詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫『ZOLO』

2009-11-21 00:00:00 | 詩集
野村喜和夫『ZOLO』(思潮社、2009年10月25日)

 野村喜和夫については何度か書いたことがあるので、いつもと違ったことを書いてみたい--と思うけれど、まあ、どんなふうに書いても同じになるかもしれない。
 私は詩集でも小説でも新聞記事でもいいのだが、読んでいて、ふいにつまずくことがある。意識がぴたっととまる。思わず、今読んだ部分を読み返す、ということがある。そして、そこに「思想」が隠れていると感じる。「肉体」が隠れていると感じる。いや、「肉体」の「恥部」が見えたと感じてしまう。
 「恥部」って、ことばそのものがいやらしいけれど、「性器」というよりは「恥部」。ほんとうは隠しておかないといけないのだけれど、隠し忘れた部分。まあ、見せたい人もいるかもしれないけれど、一般的には隠しておくべきもの、(大切な人には見せてもいいもの)、と考えられているもの。--そういうものって、「ちらっ」としか見えなくても、あ、今、見えた--と思うでしょ? そういう感じで、ぴたっと視線が止まる。ねえ、もう一度見せて--という感じで、おずおずと引き返し、ことばを読み返す。
 そういう瞬間。

 いろいろあるのだけれど、たとえば「光の成就」という作品。スペイン・アンダルシアを旅したときのことを書いている。エッセイのようなものだね。バスが葬列に出会い、列の後をゆっくりゆっくり進む。そのときのことを書いている。「生まれたての死者」という魅力的なことばがあって、そのことばゆえに私はこの作品が大好きだが、私が「つまずいた」のは次の部分。

死者はこの村の老婦人のひとりなのだ。この村に生を受け、この村で死んでゆく老婦人。勝手にそのように想像し、だがあろうことか、そんな縁もゆかりもない死者なのに、私とのあいだに、みえない光の波動さながらの微細微妙な交流が生まれつつあった。

 私が感じた「恥部」。それは、たぶん、ほかの人が感じる「恥部」とは違うだろうと思う。
 「生まれたばかりの死者」もそうだけれど、たぶん、多くの人はそういう「特別なことば」(印象的なことば)を「キーワード」と考えると思う。今引用した部分で言えば「光の波動」とか「交流」とか。
 だが、私がつまずくのは、そういうことばではない。「生まれたての死者」「みえない光の波動」「交流」というようなことばには「意味」があって、そういう「意味」は「意味」として「頭」を刺戟するけれど、「恥部」というのではない。
 「恥部」を(論理が矛盾するかもしれないけれど)、「性器」と言い換えてみる。「性器」--それはなくてはならないもの。そして、ひとには見せないもの。
 「生まれたての死者」というのは、まあ、「見せないもの」ではない。野村は何度も同じことばを書いている。それは「見せない」というよりは、むしろ「見せるもの」である。そういうものはたとえ「性器」であっても、「恥部」ではない。「商売道具」である。「みえない光の波動」や「交流」も「商売道具」、別のことばで言えば「流通貨幣」のようなものである。
 では、何が「恥部」か。隠しておくべきものだったのか。

勝手にそのように想像し

 この「勝手に」「想像し」が「恥部」である。そして、野村の「肉体」であり、「思想」である。
 先の文章(引用した部分)から、「勝手にそのように想像し、」という節を削除してみると、私のいいたいことがわかりやすくなる。

死者はこの村の老婦人のひとりなのだ。この村に生を受け、この村で死んでゆく老婦人。だがあろうことか、そんな縁もゆかりもない死者なのに、私とのあいだに、みえない光の波動さながらの微細微妙な交流が生まれつつあった。

 なくても「意味」は通じる。ない方が、「みえない光の波動」「交流」が強烈になるかもしれない。「みえない」ゆえに、よりくっきりと「みえる」という矛盾が強烈につたわってくるかもしれない。(つたわる、と私は確信している。)
 なくてもいいのに、野村は書いてしまった。
 そこには「書いている」という意識さえ、ないと思う。
 「生まれたての死者」「みえない光の波動」「交流」ということばを野村は「意識」して書いているが、「勝手にそのように想像し」は無意識に書いている。それが「思想」だ。「肉体」だ。「無意識」になってしまったことば。「無意識」になるまで「肉体」にしみついたことば。
 読者からすればなくてもいいことば。けれども作者が知らずに書いてしまうことば。通ってしまうことば。それが「思想」。それが「キーワード」。私は、そういうことばにつまずく。そして、そこから詩人の「思想」をもう一度考え直す。見つめなおす。

 別な言い方をしよう。
 この詩集にはいろいろな「物語」が書かれている。そしてそれは、野村が「勝手に(そのように)想像し」たものである。現実には別の「物語」があるかもしれない。けれど、野村はそういう「物語」とは別に、「勝手に(そのように、べつのことがらを)想像し」、ことばを動かしていく。
 たとえば「肉の恍惚」では、アオムシとアオムシコマユバチの「物語」が寄生されたアオムシの声として書かれている。アオムシには声があったとしても、そんなものは日本語ではないから、そこに書かれていることばは、野村が「勝手にそのように想像し」たものである。
 念のために書いておくと、この「物語」を読みながら、私は、へえーっ、そんな昆虫がいるんだ--と思ったが、ほんとうにいるかどうか、私は確かめていません。そんな昆虫がいるかどうかは、問題ではない。この作品を動かしているのは、「事実」ではなく、野村が「勝手にそのように想像し」たことがらだからである。

 さて。

 勝手に想像したことがら、その描写、そのことば--それが詩であるための「必須条件」とは何だろうか。
 どこまでつづけられるか。どこまで勝手に(自由に)ことばを動かしつづけることができるか。
 一回ではだめ。一篇の詩ではだめ。そういう「瞬間芸」では詩にならない。どこまでもどこまでもつづけること。「勝手な想像」の「尺度」を守ったまま持続すること。そして最低、一冊の詩集にすること。そういう「かたまり」になったとき、それは詩集をとおして詩になる。詩があつまって詩集になるのではなく、詩集から詩が生まれる。
 野村は、「詩集」の形にこだわる詩人だが、彼が「詩集」にこだわるのは、詩があつまって詩集になるのではなく、野村の場合、詩集から詩が生み出されるという関係にあることをしっかり自覚しているからだろう。


ZOLO
野村 喜和夫
思潮社

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