詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

オーレ・クリスチャン・マセン監督「誰がため」(★★★)

2010-01-12 11:05:45 | 映画

監督 オーレ・クリスチャン・マセン 出演 トゥーレ・リントハート、マッツ・ミケルセン

 ナチス占領下のデンマークの地下抵抗組織を描いている。
 デンマーク映画というと「ペレ」「愛の風景」のビレ・アウグストくらいしか私は知らない。(「マンデラの名もなき看守」もビレ・アウグストが監督だったかな?)しかし、その「ペレ」の映像は強烈に目に焼きついている。麦畑。晴れた空を雲が動いていく。その雲の影が黄金の麦畑を横切っていく。そこにあるものを、あるがままに、揺るぎなく映し出すカメラ。
 そのときのカメラが誰だったか知らない。「誰がため」のカメラも誰かは知らないが、この、あるがままをカメラを据えてしっかりとらえるというのはデンマーク映画の基調なのかもしれない。「誰がため」でもカメラが動き回るというより、しっかりと一定の場所に固定され、そのカメラのなかで「事件」(できごと)が起きる。
 このカメラのあり方は、この映画にとても合っている。
 地下組織の二人、冷徹なナチス暗殺者と、暗殺に苦悩する気弱(?)な男。その二人の違いがゆるぎのないカメラでくっきり浮かび上がってくる。二人の対比が、スクリーンのなかの空気を動かす。それは「ペレ」の麦畑の上を動いていく雲の影のようでもある。冷徹な暗殺者があくまで晴れ渡った青空のような空気であるのに対して、コンビを組むもうひとりの男の気弱な感じ、妻に「家庭はどうするの。私たちの愛はどうなるの」と迫られ、悩む男は雨をもたらすかもしれない黒い雲の影なのだ。
 冷徹な男が動くシーンでは、爆破(爆撃?)さえも、なんとも華麗である。不謹慎な例かもしれないが、 9・11のツインタワーのビルの崩壊、噴水のように崩れていくビルを見るように、まるではいけいで起きていることが「華麗な映像」なのである。現実感が乏しく、幻のように感じられる。「いのち」が、そこでは度外視されている。暗殺も同じ。まるでどんな障害もないかのように、男はスタイリッシュに標的に近づき、華麗に銃殺する。たじろがない。そこには「いのち」は存在せず、ただ「任務」というものだけがある。不動の(標的に近づくときでさえ、不動という印象がある)男のまわりで、世界が「いのち」とは無関係に動いていく。そういう一種の美しさがある。
 一方、気弱な男、愛に苦悩する男の場合は、まったく逆。まわりは動かない。男だけが動く。妻は、男の「任務」を受け入れることができない。女はただ愛だけをもとめる。その愛をもとめるという「不動」の信念が、男を捨て、別の男と家庭を築く、結婚するという形をとるのだが、それは女にとっては「動き」ではなく。女は、動いていない。女の立場を変えていない。その不動の女の存在によって、気弱な男はさらにゆらぐ。一方に任務があり、他方に愛がある。その間で、雲のように「風」に流される。
 そういう二人を巻き込んで、地下組織の実体も描かれる。それは必ずしも完璧(?)な抵抗組織ではない。地下組織のメンバーはナチスに抵抗しているのは事実だが、ナチスを弱体化することだけのために動いているわけではない。そこには自己の「利権」もある。そういう地下組織の、いわば「影」も、この映画はしっかりとらえている。起きたことすべてを、たんたんと、しっかりとカメラにおさめている。
 「イングロリアス・バスターズ」のような、見終わったあとの快感はないけれど、(むしろ、非常に苦しい気持ちになるのだけれど)、「事実」を見せられてしまったという重さが残る。「事実」を伝えるんだという気迫がつたわってくる映画だった。



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谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」

2010-01-12 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」(「現代詩手帖」2010年01月号)

 谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」は横書きと縦書きの部分から構成されている。横書きは横に流れる電光掲示板、縦書きは縦に流れる電光掲示板のための作品ということだろう。
 この詩には不思議な印象がある。
 谷川には、何を書くか、そのことが決まっていない。決まっていない段階で、谷川はことばを書きはじめる。--最近の谷川の詩を読んでいると、特に、そういう感じがする。こういうことを、こういう順序でこんなふうに書いて、結論はこれこれ……ということは決まっていない。けれども書きはじめる。
 どうなるか。
 書きはじめたことばがことばを呼び寄せる。ことばのなかの「声」が何かにぶつかり、そこから「声」が跳ね返ってくる。それは最初からそこにある「声」なのだが、それが最初から見える(聞こえる)わけではない。無音の、透明な、「声」。それが、谷川が発したことばによって呼び覚まされ、動きはじめる。
 そういうことばの運動がある。

