詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アリ・フォルマン監督「戦場でワルツを」(★★★★★)

2010-01-15 20:24:02 | 映画

監督・脚本・音楽・声の出演 アリ・フォルマン

 アニメとは知らなかった。最初は、いつになったら実写になるのだろうと思いながら見ていた。ドキュメンタリーであるとも知らなかったので、見ているうちに、ドキュメンタリーならではの「事実」の力に引き込まれて行った。
 でも、まあ、この映画の最大の魅力は独特のアニメだろう。その映像だろう。まるで実写映像のコントラストを大きくして、影と光で表現しなおしたような絵。あるいは、版画のような、といってもいいかもしれない。線の描写が強い。そのリアルさは、3Dアニメやコンピューターグラフィックスのリアルさとはまったく別。夢--いや、悪夢のリアルさである。そして、その悪夢を印象づけるのが、光と影に二分割されたような映像のなかにあって、目だけがまるで実写のように生々しいのである。
 映画の内容は、映像そのままに「悪夢」である。
 映画監督である主人公が、自分の体験したはずのベイルートの住民虐殺の記憶を、友人を訪ね歩きながら取り戻す。住民虐殺という「輪郭」(アニメで言うと、黒い線の部分だね)ははっきりしているが、その「内部」が空白である。(アニメの、黒い輪郭に囲まれた、たとえば、主人公の顔--それには「起伏」がない。「肌」のつながりがない。輪郭の内側は、文字通り白い「空白」なのである。)主人公は、その「空白」を埋めたいと思っている。それは言い換えると、顔の「空白」を表情で埋めるということかもしれない。表情というのは、ただ単に顔の表面にあるのではなく、人間の「内部」から生まれてくる。体験、記憶、というものがあって、はじめて顔が顔になる。
 記憶を取り戻す--という監督のこころみは、彼自身の「表情」を取り戻すというこころみでもあるのだ。映画の最後が虐殺された少女の「表情」のアップで終わるのは、この「表情」を取り戻すというこころみと関係があるのだ。虐殺に関係した監督の「表情」は虐殺された少女の「表情」を手にいれることで、はじめて光と影で二分割されたアニメの顔からほんものの顔になるのだ。--記憶を取り戻すとは、自分自身が関係した虐殺の犠牲者の「顔」のすべてを自分の顔・表情として、自分の「顔」として受け入れること、虐殺の犠牲者の「顔」を生きることなのだ。
 監督に最初に相談に訪れる友人が、ベイルートで殺した26匹の犬の顔をすべて覚えているというが、虐殺に関係した監督は、虐殺された人々の顔をひとりも覚えていなかった。他人のいのちを奪ったのに、そのひとの顔の記録さえない。ひとには名前があり、また同時に顔がある。顔によって、ひとはひとになる。そのことを思うとき、このアニメの「絵」そのものが、ひとつの「思想」であることがわかる。
 実写をなぞったようなアニメ。実写を光と影のコントラスト、輪郭と空白にしてしまった登場人物(おそらく実在の人物)--彼らもまた「顔・表情」を失った不完全な存在である。不完全、というのは「実写・実物」に対して不完全という意味である。重要な「顔」「表情」をなくしている、という意味である。
 監督は、登場人物を、そういう不完全なアニメの映像にすることで、登場人物(彼自身を含めて)を告発しているのである。ベイルート虐殺に関係するすべての人間を告発しているのである。彼らはすべて「表情」をうしなった人間である、と。「表情」を取り戻すためには、虐殺された人々の顔・表情を「アニメ」ではなく、実写としてリアルに思い出し、それを自分自身の「肉体」にしなくてはならない、と。

 アニメであることが、この映画の場合、思想そのものなのだ。告発そのものなのだ。

 アニメだけに限らず、表現とは何か、ということを問いかける映画でもある。私たちの、ことば、記憶、感情--それはいったい何なのか、という問いを含んだ強烈な映画である。表現の表層と、表現の内容の関係はどうあるべきなのか、という問いを含んだ映画でもある。
 自分で何かを表現したいと思う人は必ず見るべき映画である。

(キネマ旬報のベスト10に入っていた映画である。福岡では、いま、ようやく上映されている。)

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柏木勇一『たとえば苦悶する牡蠣のように』

2010-01-15 00:00:00 | 詩集
柏木勇一『たとえば苦悶する牡蠣のように』(書肆青樹社、2009年12月20日発行)

