詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井貞和「山の歌」(つづき)

2010-01-26 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
藤井貞和「山の歌」(つづき)(「現代詩手帖」2010年01月号)

 きのう、日和聡子「月村」について書いているうちに、気分というか気持ち(?)が変わってしまった。それで、変わった気持ちにあわせる形で藤井貞和「山の歌」について書きすすめた。どちらも中途半端な感想になって、ふたりにはちょっと申し訳ない気持ち……。
 で、藤井貞和「山の歌」について、少し補足。
 藤井の作品を読んでいて感じるのは、そのことばがどこへ向かって動いているのかさっぱりわからない、ということ。そして、これは読み終わったあともかわらない。どこへ動いたかわからない、という気持ちは、読み終わったあとでは、いったい何が書いてあったのかわからないという感想に変わっているのだけれど。
 それでも、いや、それだからこそ、なのかな? 藤井のことばはおもしろい。

 どこがわからないか。3連目。

深い契りが待っている早く終わってしまってほしいメイクを落としたい、

 たとえば、この1行目の「主語」がわからない。「わたし」かなあ。確かに、この詩の前後には「わたし」が出てくるから「わたし」なんだろうけれど、「わたし」って、「メイク」をしていたっけ? 思い出せないなあ。何に(何が)終わってほしいのかなあ。2連目に書かれている「歌」? そうだとすると、「歌」のために「わたし」はメイク(化粧?)をしていたことになる。そして、それはきっととても風変わりな化粧、扮装なのだ(ろう)。それを落とさないかぎりは「深い契り」ができない、扮装が「深い契り」を邪魔する。「深い契り」って、セックスのことだよな、きっと。セックスのときは「メイク」を落として、素顔で、ということかな?
 何かわからないけれど、こういう行を読むと、(私の読んだふうにことばをとらえると、という限定的な意味でのことだけれど)そのことばの奥からふいに「過去」があらわれてくる。いま書いた部分を振り返ると、「わたし」がメイクをしていたということが、突然、事実としてあらわれてくる。そして、2連目の「歌合戦(?)」が素顔でおこなうものではなく、特殊なメイクでおこなうものだということもわかる。さらには、その「歌合戦」は「深い契り」をするための「前哨戦」のようなものだということがわかる。
 ことばが過去→現在→未来という具合に、いっぱんに言われている「時間の流れ」にそって動いているのではなく、「現在」のことばが「過去」を説明し、その「過去」が突然というか、「現在」をとおりこして「未来」と結びつき、「現在」の「意味(?)」をかえるような感じだ。「いま」のなかに「過去」が噴出してきて、それが「未来」を何か予想していなかったものに変えようとしている。--うまく書けないが、「時間の流れ」というものがあるとしたらのことだけれど、それは藤井のことばのなかでは一直線ではない。過去→現在→未来という一直線ではなく、現在が過去を説明しなおすというか、とらえなおすことによって、はじめて未来というものが動きはじめる--そういう感じ。
 何が起きるかは「過去」が決定するのではなく、「現在」が「過去」をどう説明するか、「過去」のなからかどんな「事実」をひっぱりだしてくるかによって次々に変わる。つまり、そこでは、ことばの「予定調和」というものがないのだ。
 ただただ動いていくだけなのだ。いや、動いていくというより、「いま」「ここ」で動き回るだけ。どこへも行かない。どこへも行かずに、ただ動く。ただ動くだけ、どこへも行かないのに、それが「いま」でも「ここ」でもないものになる。--変だねえ。矛盾だねえ。説明になっていないねえ。
 
 先の1行を次の1行とつづけて読むとき、わけのわからなさはさらに拡大する。(増幅する?)

深い契りが待っている早く終わってしまってほしいメイクを落としたい、
結納の沼から錆びついたナイフを拾いあげることばを切るためには。
 
 「……ためには。」で句点が登場する。そうすると、この2行は倒置法? 倒置法を正しい(?)順序にすると、どうなる?
 わからない。
 ことばを切るためには、結納の沼から錆びたナイフを拾い上げる。そしてそのナイフでことばを切って、ちょうどメイクを落とすように、あるいは過去→現在と流れることばの流れを断ち切り、そんなふうにして「歌合戦」を早く終わらせ、そのことば流れから脱出して深い契りの世界へ突入したい--ということ?
 むりやり考えれば考えられないことはないけれど(どんなことだって、ことばにしてしまえば、そこに「論理」くらいはできるからね)、それはやっぱり、なんのことかわからない、とケリをつけた方がいいしろものだ。
 わからない。そのことばの「論理」、あるいは「意味」はわからない。けれど、わかることがある。どうも、藤井のことばは学校国語の文法とは違うということ。あえて学校文法のことばで説明すれば、多くのことばは「倒置法」によって書かれているけれど、それは正確な(?)倒置法というか、単純な(?)倒置法ではない、ということ。ややこしいと言うべきなのか、藤井独自のというべきなのか、そのことばはどこかで「倒置法」でつながりながら、常に「いま」を、それまで意識しなかった「過去」で説明し、そうすることで「現在」を「未来」から解放し、「予定調和の未来」とは違う世界へ時間を動かしてしまう。--「予定調和の未来」とは違ったものが次々にひろがるので、私は「わからない」と言うしかないのである。
 (ここで、日和聡子「月村」について補足すれば、日和のことばは「予定調和の未来」へまっすぐにつづいており、それをまっすぐにするために「頭」でことばを動かすために、雪の降りしきる日なのに「釣瓶落とし」がでてきたりしてしまうのだ。)

 藤井は、また「いま」のことばのなかへ「過去」も引き揚げるとき、その「過去」の「場」を「ここ」に限定しない。「山」を描いているからといって「場」を「山」に限定しない。限定しないけれども、ちょっと気になって(?)、それっぽくなるように「過去」を「捏造」したりする。

道沿いの洗濯物と●(えな)とを干す洗濯機から魂をしぼりきったあとでは、
脱いである制服も洗ってしまえ三〇〇人が消えてゆく廃校の体育館。
             (谷内注・引用の●は原文では「胞+衣」の1文字)

 洗濯機、制服、廃校。そのことばによって、「山」の学校、女子(!)生徒、体育館のにおいなどが「過去」として「捏造」されるのだ。その「捏造」は「廃校」ということばで「理由づけ」されるのだ。
 ああ、この強引さ。何がなんでも「予定調和」を破ろうとすることばの欲望。

 書きたいことというか、結論というものなど、どこにもない。そんなものがあるとしたら、ことばの行く先にあるのではなく、ことばが動くこの一瞬にだけ存在する。ことばは、あらかじめ用意された「意味」に向かって動いていくのではない。ことばは、その勝手気ままな動きによって「意味」という「未来」を「過去」からひっぱりだしてくるだけなのだ。
 それが、詩、である。

 ことばはすでに書かれている。どんなことばでも書かれていないことばなどない。だから、ことばを書くということは、過去のことばを過去から解き放ち、「いま」のなかで過激に動かす。その動きのなかに、--もし、「未来」というものがあるとするなら、もし、「意味」というのものがあるなら、その動きのなかにだけ「未来」とか「意味」というものがある。
 「現代詩」の「現代(いま)」とことばの関係を整理すると、そういうことになるかもしれない。



神の子犬
藤井 貞和
書肆山田

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