阿部嘉昭『頬杖のつきかた』(3)(思潮社、2009年09月25日発行)
「ス/ラッシュ」のつづき。「深/鮮」の書き出し。
ここには、視覚の記憶の罠がある。「鮮しく」は「あたらしく」と読ませるのだろうが、そういう読み方は「教科書」にはない。教科書には「あざやか」という読み方しかない。けれども、何の疑問もなく、たいがいのひとは「あたらしく」と読むに違いない。「鮮」という文字は「新鮮」とひとつながりで記憶されることが多いからだ。タイトルに「深/鮮」とあればなおさら「しん/せん」と読み、「新しい」ということばが自然に噴き出してくる。(3行目に、その噴出に影響?されたのか、「神/泉」と、「泉」という文字もでてくる)
阿部が利用しているのは、阿部自身の視覚の記憶ではない。読者の視覚の記憶も利用している。視覚の記憶が共有されている、ということができる。
阿部には、たぶん、この「共有」感覚が強いのだと思う。「共有」できるものを即座に判断する能力がある、探りあてる能力がある、ということなのかもしれない。
「鮮」には「あざやか」「あたらしい」という意味のほかに、とか「美しい(鮮明)」「けがれない(鮮潔)」「すくない(鮮少)」「はなやか(鮮華)」「なまなましい(鮮血)」というような意味もあるけれど、「新鮮」がいちばんなじみやすいかもしれない。「新鮮」ということばが、いちばん多く「共有」されているということを、阿部は知っているし、その「共有」へ向けて、ことばを動かすリードの仕方も心得ているということなのだろう。
阿部には、詩人しての「顔」のほかにもいろいろな「顔」がある。ポップ・カルチャー、サブ・カルチャーという言い方があるが、そういう領域にも通じている。何が幅広く共有されているか、その共有の底には何があるか--そういうことを見つめつづけてきた意識が、「共有」される文字・ことばをも自然に探り当てる力となっているのだと思う。
あ、書こうとしていたことから、どんどん離れていってしまう。
最初にもどる。
ここに登場する「視覚の至福」。これは、阿部の嗜好(思考ではない)の本質を語ってると思う。
阿部は、「音」についてもはっきりした好みをもっているのだと思うが、「音」か「色・形」かと二者択一を迫られたら「色・形」を選んでしまうだろう。聴覚ではなく、視覚を選んでしまうだろう。
そういう行も可能なはずだが、阿部は「視覚の至福」を選ぶ。「新鮮」なのは視覚に飛び込むものだけではなく、聴覚に飛び込むものも、嗅覚や味覚、触覚に飛び込んでくるものも、新しく、美しいはずだが、阿部はまず「視覚」を選んでしまう。
そのあとで、聴覚や嗅覚、触覚へと「新鮮」の領域を「深めて」いく。
あ、美しい。
「生活はサラダの速さでつくる。芹を添えて。」の「芹」の響きの美しさ。行頭の「生活」の「せ」と「芹」の「せ」が響きあう。「サラダ」のなかの「さ行」「ら行」の交錯が、「せいかつ」と「せり」を輝かせる。「速さ」「添えて」の「さ行」の響きあいもいいなあ。
西脇順三郎に教えてやりたい。私が西脇なら、「この音、ちょうだい」と言ってしまうかもしれない。
「オーガニック」「オルガスムス」というもたもたした音の響きを一気に突き破って、ほんとうに新鮮に聞こえる。
こういう美しい音楽を聞いた後では、
これは、重たい。軽快さがない。明るさもない。「メロン」「メランコリー」「彩色」「菜食」では、「おもう」が「思う・想う」ではなく、「重う」(おもう)ございますよ。いくら「休符」をはさんでみても、休符の深い谷間から鮮やかな沈黙の余韻がひろがるかわりに、深い深い苦悩が沈んでいってしまいそう。色は重ねすぎると、だんだん黒に近づいてしまうものだ。視覚も、きっと、そういう「黒」の宿命(?)をもっているのだろう--などと、思わず書いてしまう。
音楽は、軽く、速く、がいまの流行だと思うのだけれど……。
*
「飛/攻」は「飛行」「非行」を連想させる。「非行」の方が私の好みだ。軽い感じがする。阿部の作品のなかにも「非行」は出てくるが「非/攻」というワンクッション置いた形ででてきて、最後には「飛/行」「飛/攻」へと落ち着いてしまう。
こういう落ち着き方は「深/鮮」と同様、私の好みではないが、それは、まあ、好みの問題だから、どうしようもない。
気になる1行があった。
「ことば」の問題を急につきつけられた気がしたのである。
ことばはどこになるのか。私は阿部の詩集を読んでいる。ことばは詩集の「紙上」にある。そして、そこにあるのは、阿部の1行にしたがえば「概念」である。
うーん。
私はうなってしまった。ちょっと、動けなくなってしまった。
ことばは概念でなくてもいいんじゃないの? むしろ、概念ではなくなる瞬間を求めて私は詩を読んでいるのだけれど。
「紙上には」ということばも、どこからでてきたのかなあ。
阿部の作品の初出は「ブログ」と書いてある。そうだとすると、そのとき「紙上」って何?
