詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アレクサンドル・ソクーロフ監督「ボヴァリー夫人」(★★★)

2010-01-09 12:16:20 | 映画

監督 アレクサンドル・ソクーロフ 出演 セシル・ゼルヴダキ、ロベルト・ヴァープ、アレクサンドル・チェレドニク

 昭和天皇を描いた「太陽」のアレクサンドル・ソクーロフの作品。期待して見に行ったが、期待通りというか、期待外れというか。アレクサンドル・ソクーロフの場合、期待外れであることが、たぶん期待通りの傑作ということなのかもしれないけれど……。
 とても奇妙な映像だ。リアルなのだけれどリアルではない。奇妙に歪んでいる。魚眼レンズ(?)のようにといっていいのかどうか、カメラに無頓着な私はわからないけれど、手前が異様に大きく映る。遠近感が崩れている。あ、そうか、恋愛というのは人間関係の「遠近感」が崩れ、誰かと特別な距離感を生きることなんだなあ、なんて、ちょっと哲学的になってしまうなあ。単なる歪みなのに……。
 で、ボヴァリー夫人は男をとっかえひっかえ恋愛というかセックスをするのだけれど、まあ、そのセックスの現場そのものではないけれど、逢い引き(ああ、ふるいことば……)のとき、誰かがそれを目撃している。使用人とか、が、じーっと見ている。
 その冷徹な距離感と、ボヴァリー夫人を中心とした男、その男たちの「肉体」の距離感が歪んでいることによってとても生々しい。ボヴァリー夫人を見ている使用人というのは手前ではなく、どうしても画面の奥なので、ボヴァリー夫人から目撃者の距離というのは歪んでいるにしても歪みが少なく、手前だけがぐにゃりと歪む。
 うーん、個人的な(?)人間の行為はいつでも遠近感を狂わせている--ということかな?
 風景が田舎なので(田舎なので、というのは語弊があるかもしれないけれど)、とてもどっしりしている。人工の度合いが少なく歪んでいない。太陽の光というか、外光もまっすぐ。そのまっすぐというか、ゆがまない存在がいつも一方にあって、それと対比するように室内がある。室内の光は外の光が入ってきたものだけれど、窓とか、ドアとか、何かをくぐり抜けてくるから、そこに微妙なものが混じってくる。そこにも歪みのにおいが漂う。
 この、すっごくすっごく奇妙な印象は……。
 あ、子供のときはじめて友達の家へ行って、家のなかから外を見た時の感じに似ている。私はこの映画の舞台になったと田舎よりももっと田舎の生まれ育ちである。家のなかは、いまの住宅のように外光がふんだんには入ってこない。どうしても暗い。そして、そこには締め切った部屋独特のにおいがあり、光がにおいに染まっている。外を見ると、そとは確かに私が歩いてきた外なのだけれど、なんだか微妙に違って見える……。
 そんな感じ。
 もしかすると、ボヴァリー夫人には、世界がそんなふうに見えるということ? 田舎医者と結婚し、都会(でもないのかな?)から引っ越してきた。そのとき彼女が見た風景、外のまっすぐな光と田舎の室内の暗さ、歪み、そういうものが混じって、こんなふうに見える--そう考えると、これ以上リアルなものはない。リアルすぎて、シュールになってしまっているのかもしれない。
 音も変だねえ。音楽? それとも雑音? まるで仏壇の前でならすチーンという音に似た音が思い出したように聞こえる。どこから聞こえてくるかぜんぜんわからない。(それは、ほんとうに初めて行った友人の家の仏間から聞こえてくる音のように、どこか知らないところから聞こえてくるのだ。そして、その音の発せられる場所は、ついに観客には知らされないのだ。友達の家の仏間まで入っていかないから、それがわからないように。)効果音なのか、それとも単なる自然の音なのか。それもわからない。
 人の会話も、まるでスピーカーが故障したのかと思うくらい不鮮明で、そのくせときどき無意味なくらい鮮明になる。
 世界が奇妙に分離してしまっている。
 そんな世界で、ただボヴァリー夫人の「肉体」があり、金の浪費がある。「肉体」と「金」だけがリアルである。
 あ、これが現実? 現実と似ていないけれど、まあ、つきつめると、それが現実かもしれない--という奇妙な現実そのものの世界。

 わからないでしょ? 変でしょ? でも、この「変」な感じが、たぶんアレクサンドル・ソクーロフの個性であり、彼の映画を「傑作」にしているんだなあ、きっと。というわけで、私の採点は中途半端な★3個。気分次第で、傑作というかもしれないし、こんな駄作見る必要がないというかもしれない。いつでも変更可能な(?)、ずるいずるい採点。


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斉藤梢「貨物船」

2010-01-09 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
斉藤梢「貨物船」(「弘前詩塾」14、2009年12月31日発行)

 斉藤梢「貨物船」は、すーっと胸に落ち着くところと、頭にひっかかることろがある。わかるところと、わからないところが混在している。

起きて一杯の水を飲む
きらきらと細やかな粒子が
体のなかで静に踊る
その間 一分

そうして次には一番太い血管の川を
ことことと貨物船がゆく
貨物船は私の過去にかたむき
やわらかなその矛先は
わずかずつ今に痛みながら
よろよろと一直線に進んで、暮らしに挑む

 やわらかさこそが生きてゆくコツと
 言いました あなたは

いつの日かいつか
私が骨というカタチになったその時
あなたにだけはこの貨物船が
白い胸骨の隙間あたりから見えるといい

私の記憶を積む船体が
こつこつとただこつこつと軋む
ああ、
この貨物船という小さな秘密
            (谷内注・「ああ」は原文は漢字。口ヘンに意。)

