詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

クエンティン・タランティーノ監督「イングロリアス・バスターズ」(★★★★)

2009-11-22 19:57:23 | 映画
監督 クエンティン・タランティーノ 出演 ブラッド・ピット、メラニー・ロラン、クリストフ・ヴァルツほか

 ヒットラー暗殺計画を描いている。「お話」なのだが、「お話」の「間(ま)」がとてもおもしろい。とても、いい。とても、すばらしい。「間」のとり方が、傑作である。
 「1章」「2章」……と「章」仕立てである。その「章」ごとの区切りが、想像力に余裕(?)を持たせる。どんな映画でも、ストーリーの時間は現実の日常のようにずーっと連続しているわけではなく、重要なシーンだけを断続的につなげているのだが、その断続とつながりを「章」として明確にするので、「章」がかわるたびに「一息」つけるである。「1章」から「2章」にかわる。そのとき、「1章」のことはいったん忘れ(?)、新しい作品に触れるような、新鮮な気持ちになれる。その「新鮮さ」を引き出す工夫としての「間」がいいのである。
 この「間」は、そして映画全体の「間」と静かに響きあう。
 過激なのだけれど、ゆったりしている。ゆったりしているけれど、過激である。ナチスの頭の皮を剥ぐシーンなど、とっても残酷なのだけれど、「章」「章」という区切りが「お話」の印象を強くして、「これは、どうせ、お話」という感じを自然にかもしだす。「お話」だから、何があってもいい。「ウソ」がまじっていてもいい。
 映画は、まあ、現実ではなくウソなんだけれど、いかにほんとうらしく見せるかということに力点が置かれる。この映画は、そうではなく、ほんものに見えるかもしれないけれど、これはあくまでウソ、映画ですよ--といいながら映像をつなげるのである。
 音楽も同じ。現実感をもりあげる音楽ではなく、現実を裏切るような感じで音楽が響く。これはあくまでウソ。効果音。こんなとき、こんな音楽が聞こえるなんてありえない。でも、そのありえないことが、なんというか、想像力が何かにのめりこむのを引き止めてくれる。想像力が駆けださない。暴走しない。そういう「おかしさ」の「間」が、なんともいえずに、すばらしい。
 途中に、ふいに出てくる「登場人物」の「字幕」がまた傑作である。ふつうは台詞で紹介するものなのだが、そういうシーンはなし。省略して、突然スクリーンに矢印で、この人、だれそれ、と字幕があらわれる。ナレーションも一部にあるが、そのナレーションの感じも、「間」を引き立てる。映像で説明する変わりに、ぱっとことばで説明してしまう。映画としては、いわば「反則」なのだが、その「反則」がおかしい。
 もしかしたら、これは、「反則」をみせるための映画なのもしれない。「反則」がどこまで許されるか--それを楽しむ映画なのかもしれない。
 そして、その「反則」にあわせるように……。
 クリストフ・ヴァルツの演技が絶妙である。(ちょっと、ティム・ロスを感じさせる。)「ユダヤ人ハンター」というあだ名をもつ将校だが、優雅で、その優雅であることが残酷という姿が、映画全体とぴったりあっている。「間」のとり方も、映画のすべてのシーンに共通する。「1章」のフランス語から英語、英語からフランス語への切り替えなど、アメリカの何でも英語という映画をからかいながら、その切り替えそのものがストーリーにもからんでくるという不思議な「間」をつくっている。「間」が「ほんとう」をつくりあげている。ストーリーは「お話」だけれど、そこで描かれている人と人のやりとりの「間」はほんものであって、「間」がほんものだから「人」が「人」ではなく「人間」になって動く--そういう瞬間を、きちんと支えている。
 ほんとうは「狂言回し」が役どころなのだが、知らず知らず、主役になってしまっている。あまりに演技がすばらしく、それにあわせてタランティーノが脚本を変えてしまったのではないのか、と思うくらいである。 

