沢田敏子『ねいろがひびく』(砂子屋書房、2009年10月15日発行)
沢田は「ことば」をとおして(ことばをつかって)考える。ことばなしでは、誰も考えることはできないが、そう意識している人間は少ないかもしれない。沢田は、その少ない人間のひとりである。
「わたしはいま<それ>を思い出そうとしていることろ」という1行ではじまる「It」という作品。そのなかほど。
<それ>は明確には語られない。「ことば」にならない。そのことばにならないものさえも、沢田は<それ>ということばにして語る。そして、<それ>は「ことば」であり、「こころ」であるとも言う。
ここには、あることがらを同じことばで繰り返すしかないことがある、ということが書かれている。同義反復。それしか、方法がない。それでも、そうする。つまり、ことばをつかって語る。それは矛盾だけれど、矛盾だからこそ、そこに思想がある。肉体がある。ここをとおって、すべてのものは生まれてくる。
<それ>と呼ぶとき、<それ>がはじめて、そこにあらわれ、そして動いていく。
「窓」の書き出し。
「窓」と呼ばなくても、窓自体は存在するだろう。それは「物理」の世界の問題である。けれど、精神の世界、「こころ」の世界では、そうではない。「窓」と呼ぶとき、「窓」が存在する。そして、その「窓」は、どんな窓でもいいのではない。そこには「こころ」「精神」が刻印されているのだ。
「その窓」と沢田は書いているが、この「その窓」の「その」は、英語で言う「定冠詞(the )」の「その」である。不特定多数の窓のなかのひとつではなく、沢田の「こころ」「意識」にそまった「窓」である。
そういうもの--「こころ」「精神」に深く刻み込まれている存在を、沢田は、ことばで追いかけている。「こころ」「精神」にどのように刻印されているかを、ことばで追いかけていく。そのとき、沢田の「ことば」は単なる「ことば」(不特定多数のことば)ではなく、詩になる。
だから、沢田は、ことばをていねいにあつかう。ていねいに、その動きを追い、その音を追い、そしてそのなかにある「こころ」「意識」「精神」に触れようとするのだ。
「鏡のかけら」には「ことば」に関する美しいエピソードが語られている。
自分でけっして味わうこともないもの。それにさえも人は「ことば」をあたえる。「ことば」をつかって呼ぶ。そのとき、そこには「間違い」がまじる。<おくわし>と書いて<おかし>と読むのとは逆に、<おかし>を<おくわし>と読むような。そして、その「間違い」のなかにこそ、そのことばをつかう人の、「肉体」「思想」がある。自分では食べないけれど、まわりにいる人(こどもたち)に食べさせたいという願いが、その「間違い」のなかに静かに、けれどとても強い力で存在している。
それはたしかに「まじない」のようなものかもしれない。「まじない」のなかに生きているのは、正しいことば(?)にはなり得ない願いなのだ。科学や何かのように、正しくはない。けれど、その「正しくない」ものの方が、より正しく「こころ」「精神」を守っているということがあるのだ。
沢田がことばをていねいに取り扱うのは、ことばにそういう科学では証明できない(説明できない)正しさがあると知っているからだ。その正しさを、沢田は、きちんと育てたいのだ。
そのために、ことばに耳をすます。ことばのなかにある、「音」「色」「ね・いろ」にも耳をすまし、耳で聞いて、目で見る。「ことば」を動かすのは「頭」かもしれないが、それを実際に「肉耳」「肉眼」で確かめて、しっかりと動かす。「ことば」をそうやって「肉体」にする--沢田はそういうことを詩のなかでやっている。
読んでいて、とても安心感を覚えるのは、そこに「肉体」があるからだ。沢田の思想は、つまり「ことば」が「肉体」になっているからだと確信した。
沢田は「ことば」をとおして(ことばをつかって)考える。ことばなしでは、誰も考えることはできないが、そう意識している人間は少ないかもしれない。沢田は、その少ない人間のひとりである。
「わたしはいま<それ>を思い出そうとしていることろ」という1行ではじまる「It」という作品。そのなかほど。
だから<それ>は