 横書きの詩。その書き出し。

コトバが文字になっている 声をもっているはずなのに コトバは音を失って(それとも意図的に黙って)おとなしく流れていく

 「声をもっているはずなのに」の「声」ということばが痛切に響いてくる。ことばは「声」であるはずだ、という認識が谷川にはあるのだと思う。その「声」をもとめる「声」が、「声」をもたずに文字となって流れていくことばに対して「コトバが文字になっている」と悲痛な「声」をあげる。
 それに呼応するように、ことばが動きはじめる。
 「コトバが文字になっている」ということばを書いたとき、「声をもっているはずなのに コトバは音を失って(それとも意図的に黙って)おとなしく流れていく」ということばはまだ存在していなかった。「コトバが文字になっている」ということば(声)を聞きとって、あるいはそのことば(声)にぶつかって、隠れていた「声」が動きはじめたのである。
 これを、「声」ではなく、谷川が書いているように「コトバ」といってしまってもいいのだろうけれど、私には、なぜか「声」と言い換えた方がぴったりくる。私の感性には、というだけの問題かもしれないが、「声」と意識すると「文字だけになっている」の悲しみがわかるような気がする。
 「声をもっているはずなのに」と「声」は一回つかわれるだけだが、それ以後のことばは「文字」で書かれているけれど、私には「文字」ではなく、「声」に聞こえる--という不思議な(不気味な)ことも、私には起きる。書かれた文字を読んでいる。「文字だけになっている 声をもっているはずなのに」ということばのなかに、悲しい悲しい「声」があるために、それ以後のすべてのことばが「声」になっている聞こえてくる。

 だが、その「声」を聞きながら、何を書いていいか谷川はわからない。わかっていないと思う。わかっていないから、わかろうとしている。耳をすまして、ことばの「声」を聞き、それを「文字」に置き換えている。
 ことばのなかの「声」をさぐっている。
 さぐっているから、つまり書くことが最初から決まっていて、それを書いているわけではないから、「声」は何をどういっていいかわからず、とぎれる。沈黙することがある。その沈黙は、ただことばを発しないということではない、と思う。自分の「声」を封じ、自分の発した「声」に呼応する「声」が返ってくるのを待っているのだ。近くからかえって来ることもあれば遠くからかえって来ることもある。思いもかけないところからかえってくることもある。そういうとぎれとぎれの「間」を空白ではさんで、「正直に」詩はつづく。(この「正直」が私は、とても好きである。)

この間も私がつくっているんじゃないんです 何ものかに私はプログラムされている

 この1行のなかの「プログラム」は、電光掲示板そのものの文字表示のプログラムをさしているけれど、もしかすると「声」(ことば)というものの存在そのもののプログラムをさしているかもしれない。
 ことば、声は、どこかに最初から、どこかに存在する。それが、たとえば人の「声」にぶつかって反応し、聞こえてくる。その「反応のプログラム」。そういうものが、どこかにあるかもしれない。谷川は(--詩のなかの、「私」は)、「何ものか」に「プログラムされている」。谷川が(電光掲示板が)、「間」を含めた詩を作っているのではなく、「何ものか」が谷川を利用して(?)詩の形にことばを整えている。谷川は、その「声」の変化を聞き取り、それを書いている。
 谷川の「正直」は、何か人間を超えた「正直」につながっている。
 「正直」がつながってしまうと、最初は書くことがなかったはずなのに「声」が次々に押し寄せてきて、身動きがとれなくなってしまう。「声」に「声」が反応して、合唱になってしまう。

すべてがコトバで語られるから コトバはときどき自己嫌悪におちいってしまう 無名の 無言の存在に憧れる とこれもコトバで言うしかないんです ああ もう黙りたい 黙っていたい だれか止めてください コトバを止めてくれ

 「正直」は止めようがない。この「プログラム」は終わらないのだ。終わりがないのだ。「声」はかならずぶつかり、それは反響し、別の「音」(声)を出してしまうのだ。

 --と要約してしまうと、そこに「意味」が生まれ、なんだ、谷川には書きたいことがあったではないか、ということになってしまうかもしれないけれど。(まあ、それは、ことばがいきついてしまう「結論」といえば「結論」であって、……。)

 私の印象は、ちょっと違う。
 そういう「結論」は「結論」としておいておいて、この最後に登場する「黙っていたい」ということば。そのことについて書いておきたい。

 この作品の最初に「声」ということばがあった。それは次々に「声」とぶつかり、さまざまな「声」を引き出してきたのだけれど、それはずーっと「文字」として書かれていた。だから、ほんとうは「もう書きたくない」でもいいはずである。ところが谷川は「もう書きたくない」とは絶対に書かない、と私は思う。
 谷川はいつでも「声」を聞いているのだ。
 もし谷川が人間を超える「正直」と直面し、谷川自身が「正直」になったとき、そのとき谷川は「ことば」を聞いているのではない。あくまで「声」を聞いているのだ。ことばには最初から「意味」があるかもしれない。けれど「声」には最初は「意味」はない。ただ「肉体」を通り抜けてくる「音」、「肉体」を響かせる「音」だけである。「音」が谷川の「肉体」を通ることで、「声」になる。その「声」が他人と共有されるとき「ことば」になる。ことばは「文字」にもなるけれど、それはほんとう「声」。「声」に戻さなければならない。

 「声」の苦痛を聞きながら、谷川は「声」を響かせている。
                                  (つづく)


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