詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大西若人「蛾は何を意味するのか」

2009-11-11 20:17:41 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「蛾は何を意味するのか」(「朝日新聞」2009年11月11日夕刊)

 文章には、文章を読まなくても誰が書いたかわかるものがある。ちらりと見ただけで、文字の並び加減(漢字とひらがなのバランス)、句読点のつくりだすリズムが、ふっと独特の文体を感じさせるものがある。大西若人は、そういう文体をもったひとりである。
 「蛾は何を意味するのか」は、速水御船の「炎舞」について書いた短い文章である。
 私は、夕刊を開いて、その瞬間、これは大西若人の文章であると感じた。私は、いま、目の状態がよくないので、仕事以外にはなるべく文字を読まないようにしているのだが、ページを開いた瞬間に、これは大西の文章だと感じ、思わず、読み進んでしまった。そして、実際にそうであった。
 読み進むと、大西独特の文書が出てくる。

 炎から、朱が闇に溶けるように広がり、渦巻き上ってゆく。そんな空気の動きまで、描き切る。

 「空気」というのは見えない存在である。その見えないものを、ことばは、あたかも見えるように書き記すことができる。この、見えないものを、ことばで見えるようにしてしまうのが大西の文章である。そして、どこがどうこうとは具体的に言えるほど私は大西の文章を分析していないが、そのことばの選択(漢字、ひらがなの選択)、句読点のつかい方が紙面に与える印象が、その、見えないものを見えるようにしてしまう精神の動きとぴったりあっている。
 名文家である。
 新聞記者というのは、「署名」は「新聞社名」であってこそ、新聞記者なのだと思うが、大西はそういう範疇を超越している。大西は大西が書いた文章すべてに「大西若人」という署名を記入したいのだと思う。
 こういう記事は、「新聞記事」と思って読んではならない。新聞社に属しているのではなく、あくまで「大西若人」という著述家に属した文章なのである。


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田原『石の記憶』(2)

2009-11-11 00:00:00 | 詩集
田原『石の記憶』(2)(思潮社、2009年10月25日発行)

 田原の詩を読むと、「文字」の美しさに引き寄せられる。一篇一篇読んでいたときには気がつかなかったが、詩集になって、あ、私は田原のことばの、その「文字」の美しさに引き寄せられているのだと気がついた。
 たとえば「ゴーリキーの死」。後半。

ゴーリキー--空高く飛んだ海燕よ
翼の上の陽射しはどんなに燦然としているだろう

 「海燕よ」は「かいえんよ」と読むのか「うみつばめよ」と読むのか。私は判断しない。私は「文字」を見ている。そして、その「文字」のなかに、海と毅然として動く黒い影を見る。そこには「音」はない。形と色だけがある。そして、その形と色(黒い影)を、「空高く」が追い越していく。「空高く飛んだ海燕」は「空」より高くあるのはずなのだが、その「燕」という画数の多い文字の「影」が、なぜか、その「影」を追い越して「空」がさらにさらに高く上昇していくというイメージを呼び起こす。
 そして。
 「翼の上の陽射し」。それは、「海燕」を上から見下ろし、翼を輝かせている。「燦然」としているのは文法上は「陽射し」だが、なぜか、陽射しに照らされた「海燕」の「翼」のように思えてしまう。目に見えるのは、天と地を結ぶ空のひろがり。そのなかにあって、下から見れば「黒い影(翼の影)」、上から見れば「翼が輝く」という感じなのだ。
 「意味」ではなく、「文字」が運んでくる何かを私は「目」で判断し、その「目」のなかに見える対比、小さい海燕と天地に高く(深い)空、黒い影と輝く翼--というイメージなのだ。
 「意味」ではなく、「音」でもなく、ただ「文字」に私は反応している。

 この反応は、最終連では、もっと激しくなる。

一九三六年五月十八日
あなたの名前をつけた飛行機の墜落は
一種の前兆のようだ
六月十八日午前二時十分
アレクセイ・マクシモヴィッチ・ペシュコフが死んだ

 「五月十八日」と「六月十八日」。この、一か月の「時差」を私は「時間」の差としてではなく、つまり、そこに「時間」があるというとらえ方ではなく、「文字」の違い、一種の「書き間違い」のようにして受け止めてしまうのである。「書き間違い」と感じるような、不思議な錯覚--「意味」ではなく、「文字」が運んでくる一種の「形」の違いが引き起こす錯乱として私は感じてしまう。その錯乱に「午前二時十分」がつけくわえられると、錯乱を度の強い眼鏡で強制的に魅せられたような、なんともいえない強烈な印象が残る。ここまで見えなくてもいい、というものまで見させられたような(それも、人間の力を超えるもので、たとえば神の意志のようなもので、見させられたような)、特権的な印象が残る。
 「音」でも「意味」でもない。「文字」の「ずれ」、「揺れ動き」。そのなかに、私は、どう説明していいかわからないが、「美しさ」を感じる。
 最終行はもっとすごい。

アレクセイ・マクシモヴィッチ・ペシュコフ

 このカタカナの羅列に、私は気が狂いそうになった。なんという美しさ。田原は中国人である。カタカナは習得した外国の「文字」である。それを、こんなに美しく書き散らすなんて。
 「書き散らす」と思わず書いてしまったが、そこには、なぜか「文字」が散らされて、その散らばりが美しい抽象画になっているという印象がある。
 私はカタカナ難読症で、初見のカタカナを正確に読むことができない。カタカナは読むのではなく、何度も音を聴いて暗記してしまわないかぎり、私には正確に発音できない。だから私の感じていることは、ほかの人には当てはまらない感想かもしれないが、ともかく美しいのだ。
 そこには海燕と空と、影と光の交錯、そして、「五月十八日」と「六月十八日午前二時十分」の交錯が、整然と、同時に乱調のまま、きらきら輝いている。

 「狂想曲」の次の1行。

モンゴル 決まって地平線から昇ってくる草原

 あ、私はことばの「意味」を追っているのか、それとも「文字」そのものを追っているのか、ここでは「アレクセイ・マクシモヴィッチ・ペシュコフ」ほどはっきりと自覚できないけれど、「地平線」という「文字」がそのまま「草原」という「文字」にのみこまれていくのを感じる。「地平線」という「文字」は私には「平ら」にも「ひろがり」にも感じられないが、「草原」、とくにその「草」という「文字」が「地平線」のすべてに見えてくる。「草冠」の横に真っ直ぐな線は、縦の2本の線によっていっそう水平方向に強調される。その下の「早」、「日」と「十」の組み合わせ。「草冠」が遠景なら、「日」は中景。完全な形。完全な形のなかに、横線があることで、その完全さを揺るぎないものにしている。そして近景の「十」。縦と横があるから、ひろがりがはじまる。ひとは縦へも横へも自由に動いて行ける。その動きのなかから「ひろがり」が生まれる。

 なぜ、こんな奇妙なことを感じてしまうのか、よくわからないが、きっと、きっと、きっと、田原のことばの「文字」が美しいからだ。そう思うしかない。


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