詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「パスカル」

2010-01-01 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「パスカル」(「現代詩手帖」2010年01月号)

 正月なので「初笑い」をしたい--と望んでもかなわないことが多いのだが、笑ってしまった。私は行儀が悪く、食べながら、飲みながら読むのが好きである。そして、いやあ、吹き出してしまった。後片付けがたいへんである。

 岡井隆「パスカル」は正月らしく(?)華やいだ感じ、わくわくする感じではじまる。あ、正直にいうと、すけべごころを刺戟されて、ついついことばを追ってしまう--ということなんですが……。正月に、すけべな気分になるのはいいなあ、と私は思っているのです。と、また脱線してしまったけれど。
 1連目。

晩年の父には不思議に若やいだところがあつて古稀をすぎても「隆、パスカルの原理をそらんじてご覧よ」と言つたりした その蔭に果たして女が居たのであつた

 父と息子と、父の女。まあ、そこから始まる展開はよくドラマにあるような感じである。人間のやることは、そんなに変わったことはない。だいたい同じである。そのだいたい同じこと(?)が、どちらかというとたんたんと語られていく。語られていく内容も(ストーリー?)も、まあ、おもしろいけれど、なんといっても語りかたのリズムがおもしろい。
 1連目だけではわからない。2、3連と進むと、そのリズムが独特であることがわかる。

女は雰囲気としては母の生前にもう居てその憂患の源泉だつたとはあとから知つた 母の死後のあるひ病棟で朝回診(あさくわいしん)してゐると呼び出されて電話に出てみたらその女であつた

「隆さん」と親しげに呼んで「お父さんはね後妻(あと)に入れて下さらないのですよ」とおだやかだが涙も確かに混じつた声で訴へてゐたその人とは結局会ふことはなかつた

 読点「、」がない。読点「、」で一呼吸してことばの運動を整える、ということがない。読点「、」で一呼吸しながら私はことばの「論理」というものを考えるが、岡井の書いていることばにはそういう「論理」がないのだ。
 そして、そのかわりに、「勢い」というものがある。立ち止まらない。振り返らない。ただ突き進んでいく。
 それはそして、ほんらい読点「、」ではなく、句点「。」で完全に立ち止まらないといけないところ(? --ひとそれぞれで、そこで立ち止まる必要はないというかもしれないけれど、一般的にひとくぎりする部分)でも一気に進んでしまう。
 あ、佳境に入るとは、こういう瞬間だな、と思う。
 それは3連目の最後である。「訴へてゐた」と「その人」のあいだには、句点「。」があってしかるべきである。(学校教科書ならば。)なぜなら、「訴へてゐた」の「主語」は「女」であり、「その人」以下では「わたし」が「主語」であり、「述語」は「会ふことはなかつた」だからである。
 1、2連目では、句点「。」のかわりに、1字空き「 」がつかわれている。「言つたりした。その蔭に……」、「あとから知つた。母の死後のあの日……」と句点「。」を書き加えても「論理」はかわらない。けれど、岡井は句点「。」をつかわず1字空きで代用している。なぜか。もし、1、2連目で句点「。」をつかってしまえば、3連目の問題の部分で句点「。」をつかわないと表現の統一がなくなるからである。
 1字空きを書くか書かないかでも表現の統一の乱れになるかもしれないが、具体的に「。」という形があるものと、形がないもの(1字空き)では、その乱れに対する抵抗感(?)が違う。それに「訴へてゐたその人と」とつづけて読むこともできる。「……訴へていた」までの文を「その人」の修飾節と読むこともできる。実際、ここでは「修飾節」として書かれていると言われればそれに反論するだけの根拠もないのだけれど、これだけ長い修飾節なら、その文を独立させて(句点「。」でひとくぎりして)、「その人と」とつないでもいいだろう。「その人」の「その」は先行することばを指し示しているのだから。
 これは、いわば欧米文法でいう関係代名詞をつかった文であると言ってもいいかもしれない。「その人」というのは英語でいう「who 」あるいは「whom」にあたる。関係代名詞のある文を修飾節から訳すと頭でっかちの、何か不自然な文章になる。(岡井の書いているように、少し乱れた文章になる。)英語の関係代名詞をつかった文章は、関係代名詞の部分で二つに分けてしまって訳出した方が読みやすくなる。「その人」の前で句点「。」を入れると読みやすくなるように。
 そういうことは、岡井は知っているはずである。知っているけれども、あえて、そういう「日本語文法」(学校教科書の文体)を避けて、ここで文体を乱している。乱調。そして、その乱調を利用して佳境に入る。
 文体が乱れるのは(誰でも、ときどき文体が乱れるけれど)、それは今書いている文の奥底から、急に別のことばが噴出してくるからである。今書いている文を、別のことばがのっとって動いて行ってしまうからである。文体が乱れてもかまわない、それよりもいいたいこと、「思想」がそこにはあるのだ。「乱調」のなかには、思想がある。矛盾のなかに思想があるように、乱調の奥にも思想がある。その部分こそが、その文章の核心なのだ。
 「主語」が「女」から「わたし」にかわるのだが、その「変わり目」を意識させる暇をあたえないのだ。あれっ、何か、変。でも、何かな? と立ち止まって考えてもいいのだけれど、ほら、やっぱりこういうことって、好奇心をそそるから、そんなことを気にして立ち止まるよりも先が読みたい。で、女はどうなる? 知りたいねえ。そういう読み手の(聞き手)の好奇心の「はやる文体」を利用して(?)、乱調を佳境に持っていく。
 そして、このときの「思想」とは、岡井が女とどう向き合ったか、ということである。女は父の女である。しかし、この乱調のあとでは、それは父の女ではなく、岡井の女の問題になる。
 ね、気になるでしょ? すけべごごろをそそるでしょ? おいおい、父の女をどうするつもりだい? 目が離せなくなるでしょ?
 あ、すごいですねえ。この文体の力。

