山本まこと『不都合な旅』(書肆侃侃房、2009年10月18日発行)『鳥の日』(私家版、2009年04月12日発行)
山本まことの作品は書き出しがどれもたいへんおもしろい。「冬の日溜まり」(『不都合な旅』)は山本のなかでは異色なものである。いつものことばの炸裂がない。けれども、その部分がとてもいい感じなので、まず、その冒頭。
冬の日溜まりを見ていて、そのなかに亡くなった母の姿を思い出す。それを知っているのは山本が生まれて来たからなのだが、生まれてきたことさえ忘れてしまうような「永遠」の時間。
「私はまだ生まれていなくていいような/生まれるものは影だけであっていいような」は山本に特有の繰り返しである。一種の反対の動き(反対のことばの動き)を利用して、ことばの「いま」を動かす。その動きの瞬間に「永遠」が見える。
そのあとが、私はちょっと疑問に感じている。
ことばはことば自身で動いていく。書き手の思いなんか、無視して、ことばがことばじしんの力で生まれてくる--そういうことを私は信じているのだが、山本は、その自然に生まれてくることばをちょっと無理やり動かしている。
ええっ、ことばは、そんなふうには動かないだろう、といつも思ってしまう。「冬の日溜まり」のような、なつかしいような、とても自然な情景のときでさえ、ことばを無理に動かしている。その結果、ことばが「うるさい」感じになる。
だから、その部分は、引用しない。
途中を省略して、最後の2行。
「そんな奇妙な時間」のあと1行あけて、この2行を私は読みたい。引用しなかった7行を吹き飛ばして、その世界と向き合いたい。
「私はまだ生まれていなくていいような/生まれるものは影だけであっていいような」と揺さぶられた世界から、ぽーんと飛んでしまいたいのだ。視線を解放したいのだ。7行のなかには、信じられないくらいうるさい「音」がある。そんな音に比べると、麦を踏むひとの沈黙がどれだけうつくしい音楽かがわかる。
山本は敏感な耳をもっているのだけれど、その敏感さが「正直」を生かしきれていない、そんな感じがする。
あいまいな表現になってしまうが、谷川の「電光掲示板のための詩」の「ああ いい うう」は「正直」の真骨頂だが、そういうところから、山本の詩は離れてしまっている。特に引用しなかった7行は。
*
「鳥」(『鳥の日』)の書き出しもとても魅力的だ。
この飛躍。2行目の「に」という絶妙なタイミング。飛躍し、すぐに粘着する。(私のこの書き方は、変な日本語だね。)
ことば、イメージの、それ自体で飛躍していく力を、「に」という助詞がきわだたせる。「に」によって、最初の1行がそれ自体で独立し飛躍していると同時に、その飛躍があってはじめて次のことばが誘われるように、自由に飛び回ることができることがわかる。「に」は強い粘着力を持っているが、その粘着力に反発するようにことばが自由に動くのだ。粘着力がことばの自由な飛翔の誘い水になっているのだ。
あるいは、こういうべきか。
「に」そのものが、1行目の末尾にぶら下がることを拒絶し、2行目の冒頭に飛躍した。その飛躍に引っ張られて(なんといっても「に」には粘着力がある。西脇順三郎なら、こういうとき「に」ではなく「の」をつかう)、それまで隠れていたことばが宙を飛んでしまうのだ。
これはいいなあ、と思う。
しかし、冒頭の部分は、ほんとうは次のような形をしている。
ことばは飛翔しない。ずるずると粘着力にからみとられて身動きがとれなくなる。「いや、高さも深さも同じことだ」というような「いや」ということばをつかいながらも、どこにも「否定」の要素がないべたべたのことばにまみれてしまう。
ある意味では、この詩は「に」の粘着力に打ち負かされて、ことばの粘着力を証明する詩である--と定義しなおすこともできるのだろうけれど、それでは、ねえ……。
ことばに「意味」などない。書き手の意思など無関係に、ことばにはことばの運動がある。私はそう思っている。だから、冒頭の「薔薇の鏡/に隠れたひとの星と霜をそそのかし」にはたいへん感心するし、あ、いいなあ、このまま飛翔しつづけてほしい、自由なことばを自由なままに動かしてほしいと願うのだが、なんといえばいいのか、山本は「ことばにはことば自身の運動がある」ということさえ、「意味」と思ってしまうんだろうなあ、きっと。
それは違うのに。
「意味」ではなく、「音楽」なのに……。中断している西脇論を、また書きたくなった。
山本まことの作品は書き出しがどれもたいへんおもしろい。「冬の日溜まり」(『不都合な旅』)は山本のなかでは異色なものである。いつものことばの炸裂がない。けれども、その部分がとてもいい感じなので、まず、その冒頭。
冬の日溜まりには
猫がつけてきた草の実を
うつらうつらと取り除く母がいる
母はもういないのに
冬の日溜まりに許されて
また母を見る
セーターのほつれなんかはそのままに
私はまだうまれていなくていいような
生まれるものは影だけであっていいような
そんな奇妙な時間
冬の日溜まりを見ていて、そのなかに亡くなった母の姿を思い出す。それを知っているのは山本が生まれて来たからなのだが、生まれてきたことさえ忘れてしまうような「永遠」の時間。
「私はまだ生まれていなくていいような/生まれるものは影だけであっていいような」は山本に特有の繰り返しである。一種の反対の動き(反対のことばの動き)を利用して、ことばの「いま」を動かす。その動きの瞬間に「永遠」が見える。
そのあとが、私はちょっと疑問に感じている。
ことばはことば自身で動いていく。書き手の思いなんか、無視して、ことばがことばじしんの力で生まれてくる--そういうことを私は信じているのだが、山本は、その自然に生まれてくることばをちょっと無理やり動かしている。
ええっ、ことばは、そんなふうには動かないだろう、といつも思ってしまう。「冬の日溜まり」のような、なつかしいような、とても自然な情景のときでさえ、ことばを無理に動かしている。その結果、ことばが「うるさい」感じになる。
だから、その部分は、引用しない。
途中を省略して、最後の2行。
いま野にあるひとの
麦を踏むうつくしい沈黙!
