セアドー・レトキー詩集(松田幸雄訳)(彩流社、2009年11月14日発行)
セアドー・レトキー。私は不勉強なので、セアドー・レトキーについては何も知らなかった。初めてその詩集を読んだ。最初にこころをひかれたのは「春の思い」である。その全行。
これは私にとって「見慣れた光景」である。こども時代の、なつかしい光景である。(ただし、クロッカスというようなしゃれたものはなかったが。)。私は雪国で育ったので、春の、まだ冷たい田んぼ(池ではなく)で蛙の卵を見た。春を実感させる「いのち」である。
セアドー・レトキーが見ているものと、私が見たものは違うはずである。違うはずだけれど、この光景がなつかしい。なぜだろう。
2連目。
ああ、そうなのだと思う。みんな前に起こったこと、何も新しいことではなく、すでに起こったことがまた繰り返されている。この感覚が「なつかしい」のである。すべては「循環」する。前へ前へと突き進むのではなく、同じことを繰り返す。そういう「いのち」のあり方がある。そういうものに触れて、なつかしいと感じ、こころが落ち着いたのである。
繰り返し、なつかしい。けれど、それだけではない。
既に知っている。繰り返しだから知らないことは何もない。けれども、その繰り返しを、まるでそれがなかったかのように感じる。「まるで春がこれまで来たことがなかったみたいに」感じる。
なぜか。
ことばにしたからだ。いや、ことばにしなくても、そういう感じはあるのだけれど、ことばにすると、それがさらに新しく見えてくる。自分が何を見ているか、何を感じているか、それがはっきり見えてきて、どきどきする。
ここには詩を書く喜び、ことばを書く喜びがある。書く、ことばにする。そうすると、「前に起こったこと」が「前」にではなく、「いま」「この瞬間」に起きていることに生まれ変わる。書くたびに「過去」が新しくなる。
ここには書くことの秘密が隠されている。
人間が書くことができるものは限られている。知っていることしか書けない。知っていることを書いて何になるか。書くと、知っていることが、「過去」が、「いま」にあらわれてくるのだ。「過去」が「生き返る」「生まれ変わる」のだ。
ことばとともに生き返るのは「過去」(前に起こったこと)だけではない。
「夜の旅」の書き出し。
ここでは、ことばは「前に起こったこと」ではないものを描いている。おそらくこの詩は初めての「夜の旅」を描いているから、それは「前」には起きようがないことである。はじめて感じる夜行列車のリズム。鉄橋が見え、木立が突然視界に飛び込んできて、そして飛び去る。山霧がたちこめていたのを見たかと思うと、次は湖に出会う。それはすべて「新しい」ことである。
けれど。
実は、これは「古いこと」(前に起こったこと、過去)でもあるのだ。
奇妙な言い方になってしまうが、鉄橋も木立も山霧も、それは詩人にとってはじめてみる「一期一会」の存在だけれど、その「一期一会」の存在をとおしてセアドー・レトキーは、かつて見た鉄橋、木立、山霧を見ている。旅ではじめて見るものをとおして、故郷の鉄橋、木立、山霧を見ている。鉄橋、木立、山霧を見た記憶があるから、いま鉄道の旅で目撃しているものが鉄橋、木立、山霧であるとわかるのだ。
「まるで春がこれまで来たことがなかったみたいに」ということばを利用していうと、「まるで鉄橋、木立、山霧をこれまで見たことがなかったかのように」新しい存在としてセアドー・レトキーは書いているけれど、それはすべて「前に」故郷で見たものである。見たものである--と断定すると「論理的」ではなくなるが、それは「前に」故郷で見たものと「同じ」何かである。それは故郷の存在とは違っているけれど、故郷につながっている。
鉄橋、木立、山霧--そういうものが、セアドー・レトキーだけのものではなく、誰かと共有されたもの、これからも共有されるものなのだ。
列車の客は眠っている。けれど、そういう眠りとは無縁で、やはり夜の列車の旅をした誰かわからない「若者」、夜を起きていて風景をながめたはずの「若者」と共有できるものにかわる。その「若者」はやはり故郷を出て、「夜の旅」をした。そして、鉄橋や木立や山霧を見た。そして、その「新しい」ものを見ながら、、故郷の(知っている)鉄橋や木立や山霧を思い出す。そういう「夜の旅」をした「若者」、これからそういう「夜の旅」をする「若者」とつながる。「過去」の「若者」とつながった瞬間、セアドー・レトキーの「いま」は、これから旅するかもしれない「若者」ともつながる。また、あらゆるひとの「故郷」とも「夜の旅」ともつながる。