 水を飲み、その水に誘われるように「貨物船」が登場する。それを「血管の川」を進んでいるというときの、その肉体感覚がとても落ち着く。
 「貨物船」の具体的な形はわからないおそらく、斉藤以外にはその「貨物船」は見えない。見えないけれど、「一番太い血管の川」ということばが、そのわからないものをしっかりとつかんではなさない。たしかに、ここに斉藤の言いたいことがあるのだとわかる。
 「貨物船」がどんなものかわからない。だからこそ、4連目がとても美しい。
 人が死ぬ。火葬する。そのとき、骨が残る。その骨は見える。一番太い血管は見えないというか、外からはその姿は見えないのだけれど、それがあることを私たちは知っている。骨も基本的に外からは見えない。けれど火葬にしたときは、燃え残ったその形を見ることができる。
 「貨物船」。「貨物船」という比喩のあらわしているもの。それは、血管や骨のように外からは見えない。斉藤の「肉体」のなかに隠れている。
 斉藤が死んでしまったとき、その「貨物船」はどうなるのだろう。血管のように炎のなかで焼き尽くされて消えてしまうのか。それとも骨のように残るのか。
 斉藤は、それがどういう形であれ「残る」ことを期待している。少なくとも「あなた」に見える形であってほしいと願っている。「肉体」が隠していたものが、その肉体のほとんどである血管も筋肉も皮膚も燃やし尽くし、骨だけ残したとき、「肉体」のなかに隠れていた「貨物船」が残ってほしい。その「貨物船」を「あなた」に見てもらいたい。
 この願いは、とても美しい。
 そして、「貨物船」がどういうものであるかは別にして、人が死んでしまったときというか、人が死んでから、生き残った人は、「あ、この人は、こんなことを隠していた」と気づく。
 その「隠していた」は悪いことではない。
 「からだ」を張って、「あなた」がそういうものと直面しなくていいように、「あなた」を守っていたのだ。「あなた」を守るために、その人がしつづけたことがあるのだ。それは悲しいことに、人の死がやってくるまではわからない。
 大切な人を亡くしたとき、その人が「わたし」(と、主語を書き換えて書いてみよう)を助けるために(守るために)こんなことをしてくれていたのか、と気がつく。それまで「わたし」がしなくてすんだいろいろのこと。それを大切な「あなた」が人知れず、やってくれていたのだ。どんなことであれ、人は人に守られて生きている。
 大切な人の「肉体」が消えたとき、その肉体の向こう側に、気がつかなかった風景が見えてくる。ビルが壊された後、そのビルが隠していた向こう側のビル、あるいは風景がみえるように……。

 「骨」だけになったとき、「あなた」が見つけるのは「貨物船」であるかどうかわからないが、かならず何かが見える。
 その何かを、斉藤は「貨物船」とこだわって言っている。そこに、斉藤の悲しさと「正直」がある。「あなた」が見るものが「貨物船」であってほしいという願いでもある。それ以外のものは、ずーっと気づかないままでもいい。けれど「貨物船」には気がついてね、と祈っている。
 とてもいい詩だと思う。

 ただし、少し気に食わないところというか、工夫してもらいたいと思うところがある。2連目の「よろよろと一直線に進んで、暮らしに挑む」。これは詩の1行としてとても厳しい。「暮らし」が漠然としすぎている。「一杯の水を飲む」という具体的な、誰の「肉体」の記憶にも呼びかけうる1行から始まった詩にしては、荒っぽすぎる。
 「暮らし」も「挑む」も「頭」では理解できるけれど、「肉体」ではつかみきれない。よくわからない「貨物船」さえも「暮らし」にくらべると、まだ「肉眼」に見える。いままで見てきた「貨物船」から、こんな船かな、荷物をたくさん積んでゆっくり進む船が見える。けれど「暮らし」というものは「肉眼」には見えない。
 たぶん書きたいことがたくさんありすぎて、そしてそのたくさんが一気に押し寄せてきて「肉体」では抱えきれなくなって、「頭」が「暮らし」ということばでそのたくさんを整理してしまったのだと思う。そこをもう少し踏みとどまって、「肉体」でつかみとれるものだけにふりしぼって書いてくれたら、この詩はもっともっと強烈なものになると思う。



 斉藤のこの作品は、「弘前詩塾」という冊子におさめられている。冊子のタイトルからわかるように、詩を学ぶ人たちが弘前にはいる。先生は、藤田晴央である。もう7年間つづいている。その藤田をおしのけるようにして余分なことを書いてしまったような気がするが、余分なことを書いてしまうのも、藤田のもとで自分のことばをきちんと動かす人が増えていると実感するからである。藤田が「陸奥新聞」に書いている「弘前詩塾7年の学び」という文章を読むと、塾生たちが「叢書」を出すまでになったことがわかる。ことばをきちんと育てていこうとする人がいて、その結果として、すぐれた作品に接することができるのだ。藤田の力がなければ、たぶん「叢書」はでなかっただろうし、斉藤の今回の作品も生まれなかったかもしれない。自力で生まれてくるにしても、もう少し時間がかかったかもしれない。ことばの「産婆術」をする人がどこかにいる。その結果というか、その果実を、遠く離れた場所でも味わうことができる。これは、うれしいことである。
 ついつい余分なことを書いてしまった(先生がいるのに、おしのけるようにして私が勝手な注文をだしてしまった)のは、出産に偶然立ち会った子供が、産婆さんとお母さんの頑張りにびっくりしながら、思わず「がんばれ、がんばれ」と声を張り上げて邪魔してしまったようなものだと許してくださいね。



ひとつのりんご
藤田 晴央
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