詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

丸山乃里子『赤梨』

2010-01-11 00:00:00 | 詩集
丸山乃里子『赤梨』(本多企画、2009年09月10日発行)

 丸山乃里子『赤梨』は不思議な文体をもっている。文体に不思議な力がある。不思議な美しさがある。「雁」という作品は、家のなかに猿が入り込んできた、というところから始まる。欄間(あ、なつかしい。いまは、そんなものを家につくるようなところはないだろう)に猿がいる、と母がいうところから始まる。その猿を家の外へ追い出して、そのあと。

動悸のおさまらぬまま母の部屋へもどると
母は黒いレースの下着の
背中のファスナーを上げてくれと言う
「どこから持ってきたの?」
これは私が弔事用にしまっている下着なのに

「あの箪笥」
あの箪笥の取っ手は歩くたびにカタカタ鳴って
うるさいので和紙を細長く折って一個ずつに結びつけている

それは母の仕事だったが
几帳面な性格をあらわして
一枚一枚同じ長さ 同じ結びで
月夜の雁のように並んでいた

 いまの読者にはちょっと説明がいるかもしれない。金の取っ手のついた箪笥というものがもはや普通の家にはないかもしれない。家が古くなると、床がきしむ。その影響で、箪笥の取っ手(金具)がゆれて、音を立てる。その音を避けるために取っ手に和紙を結ぶ。金具が直接ぶつからず、和紙がクッションになり、音が小さくなる--そういう工夫を昔はしたのだ。
 その工夫の結び目。それを几帳面な母がやった。それで、その結んだ和紙の形は、みんなそろっていて、それが雁が飛んでいるように見える。
 詩は、そういう事実をたんたんと書いている。
 そのことばの美しさは、暮らしがつくる遊び(暮らしに潤いをもたせるための工夫)が生み出すものである。破れ障子をふさぐとき、ただ紙を貼るのではなく、あてる紙を雪の結晶にしたり、花びらにしたりするような工夫、暮らしを豊かに飾る工夫、そのときの美しさ。工夫のなかに、人間とともにいきている「自然」が静に取り入れられている美しさ。自然との自然な交流の美しさ。自然と交流するときの美しさ--それをことばにするとき、そこに暮らしの美しさが浮かび上がる。
 丸山の詩のことばは、そんなふうに、私には見えてくる。丸山は、彼女が生まれ育った土地の暮らしの美しさを、ことばの「肉体」として持っているのだ。
 そして。
 この「雁」に出会ったとき、また、この詩の別の世界も見えてくる。「雁」はほんものの雁ではない。和紙の結んだ形。もし箪笥の取っ手がカタカタ鳴るのを防ぐための和紙の形が雁に見えるのだとしたら、猿は? 猿はほんものだろうか? たぶん、ほんものではない。欄間の透かし彫り(だと、思う)。それは「彫りあげた形」とともに「穴」というか「隙間」の形もある。うねるつたを彫った欄間。うねる木の形に注目すればつたが見える。けれど、そうではなく「隙間」を見るとどうなるか。空間が猿に見えるかもしれない。そういうことは、十分にある。--それを見て、母は「猿が欄間にはさまっている」と言ったのだ。1連目を正確に引用すると……。

母がこわそうな目で欄間を指さすので
見ると
いつもは蔦の透かし彫りがある欄間に
蓑笠を背負った猿が二匹嵌まっている

 「嵌まっている」は「挟まっている」ではない。それは、眼の錯覚である。錯覚であることを知っているけれど、それを承知で丸山は演技している。猿を追いだす演技をしている。母はたぶん痴呆症とまではいかないにしろ、現実の認識があやふやになりかけている。だから丸山の弔事用の下着を取り出して着るというようなこともしているのだろう。
 ここには、ほんとうは深刻なことが書かれている。
 けれども丸山はその深刻な「暮らし」を、とても美しく自然なものにしている。自然なものとして仕上げている。箪笥の取っ手がカタカタ鳴るのを、取っ手に和紙を結ぶことでうるさくないようにするように、母の介護、認知症の問題を、美しい人間と自然の交流のなかへ返している。認知症の母--彼女は暮らしから逸脱していくのではなく、自然の美しさへ返っていくのだ、自然と交流しているのだととらえなおしている。
 そんなふうに、暮らしを自然そのものへと返すことができる文体を丸山は持っている。それが美しい。とても美しい。

 丸山は、彼女が生まれ育った土地の暮らしをしっかり自分の「肉体」として持っている。その暮らしは必ずしも現代の定義で「美しい」と呼べるものではないかもしれない。楽しい暮らしというより苦しい暮らしかもしれない。けれど、その苦しい暮らしを美しくする方法、どんなふうにことばと事実を結びつければ暮らしが美しくなるかを知っていて、それを静かな声で実践している。
 たとえば、「氷切り場」。冬、川に張った氷を切り出して売る。そのつらい暮らし。そのつらさを、氷の美しさがどんなふうに生まれてくるかを次の様に描くことで、くらしそのものを美しくするのだ。暮らしがことばを鍛えると同時に、ことばが暮らしを美しく整えていくのだ。

氷が切り出されたあとの四角い穴のなかの黒い川
白い花びらに似た こぼれた氷片を浮かべ
黒く流れてゆく水

他の季節には浮き沈みを見せていた腐敗物
すべてを沈め 表面を白く凍らせて
その分だけの暗さ
散り落ちた氷片は傾き回転しつつ
さらなる深い場所へと導かれてゆく

 ここには、暮らしに対する深い愛がある。肉体で暮らしをしっかり抱え込む愛がある。それがとても美しい。

 「筏」に描かれた「青い針」も美しい。それは暮らしというより、丸山の子供時代の「冒険」なのだけれど、自然とのゆたかな交流が「青い針」という美しいことばになっている。
 詩集の表題にもなっている「赤梨」はとても不思議な作品である。
 そこに描かれる「馬」はほんものの馬なのか。あるいは「雁」に登場した「猿」や「雁」のようなものなのか。たぶん後者なのだと思うけれど、では、それが実際には何なのか、ということは私にはわからない。「フシ」という作品では「フシ」は実は「ヒシ」、「キリンヶ原」は「霧ヶ原」と説明されている。そこには「牛」も出てくるが、これは「フシ」から引き出された「誤読」のようなものだから、「馬」もほんとうは何かの「誤読」だろうと思うけれど、私には、それが何かわからない。
 たぶん、丸山にも、それが何かはわかっていないのだと思う。そして、わかっていないからこそ、そのことばを追いかけるのだ。追いかけて、その先にある(その奥にある、あるいは、その出発点にある)何かを「肉体」のようにつかみだそうとしている。そういう夢が、そこには描かれていると感じられる。
 箪笥の取っ手の和紙から「雁」を見つけたしたように、「馬」から逆にたどって「暮らしの知恵」そのものを肉体としてつかみだしたい。そういう夢が静に語られている。
 詩集を買って、ぜひ、読んでみてください。

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