私もブログを書いている。そして、それはけっして「紙」を経由しない。ワープロソフトをつかって書いて、その文章をブログにコピー&ペーストするが、そのとき私がことばを追っているのは「モニター」の上だけである。「紙」が存在しない。「紙」という意識がない。
阿部は、「紙上」ということばを、どんなふうにして思いついたのか。そのことばは、いったい、どこからやってきたのか。
これはたいした問題ではないのかもしれないが、(あるいは大問題かもしれないが)、私はとても気になったのである。
「紙上」ということばは「概念」ということばの後に出てくるけれど、「紙上」という意識があるから「概念」ということばが生まれたようにも思えるのである。阿部のことばに「音楽」だけがもつ軽さ・速さが欠けるときがあるとしたら、それは概念を紙上に定着させようとする意識があるからかもしれない--と、ふと、そんなことを考えたのである。
「ス/ラッシュ」のつづき。「深/鮮」の書き出し。
深い場所が鮮しくみえる、視覚の至福。
ここには、視覚の記憶の罠がある。「鮮しく」は「あたらしく」と読ませるのだろうが、そういう読み方は「教科書」にはない。教科書には「あざやか」という読み方しかない。けれども、何の疑問もなく、たいがいのひとは「あたらしく」と読むに違いない。「鮮」という文字は「新鮮」とひとつながりで記憶されることが多いからだ。タイトルに「深/鮮」とあればなおさら「しん/せん」と読み、「新しい」ということばが自然に噴き出してくる。(3行目に、その噴出に影響?されたのか、「神/泉」と、「泉」という文字もでてくる)
阿部が利用しているのは、阿部自身の視覚の記憶ではない。読者の視覚の記憶も利用している。視覚の記憶が共有されている、ということができる。
阿部には、たぶん、この「共有」感覚が強いのだと思う。「共有」できるものを即座に判断する能力がある、探りあてる能力がある、ということなのかもしれない。
「鮮」には「あざやか」「あたらしい」という意味のほかに、とか「美しい(鮮明)」「けがれない(鮮潔)」「すくない(鮮少)」「はなやか(鮮華)」「なまなましい(鮮血)」というような意味もあるけれど、「新鮮」がいちばんなじみやすいかもしれない。「新鮮」ということばが、いちばん多く「共有」されているということを、阿部は知っているし、その「共有」へ向けて、ことばを動かすリードの仕方も心得ているということなのだろう。
阿部には、詩人しての「顔」のほかにもいろいろな「顔」がある。ポップ・カルチャー、サブ・カルチャーという言い方があるが、そういう領域にも通じている。何が幅広く共有されているか、その共有の底には何があるか--そういうことを見つめつづけてきた意識が、「共有」される文字・ことばをも自然に探り当てる力となっているのだと思う。
あ、書こうとしていたことから、どんどん離れていってしまう。
最初にもどる。
深い場所が鮮しくみえる、視覚の至福。
ここに登場する「視覚の至福」。これは、阿部の嗜好(思考ではない)の本質を語ってると思う。
阿部は、「音」についてもはっきりした好みをもっているのだと思うが、「音」か「色・形」かと二者択一を迫られたら「色・形」を選んでしまうだろう。聴覚ではなく、視覚を選んでしまうだろう。
深い場所から鮮しい音が聞こえる、聴覚の至福。
そういう行も可能なはずだが、阿部は「視覚の至福」を選ぶ。「新鮮」なのは視覚に飛び込むものだけではなく、聴覚に飛び込むものも、嗅覚や味覚、触覚に飛び込んでくるものも、新しく、美しいはずだが、阿部はまず「視覚」を選んでしまう。
そのあとで、聴覚や嗅覚、触覚へと「新鮮」の領域を「深めて」いく。