「いま」という時間が、「過去」と「未来」を結びつけ、「ここ」がまったく別の場所ともつながる。そこに「永遠」があらわれてくる。
そして、その「永遠」をつくるのは、「新しい」何かではない。だれもが知っているもの、リズムであり、鉄橋であり、木立であり、山霧であり、湖である。そして、それらを呼ぶ「名前」であり、「ことば」である。だれもが知っていることばである。
ことば。だれもが知っていることば。ことばのなかにある「前に起こったこと」。ああ、ことばとは「前に起こったこと」の宝庫である。ことばとともに「過去」が目覚め、「未来」へと動いていく。
*
(ふと、中断をはさんで再び書きはじめようとすると、ちょっと違ったことが書きたくなった。--というより、書きながら、ああ、視点を変えないと、いけない。もっといいたいことがあるのに……、と感じ、突然、キーボードが打てなくなって、中断したのだ。私はいま眼の状態がよくないので、30分タイマーを設置して、30分書いたら休憩を取るようにしている。今回はタイマーが鳴る前からほとんど中断状態で、タイマーの音に促されて、あ、違うところから書き直してみようと思ったのだ。私はもともと何を書くか決めてから書きはじめるタイプの人間ではないので、書いている途中でどんどん書きたいことが変わってしまう。そして、書きたいことが変わったからといって、前を書き直すということはしないので、いつも奇妙な文章になるのだが……。今回も、書き直しといっても、前に書いたものはそのままにして、ちょっと違うことを書きはじめる。以下のように。)
ことばを新鮮に、力強くするものは何だろうか。唐突な飛躍になるかもしれないが、私は「正直」だと思う。あらゆるものは「前から」存在し、あらゆることがらは「前に起こったこと」である。(いままで存在しなかったものがあらわれたり、いままで起きなかったことが起きたりするとき、それをあらわすことばは遅れてやってくる。すぐにはやってこない。--「名付ける」ということからはじめなければならないからだ。)その、すべて「前」にあり、「前」に起きたことがらが、それでも、ことばにされたときに、それがあたらしく見えるとすれば、そこに新しい何かがつけくわえられているのであり、そのつけくわえられているのがセアドー・レトキーの場合、「正直」なのだ。人柄なのだ。
セアドー・レトキーのことば、いま私が引用した2篇の作品のことばは、いわゆる「現代詩」のように、ことばの可能性を追求したものではない。新しい実験をしているわけではない。それでも、そのことばが何か新鮮なものを含んでいるとしたら、その人柄の「正直さ」が新しいのだ。(私の印象では「正直」はいつでも新しい。その人自身であることが「正直」の基本だからである。--だから、鴎外は、魯迅は、永遠に新しい。)
その「正直」があらわされた1行、1文。それは「春の思い」のなかにある。
この「ぼくは嫌な気持ちになれない」というふいの「告白」。それが「正直」である。「嫌な気持ちになれない」は次の行で「嬉しいのだ」と言いなおされている。だから、次の行と続ける形で、「ぼくは嫌な気持ちになれない」を言いなおすと「みんな前に起こったことだけれど、ぼくは嬉しいのだ、まるで春がこれまで来たことがなかったみたいに。」になる。「ぼくは嫌な気持ちになれない」は省略しても、ことばの「意味」はとおってしまう。絶対に不可欠なことばではない。
辻井喬の「マタイ受難曲異文」について触れたとき、なくてもいい1行にこそ「思想」があると書いたが、ここでも同じことがいえる。なくてもいいけれど書かずにはいられない1行。そこに「思想」がある。
何かを「嫌な気持ちになれない=嬉しい」という気持ち。「嫌な気持ちになれない」を「嬉しい」ということばでそっとつつみこむときの、小さなこころの動き。その「正直さ」。そこに、きっとセアドー・レトキーの「思想」がある。
まだ詩集を読みはじめたばかりだけれど、そんな予感がする。
セアドー・レトキー。私は不勉強なので、セアドー・レトキーについては何も知らなかった。初めてその詩集を読んだ。最初にこころをひかれたのは「春の思い」である。その全行。
クロッカスはいつもの場所に頭を突き出し、
蛙の泡は緑色の泡とともに池にあらわれ、
男の子たちは去年と同じ間抜け顔で女の子たちをぼうっと眺めている。
が、ぼくはけっして退屈しない、その情景がどんなに見慣れたものであろうと。
納屋の下から猫が同じような子猫--黄と黒のぶちが二匹、
その中間が一匹--を連れて出てくると、それは