「そんな奇妙な時間」のあと1行あけて、この2行を私は読みたい。引用しなかった7行を吹き飛ばして、その世界と向き合いたい。
「私はまだ生まれていなくていいような/生まれるものは影だけであっていいような」と揺さぶられた世界から、ぽーんと飛んでしまいたいのだ。視線を解放したいのだ。7行のなかには、信じられないくらいうるさい「音」がある。そんな音に比べると、麦を踏むひとの沈黙がどれだけうつくしい音楽かがわかる。
山本は敏感な耳をもっているのだけれど、その敏感さが「正直」を生かしきれていない、そんな感じがする。
あいまいな表現になってしまうが、谷川の「電光掲示板のための詩」の「ああ いい うう」は「正直」の真骨頂だが、そういうところから、山本の詩は離れてしまっている。特に引用しなかった7行は。
*
「鳥」(『鳥の日』)の書き出しもとても魅力的だ。
薔薇の鏡
に隠れたひとの星と霜をそそのかし
鳥がとぶ
その最果ての夢の流刑地
獰猛な犬のように
ガラスまでもが匂いはじめる
この飛躍。2行目の「に」という絶妙なタイミング。飛躍し、すぐに粘着する。(私のこの書き方は、変な日本語だね。)
ことば、イメージの、それ自体で飛躍していく力を、「に」という助詞がきわだたせる。「に」によって、最初の1行がそれ自体で独立し飛躍していると同時に、その飛躍があってはじめて次のことばが誘われるように、自由に飛び回ることができることがわかる。「に」は強い粘着力を持っているが、その粘着力に反発するようにことばが自由に動くのだ。粘着力がことばの自由な飛翔の誘い水になっているのだ。
あるいは、こういうべきか。
「に」そのものが、1行目の末尾にぶら下がることを拒絶し、2行目の冒頭に飛躍した。その飛躍に引っ張られて(なんといっても「に」には粘着力がある。西脇順三郎なら、こういうとき「に」ではなく「の」をつかう)、それまで隠れていたことばが宙を飛んでしまうのだ。
これはいいなあ、と思う。
しかし、冒頭の部分は、ほんとうは次のような形をしている。
薔薇の鏡
に隠れたひとの星と霜をそそのかし
鳥がとぶ
その最果ての夢の流刑地
獰猛な犬のように
ガラスまでもが匂いはじめる語の日蝕を生きて
打ち棄てられた意味の深海魚がたとえグロテスクであろうと
深くありたい
ただ深くありたいと
薔薇の鏡に隠れたひとの盲目のしんごんは
いや、高さも深さも同じことだ
いきなり空の鯨の高貴を浴びる
ことばは飛翔しない。ずるずると粘着力にからみとられて身動きがとれなくなる。「いや、高さも深さも同じことだ」というような「いや」ということばをつかいながらも、どこにも「否定」の要素がないべたべたのことばにまみれてしまう。
ある意味では、この詩は「に」の粘着力に打ち負かされて、ことばの粘着力を証明する詩である--と定義しなおすこともできるのだろうけれど、それでは、ねえ……。
ことばに「意味」などない。書き手の意思など無関係に、ことばにはことばの運動がある。私はそう思っている。だから、冒頭の「薔薇の鏡/に隠れたひとの星と霜をそそのかし」にはたいへん感心するし、あ、いいなあ、このまま飛翔しつづけてほしい、自由なことばを自由なままに動かしてほしいと願うのだが、なんといえばいいのか、山本は「ことばにはことば自身の運動がある」ということさえ、「意味」と思ってしまうんだろうなあ、きっと。
それは違うのに。
「意味」ではなく、「音楽」なのに……。中断している西脇論を、また書きたくなった。
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