左側であり 右側であり
手袋であり
半身であり 全身であり
ことばでもありこころでもある<それ>だった
<それ>は明確には語られない。「ことば」にならない。そのことばにならないものさえも、沢田は<それ>ということばにして語る。そして、<それ>は「ことば」であり、「こころ」であるとも言う。
ここには、あることがらを同じことばで繰り返すしかないことがある、ということが書かれている。同義反復。それしか、方法がない。それでも、そうする。つまり、ことばをつかって語る。それは矛盾だけれど、矛盾だからこそ、そこに思想がある。肉体がある。ここをとおって、すべてのものは生まれてくる。
<それ>と呼ぶとき、<それ>がはじめて、そこにあらわれ、そして動いていく。
「窓」の書き出し。
窓 と呼ぶときに
その窓はあった
田の字をふたつ並べたような
その窓からは 朝焼けや稲妻がよく見えた
「窓」と呼ばなくても、窓自体は存在するだろう。それは「物理」の世界の問題である。けれど、精神の世界、「こころ」の世界では、そうではない。「窓」と呼ぶとき、「窓」が存在する。そして、その「窓」は、どんな窓でもいいのではない。そこには「こころ」「精神」が刻印されているのだ。
「その窓」と沢田は書いているが、この「その窓」の「その」は、英語で言う「定冠詞(the )」の「その」である。不特定多数の窓のなかのひとつではなく、沢田の「こころ」「意識」にそまった「窓」である。
そういうもの--「こころ」「精神」に深く刻み込まれている存在を、沢田は、ことばで追いかけている。「こころ」「精神」にどのように刻印されているかを、ことばで追いかけていく。そのとき、沢田の「ことば」は単なる「ことば」(不特定多数のことば)ではなく、詩になる。
だから、沢田は、ことばをていねいにあつかう。ていねいに、その動きを追い、その音を追い、そしてそのなかにある「こころ」「意識」「精神」に触れようとするのだ。
「鏡のかけら」には「ことば」に関する美しいエピソードが語られている。
祖母にはへんな癖があった
すなわち お菓子のことを
<おかし>ではなく<おくわし>と律儀に言うのだ
<おくわし>と書いて<おかし>と読むのとは逆に
芋は いも 柿は かき
餅は もち 炒豆は まめ
と呼び習わした先で不意に 食べたこともなかった
<おくわし>に出くわしたのだったろう
自らは口にすることもなく
傍らに坐るものらに与えるとき
<おくわし>は言葉ではなく
まじないだった 滋養だった
(谷内注・<おくわし>の「わ」は本文は小さく書かれている。)
自分でけっして味わうこともないもの。それにさえも人は「ことば」をあたえる。「ことば」をつかって呼ぶ。そのとき、そこには「間違い」がまじる。<おくわし>と書いて<おかし>と読むのとは逆に、<おかし>を<おくわし>と読むような。そして、その「間違い」のなかにこそ、そのことばをつかう人の、「肉体」「思想」がある。自分では食べないけれど、まわりにいる人(こどもたち)に食べさせたいという願いが、その「間違い」のなかに静かに、けれどとても強い力で存在している。
それはたしかに「まじない」のようなものかもしれない。「まじない」のなかに生きているのは、正しいことば(?)にはなり得ない願いなのだ。科学や何かのように、正しくはない。けれど、その「正しくない」ものの方が、より正しく「こころ」「精神」を守っているということがあるのだ。
沢田がことばをていねいに取り扱うのは、ことばにそういう科学では証明できない(説明できない)正しさがあると知っているからだ。その正しさを、沢田は、きちんと育てたいのだ。
そのために、ことばに耳をすます。ことばのなかにある、「音」「色」「ね・いろ」にも耳をすまし、耳で聞いて、目で見る。「ことば」を動かすのは「頭」かもしれないが、それを実際に「肉耳」「肉眼」で確かめて、しっかりと動かす。「ことば」をそうやって「肉体」にする--沢田はそういうことを詩のなかでやっている。
読んでいて、とても安心感を覚えるのは、そこに「肉体」があるからだ。沢田の思想は、つまり「ことば」が「肉体」になっているからだと確信した。