 柏木勇一『たとえば苦悶する牡蠣のように』の巻頭の作品「ここにはむかし樹木があった」は印象的な書き出しである。

だれでもそう語ることができる
ここにむかし樹木があった
だれもが樹木への思い出があるから
ここにむかし「私の」一本の樹木があった

僕はこうも語れる
ここにむかし柿の木が一本あった

 これは「ひとり」であることの宣言である。「だれでも」は不特定多数のあらわすが、人間はけっして不特定多数ではない。それぞれ「ひとり」である。「だれでも」であるからこそ「ひとり」である。そして「ひとり」にはそれぞれ「一本の木」があるように、それぞれ「ひとつ」のものがある。
 柏木が問題にしている「ひとつ」は「一本の柿の木」、あるいは何か別の「ひとつ」ではなく、実は「ひとり」である。戦死した父--たったひとりの父、父という「ひとり」の人間。戦争は「ひとり」を「ひとり」として見ない。だからこそ、生き残っている「ひとり」の人間として、戦争で死んでしまった「ひとり」の父のことを書く。
 巻頭の詩は、次のように書くことも(書き直すことも)できるのだ。

だれでもそう語ることができる
ここにむかし父がいた
だれもが父への思い出があるから
ここにむかし「私の」たったひとりの父がいた

僕はこうも語れる
ここにむかし僕の父「○○」がいた
                     (○○には、父の「名前」が入る)

 権力は(あるいは国家は)、「ひとりひとり」を「だれも」という不特定多数にしてしまうが、「だれも」という存在はいない。ひとりひとりに「名前」がある。「名前」があって、「ひとりひとり」である。
 「そこに眠りについたもの」には、次のことばがある。

例えば
葬りさられた夥しい死者たちの
その夥しい数ではない
ひとりひとりの
空に向けられた涙の来歴を

(略)

すべてはそこに眠りついて
いまなお存在しているもの
わたくしであり あなたでもあり あの人かもしれない

 「ひとりひとり」とは「わたくし」であり「あなた」であり「あの人」である。それはひとまとめにはできない。かならず「ひとり」なのである。
 この「ひとり」の感覚は、人間だけではなく、あらゆる存在に向けられる。

枯葉に紛れて質問状が届く
奇跡と悪夢の違いについて述べよ

意味を反芻する わたくしは牛
大地にひれ伏して考えた
大地の底から聞こえてくる奇跡の心音
大地が振動してくる悪夢の予感

瞬間
大地を蹴り上げる わたくしは馬
大空へ逃亡する わたくしは鳥
地層の歪みに身をまかせる わたくしは蛇

振り向けば一本の木
すべての葉を落として立つ
何もなかった大地に一本の裸木が空間を作った
消滅という悪夢を追いはらった一本の木の奇跡

枝と枝の間を行き来しながら緑のざわめきを約束する
わたくしは虫
わたしくは蕾
わたくしは蝶

 「人間」だけが存在するのではない。「いのち」が存在する。牛、馬、鳥、蛇、虫、蕾、蝶。すべては「ひとり」なのである。この、「人間」という「枠」を超越して「いのち」そのものに結びつく力が柏木の思想である。「肉体」である。
 この詩には、そういう思想と深く関係する美しい1行がある。

何もなかった大地に一本の裸木が空間を作った

 一本の木が「空間を作った」。「空間」は関係でもある。関係というのは「ひとり」(ひとつ)では存在し得ない。かならず相手(他者)が必要である。他者と出会い、それぞれが「ひとり」のまま生きる。そのとき、その「ひとり」と「ひとり」の間に「ひろがり」が生まれる。それが「空間」。そして、その「空間」のなかへ「わたくし」はあるときは牛になり、あるときは馬になり、蛇になり、虫になり、出て行く。「いのち」の生々しい形としてあふれていく。--そうやって、世界はできあがっている。その世界の「証人」になる、と宣言しているのが、この詩である。
 そして、その「証人」が告発しようとしているのは「戦争」である。たった「ひとり」の「父」から「父の名」を剥奪し「だれでも」という不特定多数として不当な扱いをする「戦争」である。
 「わたしは幸せな男だ」の「幸せ」は、もちろん反語である。

わたしの中にはいつも戦争があり
わたしの中にはいつも死者がいるから
わたしはいつも忙しい
こうしている間にも私の爪の先から羽虫が湧き出し
わたしの中の死者が目覚めようとしているから





擬態
柏木 勇一
思潮社

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