 「真実に基づくストーリー」を売り物にする映画があふれるなかにあって、この映画は「真実に基づかないお話」を前面に出すことで、不思議なくらい人間をいきいきとスクリーンによみがえらせている。



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齋藤健一「異風」ほか、有田忠郎「消失点と月」

2009-11-22 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
齋藤健一「異風」ほか、有田忠郎「消失点と月」(「乾河」56、2009年10月01日発行)

 きのう野村喜和夫の『ZOLO』の「勝手にそのように想像し」ということばについて触れた。この「勝手にそのように想像し」というのは、私の好きなことばで言いなおせば「誤読」ということである。誤読する--それが「文学」の楽しさだ。そして、それは生きる楽しさと言い換えてもいいかもしれない。おかしさ、と言い換えることもできると思う。
 たとえば、誰かに「好きです。大好きです」と打ち明ける。すると「迷惑です」と返事がかえって来る。そこであきらめてしまえば「文学」にならないけれど、「あ、これはきっと『好きです』という言い方に問題があったのだ。もっと情熱的なことばで迫らなければいけなかったのだ」と「誤読」して、あれこれことばをひねりはじめ、そのことばを「暴走」させると、そこから「文学」が生まれる。(可能性がある。)また、そこであきらめたとしても、ただ引き下がるのではなく、自分自身の内部へ内部へと引きこもって、ああでもない、こうでもないということを思いながらことばを「暴走」させると、そこからも「文学」ははじまる。(可能性がある。)
 あらゆることを「勝手に想像し」、ことばにしてしまう。「誤読」をことばにしてしまう。そこから「文学」ははじまる。プラトンが「文学」を否定する理由はそこにある。そして、プラトンが間違っている理由もそこにある。
 どこまで「誤読」を暴走させることができるか。「暴走」のなかで、どこまで感情や感覚、精神を自由にすることができるか。その可能性を浮かび上がらせることができるか。そういう追求が、人間には必要なのだ。
 どこまで「誤読」の暴走をことばは追いかけることができるか。あるいは、「誤読」の暴走を追いかけるだけではなく、追い越すことができるか。「誤読」の暴走を、ことばが追い越したとき、それは傑作になるのだと思う。

 野村のことばは「暴走」をていねいに(--というと、変な言い方になってしまうけれど、ともかく忠実に)追いかけている。そういう作品は、ある意味で「わかりやすい」。あ、勝手な想像をして、野村って変な奴、と楽しめばいい。
 そうではない「暴走」というか、逆向きの「勝手な想像」というものも、なかにはある。それが、ちょっと、困る、というか、この困るはもちろん反語で、楽しい--この楽しいもほんとうは反語で、うーん、困る。どうしようか……。
 というのが、たとえば齋藤健一の「異風」である。

一枚の紙片があり。風の方角。古い机や畳や。かがやく
硝子板がしだいに疲れてくる。しかし、午前。熱い手の
平と皮膚。軒先のドクダミ。緑の暗く。肩の病間。鉄製
の寝台だ。垂直。はばたく雀の翼。音は見失われる。静
かであるぼく。

 齋藤の作品では想像力の「暴走」がことばで追いかけられていない。逆に、「暴走」した部分を削除して、句点「。」で隠蔽(?)してしまっている。句点「。」で区切られたことばとことばの間に、どんなことばがあるのか--それを齋藤は書かない。読者に任せてしまう。
 それは深い谷間か。あるいは、とんでもない絶壁か。
 わからない。わからないけれど、その断崖(上から見れば谷間、下から見れば巨大な山)とその手前の短いことば、あるいはその向こうの短いことばが、ここまで来いよ、と誘うのだ。そのことばが存在する地点まで「誤読」をできるかい? 「勝手に想像」できるかい?と挑発するのだ。
 うーん、困る。うーん、うれしい。
 「かがやく硝子板がしだいに疲れてくる。」なんて、なんのことかわからないけれど、わかるんですねえ。矛盾した言い方だけれど、ふと、哀愁に満ちた気分、センチメンタルな感じで、たとえば廃校の(分校の)ガラス窓を見ながら、なつかしいなあ、なんて思ったりした瞬間を思い出し、あ、「疲れる」ってこういうことだなあ--なんて、齋藤が書いていることとは関係なく、自分の「記憶」をひっぱりだしてきてしまう。
 違うのに。そんなことじゃないのに。それが、わかるから、困る。けれど、そんな自分とは関係ないことばであるはずなのに、そのことばからも自分の感情を共振させて、なんとなく、だれか私の気持ちをわかっているひとがいると感じる。ああ、うれしいな。でも、これって、完全なる「誤読」。ああ、困ったなあ。

