荒川洋治「青沼」(「現代詩手帖」2010年01月号)
荒川洋治はとても目がいい詩人だと思う。人間の眼は複数のものを見る。複数のものを見ているけれど、焦点をあてるのは「ひとつ」である。だから見えているようでも、あるものを見ているとき別のものは見えない。見ていない。そして、あるものから別のものへ焦点を移すとき、その「ふたつ」のあいだにあるものをひとは無視する。あたかもそんなものなどないかのようにふるまう。
「空間」だけではなく、「時間」においてもそういうことが起きる。
荒川は、けれど、「ふたつ」のあいだにあるものを無視しない。目があるものから別のものに移動する。焦点が移動する。そのときの「移動」の瞬間にこそ「なにごと」かがあるのだと感じ、それをすばやく見てしまう。見て、ことばにしてしまう。
「青沼」の書き出し。
かつては「屑物問屋」ということばとともにあったものがある。それはいまはたぶんそういうことば以外のものになっている。「再生原料卸」と荒川は書いているが、まさかねえ、そんな窮屈なことばではないだろう。リサイクルセンター(リソースセンター?)くらいだろうと思うけれど、そういう「事実」ではなく、「再生原料卸」ということばを出すことで、見えないものを見えるようにしているのだ。
私はずぼらな人間だし、視力もとても弱いので、「屑物問屋」と「リサイクルセンター」を、どんな「間」も感じずに結びつけてしまう。それこそ「非常に人は速い」ということになる。
視力のいい荒川は「屑物問屋」と「リサイクルセンター」の「間」にあるものに目を凝らす。そこにあるものを見てしまう。
「視力」というのは、もちろん一種の「記号」で、そこでは「もの」ではなく、ほんとうはことばが動いているのだから、ことばの感覚が鋭いと言い換えた方がいいかもしれない。
「屑物問屋」と「リサイクルセンター」の「間」。そこに荒川は「再生原料卸」という「ゆっくり」したことばを挿入する。挿入することで、ことば動きをねじひろげる。
あ、ことばがことばになる前のことばが動いている。
と思う。
言い換えよう。
どんなことばでも、それが「流通」するまでにはある程度の時間がかかる。「世間」に認知されるまでには時間がかかる。「屑物問屋」ということばは長い間「流通」していた。いつのまにか「屑物」ということばが嫌われ、「問屋」ということばも人が口にしなくなった。「流通」から消えてしまった。でも、「もの」には名前が必要である。
「屑物」は「再生原料」、「問屋」は「卸」。たしかに、日本語(?)にすれば、そうなる「はず」である。でも、多くの人間は、そういう直接目に見えるようなことばをつかいたがらない。ことばは何かを伝えるためのものだが、その伝えるという過程で、伝えたいものをなんとか「あたりさわりのないもの」にしたがる。「再生原料? それって、何? なぜ、そんな変なことばをつかう? 屑物、なんでしょ?」そういうふうに意識が動いてもらっては困るのだ。だから、そういうことを感じさせないように「リサイクル」という「日本語」になかったことばを持ってくる。「日本語」の「屑物」を感じさせないことばをもってくる。「屑物」から一気に「リサイクル」に飛躍する。それこそ「非常に人は速い」のだ。こういう決断(?)をするときは。
そのとき、ことばがこぼれ落ちる。スピードに乗り切れずに、ことばが振り落とされる。
その、こぼれ落ちたことばを荒川はきっちりと見つめる。そして、動かす。その瞬間、あ、ことばになる前のことばが動いている。ことばになる前のことばを荒川が動かしている--そう感じる。
「再生原料卸」ということばは、たぶん「流通」しない。「流通」しないかわりに、その「流通しないもの」のなかに、ふっと、何かが見える。あ、そういうことだったのか、と何かが頭をすっとよぎる。いや、すっとよぎるのではなく、頭が、そのことばの前で一瞬立ち止まる。そして、あ、見えなかったものが見えた--と感じ、なんだかうれしくなる。
この「うれしさ」は「流通」とは無縁のものである。だから(というのは、私独特の飛躍だけれど、だから……)私は、それを「詩」と呼ぶ。「流通」とは無縁の、そこにあることによって、それに気付く人間にとってだけ楽しくなる何か、うれしくさせる何か。それが、詩。
荒川は、そして、そうやって見えたもの、ことばになる前のことばを、ただ「名詞」として作品に提出するだけではなく、そのときのことばを「運動」にまで押し広げる。
「流通言語」が落としていったもの、その落とし物のなかの「いのち」を運動として押し広げる。「流通言語」になる前の、人間を動かす。「速い」ではなく、とてもゆっくり動かす。そうすると、どうなるか。