オーガニック野菜の波動をただ口に運んで。
その密かな香りからオルガスムスに至ってゆく。
生活はサラダの速さでつくる。芹を添えて。
あ、美しい。
「生活はサラダの速さでつくる。芹を添えて。」の「芹」の響きの美しさ。行頭の「生活」の「せ」と「芹」の「せ」が響きあう。「サラダ」のなかの「さ行」「ら行」の交錯が、「せいかつ」と「せり」を輝かせる。「速さ」「添えて」の「さ行」の響きあいもいいなあ。
西脇順三郎に教えてやりたい。私が西脇なら、「この音、ちょうだい」と言ってしまうかもしれない。
「オーガニック」「オルガスムス」というもたもたした音の響きを一気に突き破って、ほんとうに新鮮に聞こえる。
こういう美しい音楽を聞いた後では、
いつもの深さが鮮しいことで美貌になるメロン。
メランコリーに淡さが彩色するこの菜食も、
あすのサラダに見合う休符の質をおもうだろう。
これは、重たい。軽快さがない。明るさもない。「メロン」「メランコリー」「彩色」「菜食」では、「おもう」が「思う・想う」ではなく、「重う」(おもう)ございますよ。いくら「休符」をはさんでみても、休符の深い谷間から鮮やかな沈黙の余韻がひろがるかわりに、深い深い苦悩が沈んでいってしまいそう。色は重ねすぎると、だんだん黒に近づいてしまうものだ。視覚も、きっと、そういう「黒」の宿命(?)をもっているのだろう--などと、思わず書いてしまう。
音楽は、軽く、速く、がいまの流行だと思うのだけれど……。
*
「飛/攻」は「飛行」「非行」を連想させる。「非行」の方が私の好みだ。軽い感じがする。阿部の作品のなかにも「非行」は出てくるが「非/攻」というワンクッション置いた形ででてきて、最後には「飛/行」「飛/攻」へと落ち着いてしまう。
こういう落ち着き方は「深/鮮」と同様、私の好みではないが、それは、まあ、好みの問題だから、どうしようもない。
気になる1行があった。
あるいは濃/耕という概念もあるだろう、紙上には。
「ことば」の問題を急につきつけられた気がしたのである。
ことばはどこになるのか。私は阿部の詩集を読んでいる。ことばは詩集の「紙上」にある。そして、そこにあるのは、阿部の1行にしたがえば「概念」である。
うーん。
私はうなってしまった。ちょっと、動けなくなってしまった。
ことばは概念でなくてもいいんじゃないの? むしろ、概念ではなくなる瞬間を求めて私は詩を読んでいるのだけれど。
「紙上には」ということばも、どこからでてきたのかなあ。
阿部の作品の初出は「ブログ」と書いてある。そうだとすると、そのとき「紙上」って何?
私もブログを書いている。そして、それはけっして「紙」を経由しない。ワープロソフトをつかって書いて、その文章をブログにコピー&ペーストするが、そのとき私がことばを追っているのは「モニター」の上だけである。「紙」が存在しない。「紙」という意識がない。
阿部は、「紙上」ということばを、どんなふうにして思いついたのか。そのことばは、いったい、どこからやってきたのか。
これはたいした問題ではないのかもしれないが、(あるいは大問題かもしれないが)、私はとても気になったのである。
「紙上」ということばは「概念」ということばの後に出てくるけれど、「紙上」という意識があるから「概念」ということばが生まれたようにも思えるのである。阿部のことばに「音楽」だけがもつ軽さ・速さが欠けるときがあるとしたら、それは概念を紙上に定着させようとする意識があるからかもしれない--と、ふと、そんなことを考えたのである。
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