 齋藤のことばの「暴走」を読みたいのに、私のことばが「暴走」する。

 でも、これはよくよく考えてみれば、すべての「文学」にあてはまることかもしれない。そこにどんな「暴走」が書かれていても、そしてそれが「作者のことば」であっても、最終的にそのことばを追いかけ「暴走」するのは、読者(私)なのだ。
 読者はいつでも作者を放り出して「暴走」する権利を持っている。
 作者には「暴走」する権利はない。ただし、読者を「暴走させる」ことができるという特権を持っている。
 読者は作者を暴走させることができない。けれども、作者は読者を暴走させることができる。

 齋藤は、そして、この「特権」をとても短いことばでやってのける。
 「軒先のドクダミ。緑の暗く。」はドクダミと暗い緑が呼び合ってひとつの風景になるが、そのあとの「肩の病間」って、何? 病魔よりも、空虚で(間ということばが、漠然としたひろがり、むなしさを呼んでいる)、さびしい感じがする。
 どこへ、私は「暴走」できるだろうか。
 病室、冷たい鉄の寝台。--というようなことばから、闘病中の、静かな男を「勝手に想像」するが、その「静かさ」は、「病間」によって、尋常なものでは追い付けなくなる。孤独な男、過去を思い出し(古い机、畳)、耳を澄まし(はばたく雀、その音、失われる音--すべては失われると感じるこころ)……。
 私の「勝手な想像」はそれくらいで、「病間」に追い付けない。「暴走」できない。「病間」が「暴走」を誘っているのに、私は、それを見ているだけである。
 ああ、くやしい。困る。そして、そんなことばがあると知って、なぜかうれしい。

 「手帳」の書き出し。

雪が来る前。バスの停留所。ゴミ箱の底の寒さ。

 「ゴミ箱の底の寒さ。」このしっかりした視線。視線と皮膚感覚の融合。こうしたことばの「緊密な暴走」(俳句の遠心と求心のようなもの)にも、とても刺戟される。
 「宇宙」をときあかす科学の「暴走」の一方で、「素粒子」をときあかす科学の「暴走」がある。「ゴミ箱の底の寒さ。」は素粒子の世界を解きあかす「暴走」のようなものである。そして、素粒子論がそのまま宇宙論につながるように、ここにはやはり、微細な感覚を超えていくものがある。

 有田忠郎の「消失点と月」も、「素粒子論へと暴走することば」のような趣がある。「乾河」同人の全員に、何か、そういうていねいさ、ていねいなことばの「暴走」感覚があるが……。
 「消失点と月」の前半。

通りをあるいていると
ビルに沿って月が
ゆっくり降りてくる
あるくにつれて
月も降りてくるのだ
道路とビル街は真っ直ぐに延び
とおい消失点でまじわる

だが月はそこでは消失しない
ビル街も道も
消えはしない
消失するのはこのわたしだ
空間のゼロ点に入るのは
時間のゼロ点に入ってゆくことだ

 誘われてしまうのだ。「空間のゼロ点」「時間のゼロ点」ということばでしか存在しない「場」、それを描き出してしまうことばの暴走・ことばの暴力に。



有田忠郎詩集 (日本現代詩文庫)
有田 忠郎
土曜美術社

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