監督 オーレ・クリスチャン・マセン 出演 トゥーレ・リントハート、マッツ・ミケルセン
ナチス占領下のデンマークの地下抵抗組織を描いている。
デンマーク映画というと「ペレ」「愛の風景」のビレ・アウグストくらいしか私は知らない。(「マンデラの名もなき看守」もビレ・アウグストが監督だったかな?)しかし、その「ペレ」の映像は強烈に目に焼きついている。麦畑。晴れた空を雲が動いていく。その雲の影が黄金の麦畑を横切っていく。そこにあるものを、あるがままに、揺るぎなく映し出すカメラ。
そのときのカメラが誰だったか知らない。「誰がため」のカメラも誰かは知らないが、この、あるがままをカメラを据えてしっかりとらえるというのはデンマーク映画の基調なのかもしれない。「誰がため」でもカメラが動き回るというより、しっかりと一定の場所に固定され、そのカメラのなかで「事件」(できごと)が起きる。
このカメラのあり方は、この映画にとても合っている。
地下組織の二人、冷徹なナチス暗殺者と、暗殺に苦悩する気弱(?)な男。その二人の違いがゆるぎのないカメラでくっきり浮かび上がってくる。二人の対比が、スクリーンのなかの空気を動かす。それは「ペレ」の麦畑の上を動いていく雲の影のようでもある。冷徹な暗殺者があくまで晴れ渡った青空のような空気であるのに対して、コンビを組むもうひとりの男の気弱な感じ、妻に「家庭はどうするの。私たちの愛はどうなるの」と迫られ、悩む男は雨をもたらすかもしれない黒い雲の影なのだ。
冷徹な男が動くシーンでは、爆破(爆撃?)さえも、なんとも華麗である。不謹慎な例かもしれないが、 9・11のツインタワーのビルの崩壊、噴水のように崩れていくビルを見るように、まるではいけいで起きていることが「華麗な映像」なのである。現実感が乏しく、幻のように感じられる。「いのち」が、そこでは度外視されている。暗殺も同じ。まるでどんな障害もないかのように、男はスタイリッシュに標的に近づき、華麗に銃殺する。たじろがない。そこには「いのち」は存在せず、ただ「任務」というものだけがある。不動の(標的に近づくときでさえ、不動という印象がある)男のまわりで、世界が「いのち」とは無関係に動いていく。そういう一種の美しさがある。
一方、気弱な男、愛に苦悩する男の場合は、まったく逆。まわりは動かない。男だけが動く。妻は、男の「任務」を受け入れることができない。女はただ愛だけをもとめる。その愛をもとめるという「不動」の信念が、男を捨て、別の男と家庭を築く、結婚するという形をとるのだが、それは女にとっては「動き」ではなく。女は、動いていない。女の立場を変えていない。その不動の女の存在によって、気弱な男はさらにゆらぐ。一方に任務があり、他方に愛がある。その間で、雲のように「風」に流される。
そういう二人を巻き込んで、地下組織の実体も描かれる。それは必ずしも完璧(?)な抵抗組織ではない。地下組織のメンバーはナチスに抵抗しているのは事実だが、ナチスを弱体化することだけのために動いているわけではない。そこには自己の「利権」もある。そういう地下組織の、いわば「影」も、この映画はしっかりとらえている。起きたことすべてを、たんたんと、しっかりとカメラにおさめている。
「イングロリアス・バスターズ」のような、見終わったあとの快感はないけれど、(むしろ、非常に苦しい気持ちになるのだけれど)、「事実」を見せられてしまったという重さが残る。「事実」を伝えるんだという気迫がつたわってくる映画だった。
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