詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

日和聡子「月村」、藤井貞和「山の歌」

2010-01-25 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
日和聡子「月村」、藤井貞和「山の歌」(「現代詩手帖」2010年01月号)

 ことばはことばと出会う。そしてかってに動いていく。それはどんな作品でも起きる。作者(詩人)にそのつもりがなくても、(と書いてしまうと、それは私の「誤読」、読み間違いであることの先回りした弁解になってしまうが)、ことばはかってに動いて、かってに世界を作り上げてしまう。そして、それは短い単語でも起きてしまう。
 日和聡子「月村」。ああ、どうしても「月山」を思い出してしまう。もう、読んだのか読まなかったのかも忘れてしまったけれど、森敦の小説。山の中の話、だったと思う。

降りしきる雪が
枯れた梢にもとまる山鳩にも
白く うすく 降りかかった

月村(げっそん)へ帰ってきてから
もうどれくらい経ったのか
幼い頃にあったものは もう皆なくなっていた
山鳩は身をふるわせて
積もった雪をふりはらった

 日和聡子の「現実」とどういう関係があるのか私には見当がつかないが、私のなかにあることばは、日和のことばに触れて、「月山」へ動いて行ってしまう。日和が書こうとしていることとは関係なく、別の「物語」を読もうとしてしまう。
 そこに、高屋窓秋の「山鳩よみればまはりに雪がふる」という俳句も重なって、死す静かな雪のなかの村が浮かび上がる。そして、孤独が浮かび上がる。
 それは、ことばがことばと出会うことには違いないが、そのことばは「かたまってしまった物語」である。
 それを、どうやって破壊していくか、あるいは深めていくか。日和のこころみていることは、「物語」を彼女自身の「肉体」で深め、その結果として「かたまってしまったもの」を揺り動かすということかもしれない。
 でも、それは私には、よくわからなかった。
 「鳩」に向き合う形で「白鷺」が描かれる。

雪を溶かして冷える流れに
白鷺が一羽 足を浸して
じっとうつむき 川面に視線を落としていた
山鳩はそれに 声をかけるつもりはなかったが
雪にあらがい 羽根を目一杯にふくらませて
はなれた岸の 草藪に身をひそめて
ついばむもののないひもじさに耐えながら
かの鳥が 何かを捕らえるところを見届けたいと
まるい目を鋭く翳らせて 瞠(みはっ)っていた

 鳩は女。白鷺は男。--そんなふうに、このあと「物語」は展開していくが、あ、ことばがことばと出会わずに、すでにあることばにからめとられてしまっている、と私は感じてしまった。鳩は女、白鷺は男とことばが動いていき、そこから一夜のセックスも描かれもするが、それはあまり読む気をそそらない。そこに登場することばは、ことばが出会うことで変化していくことばではなく、すでに語られたことば、すでに引き寄せられて固まってしまったことばであることが予想されるからである。
 ことばがことばを引き寄せ、かたまってしまったことば--「物語」になってしまったことば、流通言語になってしまったことば。それはそして、不思議なことに、「間違い」を引き寄せる。「かたまってしまったことば」の強い凝固力が自由に動いていくことばをしばりつけ、自由に動いていくことを許さないのだ。そういうことが、実際に起きるのだ。
 あ、具体的に指摘しよう。

