監督 クエンティン・タランティーノ 出演 ブラッド・ピット、メラニー・ロラン、クリストフ・ヴァルツほか
ヒットラー暗殺計画を描いている。「お話」なのだが、「お話」の「間(ま)」がとてもおもしろい。とても、いい。とても、すばらしい。「間」のとり方が、傑作である。
「1章」「2章」……と「章」仕立てである。その「章」ごとの区切りが、想像力に余裕(?)を持たせる。どんな映画でも、ストーリーの時間は現実の日常のようにずーっと連続しているわけではなく、重要なシーンだけを断続的につなげているのだが、その断続とつながりを「章」として明確にするので、「章」がかわるたびに「一息」つけるである。「1章」から「2章」にかわる。そのとき、「1章」のことはいったん忘れ(?)、新しい作品に触れるような、新鮮な気持ちになれる。その「新鮮さ」を引き出す工夫としての「間」がいいのである。
この「間」は、そして映画全体の「間」と静かに響きあう。
過激なのだけれど、ゆったりしている。ゆったりしているけれど、過激である。ナチスの頭の皮を剥ぐシーンなど、とっても残酷なのだけれど、「章」「章」という区切りが「お話」の印象を強くして、「これは、どうせ、お話」という感じを自然にかもしだす。「お話」だから、何があってもいい。「ウソ」がまじっていてもいい。
映画は、まあ、現実ではなくウソなんだけれど、いかにほんとうらしく見せるかということに力点が置かれる。この映画は、そうではなく、ほんものに見えるかもしれないけれど、これはあくまでウソ、映画ですよ--といいながら映像をつなげるのである。
音楽も同じ。現実感をもりあげる音楽ではなく、現実を裏切るような感じで音楽が響く。これはあくまでウソ。効果音。こんなとき、こんな音楽が聞こえるなんてありえない。でも、そのありえないことが、なんというか、想像力が何かにのめりこむのを引き止めてくれる。想像力が駆けださない。暴走しない。そういう「おかしさ」の「間」が、なんともいえずに、すばらしい。
途中に、ふいに出てくる「登場人物」の「字幕」がまた傑作である。ふつうは台詞で紹介するものなのだが、そういうシーンはなし。省略して、突然スクリーンに矢印で、この人、だれそれ、と字幕があらわれる。ナレーションも一部にあるが、そのナレーションの感じも、「間」を引き立てる。映像で説明する変わりに、ぱっとことばで説明してしまう。映画としては、いわば「反則」なのだが、その「反則」がおかしい。
もしかしたら、これは、「反則」をみせるための映画なのもしれない。「反則」がどこまで許されるか--それを楽しむ映画なのかもしれない。
そして、その「反則」にあわせるように……。
クリストフ・ヴァルツの演技が絶妙である。(ちょっと、ティム・ロスを感じさせる。)「ユダヤ人ハンター」というあだ名をもつ将校だが、優雅で、その優雅であることが残酷という姿が、映画全体とぴったりあっている。「間」のとり方も、映画のすべてのシーンに共通する。「1章」のフランス語から英語、英語からフランス語への切り替えなど、アメリカの何でも英語という映画をからかいながら、その切り替えそのものがストーリーにもからんでくるという不思議な「間」をつくっている。「間」が「ほんとう」をつくりあげている。ストーリーは「お話」だけれど、そこで描かれている人と人のやりとりの「間」はほんものであって、「間」がほんものだから「人」が「人」ではなく「人間」になって動く--そういう瞬間を、きちんと支えている。
ほんとうは「狂言回し」が役どころなのだが、知らず知らず、主役になってしまっている。あまりに演技がすばらしく、それにあわせてタランティーノが脚本を変えてしまったのではないのか、と思うくらいである。
「真実に基づくストーリー」を売り物にする映画があふれるなかにあって、この映画は「真実に基づかないお話」を前面に出すことで、不思議なくらい人間をいきいきとスクリーンによみがえらせている。