「リサイクル」という「速い」ことばに乗り遅れた「屑物」が、「原料」ということばをひきずって生きている。「このごみを片付けろ」「これはごみではなく再生原料です」。あ、そんなやりとりが聞こえてきそうだ。
ことばと、速い世間を(その速度を)拒絶して生きている何かがうごめいている。
ここから、私の考えは、さらに暴走して、荒川の書いていることとは関係ないかあるかわからないけれど、荒川に強引に結びつけて、こんなふうに考える。
荒川は、「流通言語」の「速い」動きに抵抗している。ことば(流通言語)になる前のことばを動かすことで、「流通言語社会」という構造そのものを拒絶し、ことばをもっと原始の状態に戻そうとしている。
ことばの原始の状態。
あ、この定義はきっと「流通言語」の定義である。荒川にはあてはまらない(あはめてはいけない)定義だと思うが、ちょっと他にことばが見あたらない。
ことばがことばになる前のことば。それが伝えるのは「機能」ではなく、「美しさ」なのかもしれない。「流通言語」は「機能」が優先する。「機能」を優先するために、余分なもの(再生原料・卸)というような、しっかりと人間の意識を動かしてしまうものを振り捨てる。振り捨てられたもののなかにも「美しさ」はあるはずなのに、「機能的」ではない、という理由で捨てられてしまうのだ。
3連目。
これはごみ屋敷(?)梶山商店の描写なのだと思うが、ああ、美しいと私は思わずうなってしまった。
「電話」がもっている「機能」を拒否して存在する「電話」のある「家」(暮らし)。「流通」からすっぽり抜け落ちて、ほんとうに「原料」のようにして、そこに屹立している。
「速さ」とは無縁の「美しさ」。
最終連が、とても素敵だ。
「うしろの風景」。この「うしろ」ということば。荒川は、いつも「速い流通言語」の「うしろ」をしっかり見ている。そして、それを「風景」として書くことができる強い視力をもった詩人である。
荒川洋治はとても目がいい詩人だと思う。人間の眼は複数のものを見る。複数のものを見ているけれど、焦点をあてるのは「ひとつ」である。だから見えているようでも、あるものを見ているとき別のものは見えない。見ていない。そして、あるものから別のものへ焦点を移すとき、その「ふたつ」のあいだにあるものをひとは無視する。あたかもそんなものなどないかのようにふるまう。
「空間」だけではなく、「時間」においてもそういうことが起きる。
荒川は、けれど、「ふたつ」のあいだにあるものを無視しない。目があるものから別のものに移動する。焦点が移動する。そのときの「移動」の瞬間にこそ「なにごと」かがあるのだと感じ、それをすばやく見てしまう。見て、ことばにしてしまう。
「青沼」の書き出し。
茶箱の底から出た
昭和四二年・武生市の詩の雑誌
うら表紙に「屑物問屋 田地商店」
の広告
非常に人は速い
屑物問屋はいまでは
再生原料卸とでもいうのかも
かつては「屑物問屋」ということばとともにあったものがある。それはいまはたぶんそういうことば以外のものになっている。「再生原料卸」と荒川は書いているが、まさかねえ、そんな窮屈なことばではないだろう。リサイクルセンター(リソースセンター?)くらいだろうと思うけれど、そういう「事実」ではなく、「再生原料卸」ということばを出すことで、見えないものを見えるようにしているのだ。
私はずぼらな人間だし、視力もとても弱いので、「屑物問屋」と「リサイクルセンター」を、どんな「間」も感じずに結びつけてしまう。それこそ「非常に人は速い」ということになる。
視力のいい荒川は「屑物問屋」と「リサイクルセンター」の「間」にあるものに目を凝らす。そこにあるものを見てしまう。
「視力」というのは、もちろん一種の「記号」で、そこでは「もの」ではなく、ほんとうはことばが動いているのだから、ことばの感覚が鋭いと言い換えた方がいいかもしれない。
「屑物問屋」と「リサイクルセンター」の「間」。そこに荒川は「再生原料卸」という「ゆっくり」したことばを挿入する。挿入することで、ことば動きをねじひろげる。
あ、ことばがことばになる前のことばが動いている。
と思う。
言い換えよう。
どんなことばでも、それが「流通」するまでにはある程度の時間がかかる。「世間」に認知されるまでには時間がかかる。「屑物問屋」ということばは長い間「流通」していた。いつのまにか「屑物」ということばが嫌われ、「問屋」ということばも人が口にしなくなった。「流通」から消えてしまった。でも、「もの」には名前が必要である。
