西岡寿美子『菜園だより』(二人発行所、2009年08月31日発行)
森やすこ『おお大変』(花神社、2009年09月20日発行)
西岡寿美子『菜園だより』はタイトルどおり、野菜づくりをすることで生まれた詩である。「待ちの姿勢」に野菜づくりの「心得」が書かれている。
「作る」ことからはじまり、「作る」ではなく「成る」だと気づく。そのことを「肉体」として知っている。とても静かで、気持ちがいい。新しいことばの運動がある、というわけではないけれど、ここには古びないことばの確かさがある。
「むしろ誤って阻まないことを念がけて」という行の「念がけて」は「こころがけて」と読むのだと思うが、そうか、こころがけるとは念じつづけることなのか、とはっとする。「こころがけて」と読みながら、その「音」の底から、「念じる」という強い音がつきあがってくるのを感じ、はっとする。
簡単な(?)ことばなのだけれど、そのことばの「領域」というか「地層」というか、そういうものに西岡が触れているのだと感じ、そこに書かれていることが確かなもの、絶対に間違っていないものだと信じさせてくれる力がある。
そして、それが絶対に間違っていないものであるだけに、ふいにあらわれる矛盾というか、ありえないもの、不思議なものに、ぐいとひきつけられる。
「ごめんよ」という作品。カブのことを書いた詩だ。
カブのおいしさに幸せを感じ、幸せすぎて「罪」を思う。あ、幸せというのは、どこかで罪を犯している、他人を踏み台にしている--そういう不思議な感覚。愉悦。食べるために育てたカブを、目的にしたがって食べているだけなのだから、それは「罪」ではないが、「罪」ではないけれど「罪」を感じる。
この、西岡の「肉体」。
それは、やはり、野菜を人間が「作る」のではなく、野菜は野菜で、野菜自身の力でたとえばおいしいカブに「成る」ということを知っているからうまれることばなのである。そしてそれは、実際にものを作る、野菜を作る人だけが「肉体」の底からすくいあげてくることができる「思想」なのである。
詩のつづき。
「何も言えない」としか言えない。けれど、「何も言えない」が、たぶん、正確に西岡を語っている。絶対に嘘を言わない美しさが、西岡のことばにはある。
*
森やすこ『おお大変』の「しあわせ症候群」の1連目。
「読み解く」ということろに、森の「思想」が凝縮している。いまという瞬間、この世界--それがいま、ここに「ある」ということは、何かがそれに「成った」(なる)ということである。その「成った」(なる)の過程というか、「過去」をひとつずつことばにしてみる。ことばにすることで、自分自身を確かめる。
森やすこ『おお大変』(花神社、2009年09月20日発行)
西岡寿美子『菜園だより』はタイトルどおり、野菜づくりをすることで生まれた詩である。「待ちの姿勢」に野菜づくりの「心得」が書かれている。
物を作るということは
捨ててもならず
即き過ぎてもいけない
おおよそのことを果たせば
後は陽任せ雨任せ
鈍いような待ちの姿勢が必要な気がする
(略)
作るといい
養うというも
人が助けられるなど僅かなこと
むしろ誤って阻まないことを念がけて
後ろ手に空を見たりして
あるじは
気配を聴いて歩くだけでいい
物が成るとはそのようなことではあるまいか
「作る」ことからはじまり、「作る」ではなく「成る」だと気づく。そのことを「肉体」として知っている。とても静かで、気持ちがいい。新しいことばの運動がある、というわけではないけれど、ここには古びないことばの確かさがある。
「むしろ誤って阻まないことを念がけて」という行の「念がけて」は「こころがけて」と読むのだと思うが、そうか、こころがけるとは念じつづけることなのか、とはっとする。「こころがけて」と読みながら、その「音」の底から、「念じる」という強い音がつきあがってくるのを感じ、はっとする。
簡単な(?)ことばなのだけれど、そのことばの「領域」というか「地層」というか、そういうものに西岡が触れているのだと感じ、そこに書かれていることが確かなもの、絶対に間違っていないものだと信じさせてくれる力がある。
そして、それが絶対に間違っていないものであるだけに、ふいにあらわれる矛盾というか、ありえないもの、不思議なものに、ぐいとひきつけられる。
「ごめんよ」という作品。カブのことを書いた詩だ。
十七育て
十二まで人に差し上げ
わたしの食べ料としたのだが
(略)
寒をくぐってまろやかに仕成された
この喉にとけ入る
熱い旨い無上の味に養われると
幸せのあまり罪の思いがする
カブのおいしさに幸せを感じ、幸せすぎて「罪」を思う。あ、幸せというのは、どこかで罪を犯している、他人を踏み台にしている--そういう不思議な感覚。愉悦。食べるために育てたカブを、目的にしたがって食べているだけなのだから、それは「罪」ではないが、「罪」ではないけれど「罪」を感じる。
この、西岡の「肉体」。
それは、やはり、野菜を人間が「作る」のではなく、野菜は野菜で、野菜自身の力でたとえばおいしいカブに「成る」ということを知っているからうまれることばなのである。そしてそれは、実際にものを作る、野菜を作る人だけが「肉体」の底からすくいあげてくることができる「思想」なのである。
詩のつづき。
ごめんよ やさい
少しはお返ししたことがあるだろうか
わたし
丸く整うた姿の妙齢の者らの
つつましい生き身で濡れたこの舌では
何も言えない気もするのだが
「何も言えない」としか言えない。けれど、「何も言えない」が、たぶん、正確に西岡を語っている。絶対に嘘を言わない美しさが、西岡のことばにはある。
*
森やすこ『おお大変』の「しあわせ症候群」の1連目。
しあわせ症候群にさいなまれて朝寝ぼうして
黒ねこは 家ねこをあきらめて出ていったきり
庭の草は勝手気ままにのびて
からたち ぐみ ざくろの棘 もっと勝手にのびる
片隅で空を見あげて雲のものがたり いま読み解くところ
「読み解く」ということろに、森の「思想」が凝縮している。いまという瞬間、この世界--それがいま、ここに「ある」ということは、何かがそれに「成った」(なる)ということである。その「成った」(なる)の過程というか、「過去」をひとつずつことばにしてみる。ことばにすることで、自分自身を確かめる。
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