みんな前に起こったことだけど、ぼくは嫌な気持ちにはなれない--
春が来ると嬉しいのだ、まるで春がこれまで来たことがなかったみたいに。
これは私にとって「見慣れた光景」である。こども時代の、なつかしい光景である。(ただし、クロッカスというようなしゃれたものはなかったが。)。私は雪国で育ったので、春の、まだ冷たい田んぼ(池ではなく)で蛙の卵を見た。春を実感させる「いのち」である。
セアドー・レトキーが見ているものと、私が見たものは違うはずである。違うはずだけれど、この光景がなつかしい。なぜだろう。
2連目。
みんな前に起こったことだけど、
ああ、そうなのだと思う。みんな前に起こったこと、何も新しいことではなく、すでに起こったことがまた繰り返されている。この感覚が「なつかしい」のである。すべては「循環」する。前へ前へと突き進むのではなく、同じことを繰り返す。そういう「いのち」のあり方がある。そういうものに触れて、なつかしいと感じ、こころが落ち着いたのである。
繰り返し、なつかしい。けれど、それだけではない。
春が来ると嬉しいのだ、まるで春がこれまで来たことがなかったみたいに。
既に知っている。繰り返しだから知らないことは何もない。けれども、その繰り返しを、まるでそれがなかったかのように感じる。「まるで春がこれまで来たことがなかったみたいに」感じる。
なぜか。
ことばにしたからだ。いや、ことばにしなくても、そういう感じはあるのだけれど、ことばにすると、それがさらに新しく見えてくる。自分が何を見ているか、何を感じているか、それがはっきり見えてきて、どきどきする。
ここには詩を書く喜び、ことばを書く喜びがある。書く、ことばにする。そうすると、「前に起こったこと」が「前」にではなく、「いま」「この瞬間」に起きていることに生まれ変わる。書くたびに「過去」が新しくなる。
ここには書くことの秘密が隠されている。
人間が書くことができるものは限られている。知っていることしか書けない。知っていることを書いて何になるか。書くと、知っていることが、「過去」が、「いま」にあらわれてくるのだ。「過去」が「生き返る」「生まれ変わる」のだ。
ことばとともに生き返るのは「過去」(前に起こったこと)だけではない。
「夜の旅」の書き出し。
いま、列車が西に向かうと、
そのリズムは大地を揺さぶり、
ぼくはプルマンの寝台から
夜をじっと覗き込む、
が他の人たちは眠っている。
鉄のベルトで組んだいくつもの橋、
突然現れる木立、
山霧の垂れこめる窪地、
あらゆるものがぼくの視線を横切って行く、
それから荒涼たる荒れ地と、
膝元の湖。
カーブでは首筋いっぱいに
緊張を感じる--
筋肉は鋼とともに動き、
全神経は目覚めている。
ここでは、ことばは「前に起こったこと」ではないものを描いている。おそらくこの詩は初めての「夜の旅」を描いているから、それは「前」には起きようがないことである。はじめて感じる夜行列車のリズム。鉄橋が見え、木立が突然視界に飛び込んできて、そして飛び去る。山霧がたちこめていたのを見たかと思うと、次は湖に出会う。それはすべて「新しい」ことである。
けれど。
実は、これは「古いこと」(前に起こったこと、過去)でもあるのだ。
奇妙な言い方になってしまうが、鉄橋も木立も山霧も、それは詩人にとってはじめてみる「一期一会」の存在だけれど、その「一期一会」の存在をとおしてセアドー・レトキーは、かつて見た鉄橋、木立、山霧を見ている。旅ではじめて見るものをとおして、故郷の鉄橋、木立、山霧を見ている。鉄橋、木立、山霧を見た記憶があるから、いま鉄道の旅で目撃しているものが鉄橋、木立、山霧であるとわかるのだ。
「まるで春がこれまで来たことがなかったみたいに」ということばを利用していうと、「まるで鉄橋、木立、山霧をこれまで見たことがなかったかのように」新しい存在としてセアドー・レトキーは書いているけれど、それはすべて「前に」故郷で見たものである。見たものである--と断定すると「論理的」ではなくなるが、それは「前に」故郷で見たものと「同じ」何かである。それは故郷の存在とは違っているけれど、故郷につながっている。
鉄橋、木立、山霧--そういうものが、セアドー・レトキーだけのものではなく、誰かと共有されたもの、これからも共有されるものなのだ。