山鳩は(略)
はなれた岸の 草藪に身をひそめて

 これは、何かを隠れて見張っている様子、この連の最後の「瞠(みは)って」と呼応することばである。そういう意味では「正確」である。だが、ほんとうだろうか。私は山鳩にはくわしくないが、山鳩が「草藪に身をひそめて」何かを見張っている、うかがっているという姿を見たことがない。くいっくいっと、伝書鳩とは違った羽根の動かし方で飛んでいる姿、高い木の見えないところからデデッポッポーと鳴く声しか聞いたことがない。たまに、庭のケヤキの梢に茶色い姿をみかけたが、小さくしか見えないので「山鳩」かどうかはよくわからない。
 この行を読んだとき、私の「肉体」は、あ、ここに書かれていることばは「肉体」がつかみとったとこば、「肉眼」で見たことが書かれているわけではない、と判断してしまう。山鳩が女、白鷺が男、というのは「肉眼」で見た姿ではないから、それはそれでいいのだ、という意見もあるかもしれないが、それではおもしろくないのである。
 山鳩が女、白鷺が男という「現実」は「肉眼」で見たものでなければ、詩にはならない。詩は「肉眼」で見た「間違い」をことばにしてしまったものだからである。「頭」で整理しなおした論理、あるいは整合性というものは詩ではない。
 何かを見張る(日和は「瞠」という字をつかっているが)。そのとき、見張る人間は安全な場所にいる。姿を隠して見張る。姿を隠すには「藪」がいい--というのは確かに「頭」の論理、「頭」の整理では、そうなる。けれど、山鳩だよ。飛ぶこと、木にとまることを習性としている鳥が、わざわざ草藪に身を隠す? しかも、冬だよ。雪も降っているよ。雪のなかでは、鳩の茶色い体は目立つじゃないか。身をひそめることにはならないんじゃない? 私の「肉眼」の記憶は、ここでつまずいてしまう。
 あ、ことばが凝り固まっている、凝り固まって日和の「肉眼」をふさいでしまっている--と感じてしまう。
 これは、詩の最後へいくと、もっと奇妙になる。ことばがコンクリートになってしまっている。「肉眼」の入る余地はどこにもない。

月村の年もあらたまったはでだというが
それを 誰が知るか ましてや 祝うか
釣瓶を落としごとくに日は暮れてゆく
宵のせまる河原に 白鷺をひとり残したまま
山鳩は後ろ手に羽根を組み 雪を踏んできびすを返す

 「釣瓶を落としごとくに日は暮れてゆく」。これは「肉眼」では絶対にとらえられない光景である。詩の書き出しは「降りしきる雪が」であった。たまたま、鳩が帰っていくとき雪が止んでいたのだことも考えられるが、「釣瓶落とし」というのは「明るい空(空気)」を前提としている。こんなに明るかったのに、急に--というのが「釣瓶落とし」の実感である。「肉体」が感じる急激さである。雪が降りしきっていれば、まわりは暗い。空は灰色。青空に舞う風花と呼ばれる雪もあるが、それは「降りしきる」とは言わないだろう。
 日和は、ここではことばを「肉体」で動かしていない。ことばが「肉体」を離れた場所で、かってにべつてことばと結び合っている。それも「自由」なことばの運動--と日和はいうだろうか。
 私は、そういう運動、ことばが、かつてどこかであったことばの「凝固力」にひっぱられてかたまってしまうことを「不自由」と呼びたい。詩は、そういう「不自由」を破壊する暴力にならなければならない。積極的なエネルギーにならなければいけないと思っている。
 「頭」でことばを動かしてはいけないのだ。それは、詩とはまったく逆のことなのだと思う。

 ことばはことばと出会う。それは「肉体」を裏切って動く。そればかりか「頭」を差し置いて動いてしまう。だからこそ、その運動を「肉体」に取り戻し、「肉体」の力でことばとことばが「自由」に出会えるようにしなければならないのだと思う。



 現代詩手帖の同じ号に、藤井貞和「山の歌」もある。日和の作品と同じように山が舞台である。

わたしは山を捨てる山をくだるもう食べる物がなくなるから、
わたしは妖精の全員が沢を降りる一族のあとに随(つ)いて降りる。
しばらく居残って木にだきついて緑を守る女たちに、
夕日が落ちると数人の老人の影になる緑よ美しく老いてゆけ。

 「妖精」を私は見たことがない。ここには私の「肉体」が知らないことが書かれている。けれども、それを私は、日和の詩を読んだときのように「頭」で書かれているとは感じない。「頭」のなかで、ことばが「整合性」(論理?)をもとめて動いた結果あらわれてきたことばとは感じない。
 なぜか。
 ことばのリズム、音楽が最初から私の「肉体」のリズムと違っていて、藤井独特のリズムではじまっているからだ。藤井のことばの「肉体」は私のことばの「肉体」と違った場所で動いている。それが最初から明確だから、そこに私の知らない物が登場してきても、それはそれでいいと私の「肉体」は納得するのだ。

