詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

恋ル・ネストゥール「エレンの城で」、崔泳美「木は泣かない」

2010-01-07 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
恋ル・ネストゥール「エレンの城で」、崔泳美「木は泣かない」(「something 」10、2009年12月25日発行)

 「正直」にはいろいろな定義があると思うが、恋ル・ネストゥール「エレンの城で」にも「正直」を感じた。
 幼いころ「およびあそび」(お指遊び)でピアノに触れ、ピアニストになった女性を主人公にした「散文詩」。幼いころ、ピアノに触れると「池」が広がった。それが楽しかった。しだいにピアノは上達したが、「ただ少しずつ、池のことを忘れていった。」
 その彼女が友人エレンの「城」に招かれる。そこで古いピアノに出会う。「私の大好きな古いプレイエル、百歳くらいだろう。」どうしても弾きたくなって、ピアノを弾いてみる。こどものころに弾いたショパン。そして、夕食、ワインも飲み、そういうときはピアノを弾かないのだけれど、「この日はまだまだ弾きたかった。」そして。

 エレンのお母さんのリクエストで、モーツァルトのソナタから始めた。これも懐かしい曲だ。ピアノの音が水滴に聞こえる。半日前まで眠っていたはずのピアノは、今や若々しく艶やかで、どんどん私をエスコートしていく。また、私は止まらなくなってしまった。
 確かに、この時私は、彼に連れて行かれたのだ。彼の長い物語へといざなわれて、私は素直について行ったのだ。そこは、彼の城。そして、その城には私の懐かしい黒い池が映っていた。私は彼の物語を聞きながら、同時に自分の物語と再会していた。私たちの物語は、ぶつかり合うことなく、水面に落ちる光や影のように、あらゆる模様を形づくながら流れ続けた。

 「素直」ということばが出てくるが、それは私がいう「正直」とは少し違う。私が「正直」を感じるのは、そのあとに出てくる「再会」ということばである。「私は彼の物語を聞きながら、同時に自分の物語と再会していた。」のなかの「再会」。
 「正直」とは自分に出会うこと。セアドー・レトキーの詩に出てきたことばをつかえば「前に起こったこと」、「前にそうであった自分に」出会うこと。そして、「前の」自分になること。
 人間には、たぶん二種類の人間がいる。「自分」から出て行く人間。「自分」に戻る人間。どちらも「正直」ではあるのだが、私は、自分に戻る「正直」にであったとき、なぜかとても懐かしく感じる。それをうれしく思う。
 奇妙な言い方になってしまうが、そして、その「自分に戻る」は実は「自分から出て行く」という瞬間に戻るということでもある。
 「私」は幼いとき、ピアノに触れ、それまでの「私」の知らない「私」になった。ピアノの鍵盤に誘われて、不思議な「池」へ出て行った。そこでさまざまな見ずに出会い、さまざまな花に出会い、光にであった。「私」が「私ではない」存在になった。「私」が「私」から出て行った。この、「私から出て行く旅」が「物語」と呼ばれるものである。--その「物語」の始まりの瞬間へ、ふと、戻る。「物語」の始まりから、また「物語」をかたたなおす……。
 そっくりそのままの「繰り返し」。そこに「正直」がある。
 人間はいつでも知っていることを繰り返す。何度でも繰り返す。そこにあられる「正直」。それを、私は美しいと感じる。
 このとき「繰り返し」は実は「繰り返し」のように見えて、ほんとうは「再生」なのである。生まれ変わる、という意味の再生。何度、人間は生まれ変わることができるか--それを決定するものが「正直」の度合いである。「正直」な人間は何度でも生まれ変わる。そして、その生まれ変わりのなかに「永遠」がそっと顔を除かせる。
 この「再生」は他人をも「再生」させる。「芸術」の意味は、たぶん、そこにある。人間を再生させる力。
 ピアノを聞いたあと、その時居合わせた人たちは、どうなったか。

 四組の夫婦が、それぞれにお互いの手を取り合い、キスを交わしていたのである。どの顔も紅潮して、相手の目をしっかりと見つめていた。

 人間の再生は愛の再生でもある。それは「正直」の再生でもある。



 崔泳美「木は泣かない」。そこに描かれている「木」はどこにある木だろうか。

寒い日も暑い日も
光に向かって腕を伸ばし
木は振り返らない
百年の日照りで喉が渇き、背中が曲がっても
友達がそばにいなくても
木は泣かない
雪の飛び散る野原に一人で立っていたり
突きあたりの路地で胸まで雨に濡れても
寂しいとは言わない
地球の熱き中心近くに根を下ろし
木は自分の力を誇らない
木はただ木であるだけ、
雨水を受けて飲み
葉と幹と根が一体である木は……
歳月の年輪に隠すものも
捨てるものもない

 この木は、どこにでもない。そしてどこにでもある「雪の飛び散る野原に一人で立っていたり/突きあたりの路地で胸まで雨に濡れても」が象徴的に語っているが、「野原」と「路地」は同じ場所ではない。違った「場」にあるもの(たとえば木)が同時に存在することはできない。だから、ここに描かれている木は、どこにもない。どこにもないことによって、どこにでもあることになる。そのときの「どこにでもある」の「どこにでも」は、それぞれの「記憶」のことである。「前に見た木」(前に起こったこと)に出会う(再会する)、あらゆる「場」--それが「どこにでもある」の「どこ」である。
 「前に起こったこと」(前に見た木、木を見た前の記憶)に出会うとき、「木はただ木であるだけ」なように、「私」もまた「ただ私であるだけ」である。
 「正直」は「ただ……であるだけ」ということばで言いなおされている。そして、この文のなかで「木」が繰り返されているように、それは繰り返し、反復でしか伝えられないものである。
 人は何を反復できるのか。--「正直」は、そのことと関係する。
 「正直」であれば「隠すものも/捨てるものもない」。ただあるがままを繰り返すだけなのだ。


something10
鈴木ユリイカ
書肆侃侃房

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