列車の客は眠っている。けれど、そういう眠りとは無縁で、やはり夜の列車の旅をした誰かわからない「若者」、夜を起きていて風景をながめたはずの「若者」と共有できるものにかわる。その「若者」はやはり故郷を出て、「夜の旅」をした。そして、鉄橋や木立や山霧を見た。そして、その「新しい」ものを見ながら、、故郷の(知っている)鉄橋や木立や山霧を思い出す。そういう「夜の旅」をした「若者」、これからそういう「夜の旅」をする「若者」とつながる。「過去」の「若者」とつながった瞬間、セアドー・レトキーの「いま」は、これから旅するかもしれない「若者」ともつながる。また、あらゆるひとの「故郷」とも「夜の旅」ともつながる。
「いま」という時間が、「過去」と「未来」を結びつけ、「ここ」がまったく別の場所ともつながる。そこに「永遠」があらわれてくる。
そして、その「永遠」をつくるのは、「新しい」何かではない。だれもが知っているもの、リズムであり、鉄橋であり、木立であり、山霧であり、湖である。そして、それらを呼ぶ「名前」であり、「ことば」である。だれもが知っていることばである。
ことば。だれもが知っていることば。ことばのなかにある「前に起こったこと」。ああ、ことばとは「前に起こったこと」の宝庫である。ことばとともに「過去」が目覚め、「未来」へと動いていく。
*
(ふと、中断をはさんで再び書きはじめようとすると、ちょっと違ったことが書きたくなった。--というより、書きながら、ああ、視点を変えないと、いけない。もっといいたいことがあるのに……、と感じ、突然、キーボードが打てなくなって、中断したのだ。私はいま眼の状態がよくないので、30分タイマーを設置して、30分書いたら休憩を取るようにしている。今回はタイマーが鳴る前からほとんど中断状態で、タイマーの音に促されて、あ、違うところから書き直してみようと思ったのだ。私はもともと何を書くか決めてから書きはじめるタイプの人間ではないので、書いている途中でどんどん書きたいことが変わってしまう。そして、書きたいことが変わったからといって、前を書き直すということはしないので、いつも奇妙な文章になるのだが……。今回も、書き直しといっても、前に書いたものはそのままにして、ちょっと違うことを書きはじめる。以下のように。)
ことばを新鮮に、力強くするものは何だろうか。唐突な飛躍になるかもしれないが、私は「正直」だと思う。あらゆるものは「前から」存在し、あらゆることがらは「前に起こったこと」である。(いままで存在しなかったものがあらわれたり、いままで起きなかったことが起きたりするとき、それをあらわすことばは遅れてやってくる。すぐにはやってこない。--「名付ける」ということからはじめなければならないからだ。)その、すべて「前」にあり、「前」に起きたことがらが、それでも、ことばにされたときに、それがあたらしく見えるとすれば、そこに新しい何かがつけくわえられているのであり、そのつけくわえられているのがセアドー・レトキーの場合、「正直」なのだ。人柄なのだ。
セアドー・レトキーのことば、いま私が引用した2篇の作品のことばは、いわゆる「現代詩」のように、ことばの可能性を追求したものではない。新しい実験をしているわけではない。それでも、そのことばが何か新鮮なものを含んでいるとしたら、その人柄の「正直さ」が新しいのだ。(私の印象では「正直」はいつでも新しい。その人自身であることが「正直」の基本だからである。--だから、鴎外は、魯迅は、永遠に新しい。)
その「正直」があらわされた1行、1文。それは「春の思い」のなかにある。
みんな前に起こったことだけど、ぼくは嫌な気持ちにはなれない--
この「ぼくは嫌な気持ちになれない」というふいの「告白」。それが「正直」である。「嫌な気持ちになれない」は次の行で「嬉しいのだ」と言いなおされている。だから、次の行と続ける形で、「ぼくは嫌な気持ちになれない」を言いなおすと「みんな前に起こったことだけれど、ぼくは嬉しいのだ、まるで春がこれまで来たことがなかったみたいに。」になる。「ぼくは嫌な気持ちになれない」は省略しても、ことばの「意味」はとおってしまう。絶対に不可欠なことばではない。
辻井喬の「マタイ受難曲異文」について触れたとき、なくてもいい1行にこそ「思想」があると書いたが、ここでも同じことがいえる。なくてもいいけれど書かずにはいられない1行。そこに「思想」がある。
何かを「嫌な気持ちになれない=嬉しい」という気持ち。「嫌な気持ちになれない」を「嬉しい」ということばでそっとつつみこむときの、小さなこころの動き。その「正直さ」。そこに、きっとセアドー・レトキーの「思想」がある。
まだ詩集を読みはじめたばかりだけれど、そんな予感がする。
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