ヒットラー暗殺計画を描いている。「お話」なのだが、「お話」の「間(ま)」がとてもおもしろい。とても、いい。とても、すばらしい。「間」のとり方が、傑作である。
「1章」「2章」……と「章」仕立てである。その「章」ごとの区切りが、想像力に余裕(?)を持たせる。どんな映画でも、ストーリーの時間は現実の日常のようにずーっと連続しているわけではなく、重要なシーンだけを断続的につなげているのだが、その断続とつながりを「章」として明確にするので、「章」がかわるたびに「一息」つけるである。「1章」から「2章」にかわる。そのとき、「1章」のことはいったん忘れ(?)、新しい作品に触れるような、新鮮な気持ちになれる。その「新鮮さ」を引き出す工夫としての「間」がいいのである。
この「間」は、そして映画全体の「間」と静かに響きあう。
過激なのだけれど、ゆったりしている。ゆったりしているけれど、過激である。ナチスの頭の皮を剥ぐシーンなど、とっても残酷なのだけれど、「章」「章」という区切りが「お話」の印象を強くして、「これは、どうせ、お話」という感じを自然にかもしだす。「お話」だから、何があってもいい。「ウソ」がまじっていてもいい。
映画は、まあ、現実ではなくウソなんだけれど、いかにほんとうらしく見せるかということに力点が置かれる。この映画は、そうではなく、ほんものに見えるかもしれないけれど、これはあくまでウソ、映画ですよ--といいながら映像をつなげるのである。
音楽も同じ。現実感をもりあげる音楽ではなく、現実を裏切るような感じで音楽が響く。これはあくまでウソ。効果音。こんなとき、こんな音楽が聞こえるなんてありえない。でも、そのありえないことが、なんというか、想像力が何かにのめりこむのを引き止めてくれる。想像力が駆けださない。暴走しない。そういう「おかしさ」の「間」が、なんともいえずに、すばらしい。
途中に、ふいに出てくる「登場人物」の「字幕」がまた傑作である。ふつうは台詞で紹介するものなのだが、そういうシーンはなし。省略して、突然スクリーンに矢印で、この人、だれそれ、と字幕があらわれる。ナレーションも一部にあるが、そのナレーションの感じも、「間」を引き立てる。映像で説明する変わりに、ぱっとことばで説明してしまう。映画としては、いわば「反則」なのだが、その「反則」がおかしい。
もしかしたら、これは、「反則」をみせるための映画なのもしれない。「反則」がどこまで許されるか--それを楽しむ映画なのかもしれない。
そして、その「反則」にあわせるように……。
クリストフ・ヴァルツの演技が絶妙である。(ちょっと、ティム・ロスを感じさせる。)「ユダヤ人ハンター」というあだ名をもつ将校だが、優雅で、その優雅であることが残酷という姿が、映画全体とぴったりあっている。「間」のとり方も、映画のすべてのシーンに共通する。「1章」のフランス語から英語、英語からフランス語への切り替えなど、アメリカの何でも英語という映画をからかいながら、その切り替えそのものがストーリーにもからんでくるという不思議な「間」をつくっている。「間」が「ほんとう」をつくりあげている。ストーリーは「お話」だけれど、そこで描かれている人と人のやりとりの「間」はほんものであって、「間」がほんものだから「人」が「人」ではなく「人間」になって動く--そういう瞬間を、きちんと支えている。
ほんとうは「狂言回し」が役どころなのだが、知らず知らず、主役になってしまっている。あまりに演技がすばらしく、それにあわせてタランティーノが脚本を変えてしまったのではないのか、と思うくらいである。
「真実に基づくストーリー」を売り物にする映画があふれるなかにあって、この映画は「真実に基づかないお話」を前面に出すことで、不思議なくらい人間をいきいきとスクリーンによみがえらせている。
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