わたしは山を捨てる山をくだるもう食べる物がなくなるから、
わたしは妖精の全員が沢を降りる一族のあとに随)いて降りる。

 1行目、2行目に句読点がついている。句読点はリズムである。句読点は「意味」を明確にするためにつかわれる。(学校国語では。)ふつう、他人の文章を読むときは、その句読点も「意味」を明確にするためにつかわれているという前提で、私はことばを読む。けれど、藤井のこの句読点のつかい方は、そういう学校国語の範囲を逸脱している。最初から何かを逸脱してことばが動いている。だから、「妖精」がでてきたって、それは奇妙でも何でもない。ことばの運動は最初から違っているのだから。
 句読点のつかい方の違いは、ことばのリズムそのものの動かしたかの違いでもある。

わたしは山を捨てる山をくだるもう食べる物がなくなるから、

 という行は、わかりやすく書き直すとすれば(流通言語のスタイルにするとすれば)、

もう食べる物がなくなるから、わたしは山を捨てる。(もう食べる物がなくなるから、)山をくだる。

 ということになる。ここには一種の倒置法がつかわれている。倒置法を理解するには、意識の持続性が必要である。先に行ったことばを持ちこたえていなければならない。持ちこたえていて、あとのことばを聞いたときに、いっきにひっくりかえす。そのとき、意識するかどうかはべつにして、ことばは2度動いている。
 「わたしは山を捨てる食べ物がなくなるから」ということばを聞いた(読んだ)肉体は、肉体のなかでそれを「食べ物がなくなるからわたしは山を捨てる」と無意識に反芻する。そのまま反芻するのではなく、ひっくりかえして反芻する。その「ひっくりかえす」というときの一瞬の「間」。それがこの藤井の詩のリズムであり、藤井のことばの「肉体」である。
 この「間」というのは、短いのか、長いのか、広大なのか、密着したものなのか、よくわからない。「自在」である。

夕日が落ちると数人の老人の影になる緑よ美しく老いてゆけ。

 は、実際、どう「間あい」を感じればいいのかわからない。私の「肉体」はその「間」をほとんどゼロに感じる。「わたしは山を捨てる山をくだるもう食べる物がなくなるから、」の倒置法の「間」よりももっと緊密なもの、けっしてずれることのない固い結び目のようにすら感じる。
 ことばの強引な運動が、私の「肉体」に奇妙な力で働きかけてくる。その瞬間瞬間に、私は「ことばの自由」を感じている。そして、「裏切り」も。

わたしは疲れる沢をさらに降りて池のみどろで脱ぐうろこで踏む。
鋸状の葉は木の葉蝶の擬態 ないあしうらで踏む かさこそ。

 「わたし」が人間であるとしたら「うろこで踏む」ということはできない。でも、そのできないことをことばで書かれると、それが「肉体」につたわってくる。「うろこ」なんて私の「肉体」はもっていないが、「うろこ」を感じてしまう。ことばが肉体を「裏切って」、うろこを感じさせてしまう。「ないあしうらで踏む」も同じ。「あしうら」が「足裏」なら、それは「ある」。けれど、ことばが「ないあしうら」と書くとき、私の肉体はことばに「裏切られて」、足裏をないものとして感じてしまう。

 変だねえ。変ですねえ。
 日和の書いている「雪の降りしきる日の釣瓶落としの日没」より、はるかに変。

 でも、「肉体」は藤井のことばは「正しい」。藤井のことばは「肉体」を裏切るから信じていい、と告げている。(日和のことばは「頭」で辻褄合わせをしているだけ、ごまかしているだけだから信じてはいけない、と告げいている。)
 ことばの「自由」は藤井のことばの運動の先にある、と告げている。




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