどり直してみる。
この、他人のことばを受け入れ、それを北川自身の肉体で受け止め、そのことばにしたがって肉体を動かしてみる。そして、そのとき動いた肉体を自分自身の「思想」として育ててゆく--この姿勢は、北川が書いている「批評」そのもののあり方でもある。
きょうの「日記」は「批評」についての感想ではないで、もう一篇、北川の詩を引用する。そこに「他人」(他人のことば)とは何かについて語った美しい表現がある。
「縁台の人」のなかほど。
幾通りもの読み方ができるかもしれないが、私は、「鳥」を「他人」と読んだ。その墜落を「鳥のことば」と読んだ。
鳥に重さがある。その発見は、また、北川自身の肉体にも重さがあることの発見でもある。北川も「堕ちて」ゆくことがあるのだ。それを教えてくれる鳥。教えてくれた鳥。
「遅刻する」とは、ほんらい、自分自身の肉体のなかにあるはずのものを見落としていて、気づくのに遅れる、というくらいの意味だろう。自分自身の肉体ではなく、自分自身の肉体の外にあるもの、遠くにあるもの、そういうものに気をとられていると、自分自身の肉体のなかにあるもの、自分自身の肉体のなかでうごめいているいのちに気がつかないことがある。
高尚な?西欧の哲学のことばなんかを気にして追いかけていると、自分の「頭」が知らないものに気を取られて、そのことばなんかを追いかけていると、自分の肉体のなかにあることばにならないことば、未生のことばに気がつかないことがある。
その気がつかずにきた何か、ことばにならない肉体のなかのいのち--それは「希望」である。それは「他人」が教えてくれる。「他人」が北川の「肉体」にも、そのいのちがあることを教えてくれる。
「他人のことば」と北川の「肉体」との出会い。その瞬間を北川は「希望」と読んでいる。
こんな美しい「希望」に出会ったのは久しぶりだ。
もう少し補足。「麦わら帽子の穴」の書き出し。
「見たことのある光景」。これを「他人」と言い換えてみることもできる。「他人」はいつでもはじめての人ではなく「見たことのある人」なのだ。どこで、見たのか。自分自身の「肉体」のなかで見たことがある。それは「見たことがある」だけであって、ことばにしたことはない。ことばにはならなかった。「未生のことば」のまま、意識されずにすーっと通りすぎて隠れてしまった。それを再び発見する。その瞬間。北川は「息をのんで」立ちすくむ。それから、ふーっと息をはいて、そのはいた息のなかに、ことばをのせる。「他人」が教えてくれた北川の「肉体」に眠っている「北川という他人」(新しい他人)をことばにする。
そして生まれ変わる。生きるとは、生まれ変わることだ。
他人に出会い、その一期一会の瞬間を大切にして、自分の「肉体」を開き、新しく生まれ変わる--その誕生、再生、それが「希望」のすべてである。
(9月下旬、網膜剥離で手術、入院していて、いまごろになってやっと読んだ。「現代詩手帖」の今年の収穫のアンケートには、そういう事情もあって書き漏らしたが、これはとてもいい詩集だ。)
北川朱美の詩には他人が出てくる。「他人のことば」と言い換えた方がいいかもしれない。「舌あそび」その後半。
置き去りにされたアフリカの雲
みたいな帽子をかぶって
動物園に出かけたら
固形飼料を食べたばかりのキリンが
長い舌をだらりと垂らして
右へ左へ振りつづけていた
--遠い日に
舌で木の葉をからめ取った記憶が
消えないのです
誰も知らないキリンのあそび
帰りに路上で描いてもらった似顔絵は
すこし笑っていた
友だちみたいだったから
その日ついたウソを一つ広げて
ひと晩じゅう舌を揺らした
キリンの不思議な行動。それを説明する「他人」のことば。そのことばに北川は揺さぶられ、それまでの北川ではなくなってしまう。ここに北川の「思想」がある。「肉体」がある。