「屑物」は「再生原料」、「問屋」は「卸」。たしかに、日本語(?)にすれば、そうなる「はず」である。でも、多くの人間は、そういう直接目に見えるようなことばをつかいたがらない。ことばは何かを伝えるためのものだが、その伝えるという過程で、伝えたいものをなんとか「あたりさわりのないもの」にしたがる。「再生原料? それって、何? なぜ、そんな変なことばをつかう? 屑物、なんでしょ?」そういうふうに意識が動いてもらっては困るのだ。だから、そういうことを感じさせないように「リサイクル」という「日本語」になかったことばを持ってくる。「日本語」の「屑物」を感じさせないことばをもってくる。「屑物」から一気に「リサイクル」に飛躍する。それこそ「非常に人は速い」のだ。こういう決断(?)をするときは。
そのとき、ことばがこぼれ落ちる。スピードに乗り切れずに、ことばが振り落とされる。
その、こぼれ落ちたことばを荒川はきっちりと見つめる。そして、動かす。その瞬間、あ、ことばになる前のことばが動いている。ことばになる前のことばを荒川が動かしている--そう感じる。
「再生原料卸」ということばは、たぶん「流通」しない。「流通」しないかわりに、その「流通しないもの」のなかに、ふっと、何かが見える。あ、そういうことだったのか、と何かが頭をすっとよぎる。いや、すっとよぎるのではなく、頭が、そのことばの前で一瞬立ち止まる。そして、あ、見えなかったものが見えた--と感じ、なんだかうれしくなる。
この「うれしさ」は「流通」とは無縁のものである。だから(というのは、私独特の飛躍だけれど、だから……)私は、それを「詩」と呼ぶ。「流通」とは無縁の、そこにあることによって、それに気付く人間にとってだけ楽しくなる何か、うれしくさせる何か。それが、詩。
荒川は、そして、そうやって見えたもの、ことばになる前のことばを、ただ「名詞」として作品に提出するだけではなく、そのときのことばを「運動」にまで押し広げる。
「流通言語」が落としていったもの、その落とし物のなかの「いのち」を運動として押し広げる。「流通言語」になる前の、人間を動かす。「速い」ではなく、とてもゆっくり動かす。そうすると、どうなるか。
K村の
沼であるべき場所に
梶山商店という店が
再生原料なのか
庭先まで物であふれている
「リサイクル」という「速い」ことばに乗り遅れた「屑物」が、「原料」ということばをひきずって生きている。「このごみを片付けろ」「これはごみではなく再生原料です」。あ、そんなやりとりが聞こえてきそうだ。
ことばと、速い世間を(その速度を)拒絶して生きている何かがうごめいている。
ここから、私の考えは、さらに暴走して、荒川の書いていることとは関係ないかあるかわからないけれど、荒川に強引に結びつけて、こんなふうに考える。
荒川は、「流通言語」の「速い」動きに抵抗している。ことば(流通言語)になる前のことばを動かすことで、「流通言語社会」という構造そのものを拒絶し、ことばをもっと原始の状態に戻そうとしている。
ことばの原始の状態。
あ、この定義はきっと「流通言語」の定義である。荒川にはあてはまらない(あはめてはいけない)定義だと思うが、ちょっと他にことばが見あたらない。
ことばがことばになる前のことば。それが伝えるのは「機能」ではなく、「美しさ」なのかもしれない。「流通言語」は「機能」が優先する。「機能」を優先するために、余分なもの(再生原料・卸)というような、しっかりと人間の意識を動かしてしまうものを振り捨てる。振り捨てられたもののなかにも「美しさ」はあるはずなのに、「機能的」ではない、という理由で捨てられてしまうのだ。
3連目。
電話をかけても誰も出ないのに
電話はある
という家のようにも思える
これはごみ屋敷(?)梶山商店の描写なのだと思うが、ああ、美しいと私は思わずうなってしまった。
「電話」がもっている「機能」を拒否して存在する「電話」のある「家」(暮らし)。「流通」からすっぽり抜け落ちて、ほんとうに「原料」のようにして、そこに屹立している。
「速さ」とは無縁の「美しさ」。
最終連が、とても素敵だ。
菱の実は早くから仲間をゆさぶって
泥の下に戻っていくようだ
人は非常に速い
町の帽子をかぶって
梶山商店の主人が
道の上に出てきた
青沼はきょうも
そのうしろの風景なのだ
「うしろの風景」。この「うしろ」ということば。荒川は、いつも「速い流通言語」の「うしろ」をしっかり見ている。そして、それを「風景」として書くことができる強い視力をもった詩人である。
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