 4連目を省略して、5連目。

「お会ひしませうよ」と言つて看護師たちの白の前で黒い受話器を置いてから数日後だつたか「電話があつたさうだな」と悪びれもせず前置きもなくちよつと眼を逸らせて父は言つた

 あ、父と女の関係が、岡井と女の関係に変わりそうになって、そこへあわてて(?)父が乱入してくる。女をはさんで、父と子(岡井)の関係へと文章がするりとねじれ、「世界」が一気に幅を持つ。奥行きを持つ。すごいなあ。
 この連でも、「修飾節」が入り乱れる(というほどでもない、ぎりぎりのことろ--想像力というか、好奇心はこれくらいの乱れは自分の都合のいいように乗り越えてしまう)が、途中にとてもおもしろい工夫がある。
 白と黒の対比。「看護師たちの白の前で黒い受話器を置いて」。あ、いいですねえ。「看護師たちの白」という大胆な、けれども誰にでもわかる省略。看護師の白い制服。省略ゆえにいっそう「制服の白」がくっきり見えてくる。いや、くっきり見えてくればくるほど、岡井が「制服」全体など見ていなくて、「白」しか見ていなかったこともわかってくる。それは「省略」ではなく、事実なのだ。岡井はそのとき制服の「白」と受話器の「黒」しか見ていなかった。
 別なことばで言いなおすと--岡井は看護師たちの眼を見てはいなかったということ。岡井を見ている看護師たちの視線を感じながらも、看護師たちの眼を見ていない、眼を逸らしていた。見ていたのは制服の「白」と受話器の「黒」。それだけ。そして、その自分の「眼を逸らしていた」という記憶が、父の「眼を逸らせて」をくっきりさせる。
 乱調--乱調のリズムが、描写にリアリティーをあたえる。
 だけではなく。
 しかし、父と息子は、なんとまあ、似ているんでしょうか。追及されそうに(?)なったとき、父も息子も、追及してきそうな人の眼を見ない。眼を逸らせる。岡井は看護師たちの眼を見ずに、制服の白と受話器の黒を見ていた。父は岡井の眼を見ないで、ちょっとさぐりをいれる。人の心理をさぐるときは、ほんとうは眼を見つめるのだけれど、眼をそらしてさぐりを入れる。おかしいね。
 似ているとわかったときから、きっと岡井は父を「ちょっと」許している。理解しはじめている。理解している。これが、ちょっとかなしく(愛しい、という文字をあてたい)、ちょっとおかしい。
 こういう通い合いも、まあ、乱調の一種だと思う。父と女のことをあれこれ思いながら、知らずに、それを受け入れている。その女のせいで母が苦悩したかもしれないと思うと、父と女を許すべきではないのかもしれないけれど、父のこころの動きを正確に理解してしまう。この理解--その受け入れが、厳密な意味からいえば「乱調」である。

 あ、なぜ、大笑いしたか--そのことを書くのがどんどん遠くなってしまう。

 ちょっと(かなり?)はしょって書いてしまうと、父の女は三河にいて、父は尾張にいる。どちらも愛知県なのだけれど。最後の2連。

今も新幹線のぞみが三河安城をかすめて名古屋に向かふとき会つたことのないその女が前かがみになつて窓の外を過ぎる 別段母の聖域を犯してゐるやうにも思へない不思議

父の死後「金で済ませた」といふ噂がほのかにきこえた さうかパスカルつてさういふはなしだつたんだ 排除し静止空間に今も働く圧と圧 三河も尾張もなく墓下の闇は深い

 女と母、女と父、父と息子(岡井)、岡井と女--その関係はパスカルの原理のように働く。そして、その働きは「乱調」を含みつつ安定する--ということかな?
 まあ、オチは説明したって始まらないけれど、1連目のパスカルが突然最終連でよみがえった瞬間、なんだ、これは、と叫びたくなるでしょ? 叫びが笑いに変わって、ことばがなくなる。吹き出してしまうよなあ。

 それにしてもそれにしても。なんとまあ、おもしろい日本語だろう。リズムだろう。「その蔭に果たして女が居たのであつた」とか「長男が父のコレとつき合ふのには一定の限界があらうといふもの」とかの俗語(?)、さらには翻訳調のねじれた文体もまじえて、乱調を演出することばの動き、そういう乱調を含めて日本語の地層の全体を活写しながら、一気にことばをリズムにのせてしまう方法--書きはじめると、どこまで書いていいかわからないおもしろさがつまった詩だ。
 昨年は『注解する者』に魅了されたが、岡井はこの先、どこまで日本語を動かしていくのだろう。わくわくしてしまう。
 今年もまた岡井の年になるのだろうか。



注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
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