他人に出会う。他人のことばに出会う。そのとき、他人を拒絶するのではない。他人のことばを否定するのではない。全身で受け入れる。肉体で受け止める。他人のことばが教えてくれるもの、「自分の肉体」にないもの--正確にいうと、「自分の肉体」にもあるのだけれど、気がつかなかったもの、意識しなかったものを、ていねいに見つめなおす。他人のことばをとおして他人を知るのではない。他人のことばをとおして、自分自身の肉体のなかに生きている「他人」を発見し、その肉体を生きてみる。その肉体がどんなふうに動いていくのか、その動きをていねいにたどり直してみる。
この、他人のことばを受け入れ、それを北川自身の肉体で受け止め、そのことばにしたがって肉体を動かしてみる。そして、そのとき動いた肉体を自分自身の「思想」として育ててゆく--この姿勢は、北川が書いている「批評」そのもののあり方でもある。
きょうの「日記」は「批評」についての感想ではないで、もう一篇、北川の詩を引用する。そこに「他人」(他人のことば)とは何かについて語った美しい表現がある。
「縁台の人」のなかほど。
すこし熱があって学校を休んだ日
ふとんのなかから
しゅろのほうきで掃き散らしたような
雲を見ていたら
とつぜん庭に鳥が堕ちてきて
はじめて鳥にも重さがあることを知った
遠いものに気をとられるうちに
何かに遅刻する
それは私にとって
希望のようなものだった
幾通りもの読み方ができるかもしれないが、私は、「鳥」を「他人」と読んだ。その墜落を「鳥のことば」と読んだ。
鳥に重さがある。その発見は、また、北川自身の肉体にも重さがあることの発見でもある。北川も「堕ちて」ゆくことがあるのだ。それを教えてくれる鳥。教えてくれた鳥。
「遅刻する」とは、ほんらい、自分自身の肉体のなかにあるはずのものを見落としていて、気づくのに遅れる、というくらいの意味だろう。自分自身の肉体ではなく、自分自身の肉体の外にあるもの、遠くにあるもの、そういうものに気をとられていると、自分自身の肉体のなかにあるもの、自分自身の肉体のなかでうごめいているいのちに気がつかないことがある。
高尚な?西欧の哲学のことばなんかを気にして追いかけていると、自分の「頭」が知らないものに気を取られて、そのことばなんかを追いかけていると、自分の肉体のなかにあることばにならないことば、未生のことばに気がつかないことがある。
その気がつかずにきた何か、ことばにならない肉体のなかのいのち--それは「希望」である。それは「他人」が教えてくれる。「他人」が北川の「肉体」にも、そのいのちがあることを教えてくれる。
「他人のことば」と北川の「肉体」との出会い。その瞬間を北川は「希望」と読んでいる。
こんな美しい「希望」に出会ったのは久しぶりだ。
もう少し補足。「麦わら帽子の穴」の書き出し。
生きるとは
見たことのある光景に
息をのんで出くわすことだ
「見たことのある光景」。これを「他人」と言い換えてみることもできる。「他人」はいつでもはじめての人ではなく「見たことのある人」なのだ。どこで、見たのか。自分自身の「肉体」のなかで見たことがある。それは「見たことがある」だけであって、ことばにしたことはない。ことばにはならなかった。「未生のことば」のまま、意識されずにすーっと通りすぎて隠れてしまった。それを再び発見する。その瞬間。北川は「息をのんで」立ちすくむ。それから、ふーっと息をはいて、そのはいた息のなかに、ことばをのせる。「他人」が教えてくれた北川の「肉体」に眠っている「北川という他人」(新しい他人)をことばにする。
そして生まれ変わる。生きるとは、生まれ変わることだ。
他人に出会い、その一期一会の瞬間を大切にして、自分の「肉体」を開き、新しく生まれ変わる--その誕生、再生、それが「希望」のすべてである。
(9月下旬、網膜剥離で手術、入院していて、いまごろになってやっと読んだ。「現代詩手帖」の今年の収穫のアンケートには、そういう事情もあって書き漏らしたが、これはとてもいい詩集だ。)
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