監督 アレクサンドル・ソクーロフ 出演 セシル・ゼルヴダキ、ロベルト・ヴァープ、アレクサンドル・チェレドニク
昭和天皇を描いた「太陽」のアレクサンドル・ソクーロフの作品。期待して見に行ったが、期待通りというか、期待外れというか。アレクサンドル・ソクーロフの場合、期待外れであることが、たぶん期待通りの傑作ということなのかもしれないけれど……。
とても奇妙な映像だ。リアルなのだけれどリアルではない。奇妙に歪んでいる。魚眼レンズ(?)のようにといっていいのかどうか、カメラに無頓着な私はわからないけれど、手前が異様に大きく映る。遠近感が崩れている。あ、そうか、恋愛というのは人間関係の「遠近感」が崩れ、誰かと特別な距離感を生きることなんだなあ、なんて、ちょっと哲学的になってしまうなあ。単なる歪みなのに……。
で、ボヴァリー夫人は男をとっかえひっかえ恋愛というかセックスをするのだけれど、まあ、そのセックスの現場そのものではないけれど、逢い引き(ああ、ふるいことば……)のとき、誰かがそれを目撃している。使用人とか、が、じーっと見ている。
その冷徹な距離感と、ボヴァリー夫人を中心とした男、その男たちの「肉体」の距離感が歪んでいることによってとても生々しい。ボヴァリー夫人を見ている使用人というのは手前ではなく、どうしても画面の奥なので、ボヴァリー夫人から目撃者の距離というのは歪んでいるにしても歪みが少なく、手前だけがぐにゃりと歪む。
うーん、個人的な(?)人間の行為はいつでも遠近感を狂わせている--ということかな?
風景が田舎なので(田舎なので、というのは語弊があるかもしれないけれど)、とてもどっしりしている。人工の度合いが少なく歪んでいない。太陽の光というか、外光もまっすぐ。そのまっすぐというか、ゆがまない存在がいつも一方にあって、それと対比するように室内がある。室内の光は外の光が入ってきたものだけれど、窓とか、ドアとか、何かをくぐり抜けてくるから、そこに微妙なものが混じってくる。そこにも歪みのにおいが漂う。
この、すっごくすっごく奇妙な印象は……。
あ、子供のときはじめて友達の家へ行って、家のなかから外を見た時の感じに似ている。私はこの映画の舞台になったと田舎よりももっと田舎の生まれ育ちである。家のなかは、いまの住宅のように外光がふんだんには入ってこない。どうしても暗い。そして、そこには締め切った部屋独特のにおいがあり、光がにおいに染まっている。外を見ると、そとは確かに私が歩いてきた外なのだけれど、なんだか微妙に違って見える……。
そんな感じ。
もしかすると、ボヴァリー夫人には、世界がそんなふうに見えるということ? 田舎医者と結婚し、都会(でもないのかな?)から引っ越してきた。そのとき彼女が見た風景、外のまっすぐな光と田舎の室内の暗さ、歪み、そういうものが混じって、こんなふうに見える--そう考えると、これ以上リアルなものはない。リアルすぎて、シュールになってしまっているのかもしれない。
音も変だねえ。音楽? それとも雑音? まるで仏壇の前でならすチーンという音に似た音が思い出したように聞こえる。どこから聞こえてくるかぜんぜんわからない。(それは、ほんとうに初めて行った友人の家の仏間から聞こえてくる音のように、どこか知らないところから聞こえてくるのだ。そして、その音の発せられる場所は、ついに観客には知らされないのだ。友達の家の仏間まで入っていかないから、それがわからないように。)効果音なのか、それとも単なる自然の音なのか。それもわからない。
人の会話も、まるでスピーカーが故障したのかと思うくらい不鮮明で、そのくせときどき無意味なくらい鮮明になる。
世界が奇妙に分離してしまっている。
そんな世界で、ただボヴァリー夫人の「肉体」があり、金の浪費がある。「肉体」と「金」だけがリアルである。
あ、これが現実? 現実と似ていないけれど、まあ、つきつめると、それが現実かもしれない--という奇妙な現実そのものの世界。
わからないでしょ? 変でしょ? でも、この「変」な感じが、たぶんアレクサンドル・ソクーロフの個性であり、彼の映画を「傑作」にしているんだなあ、きっと。というわけで、私の採点は中途半端な★3個。気分次第で、傑作というかもしれないし、こんな駄作見る必要がないというかもしれない。いつでも変更可能な(?)、ずるいずるい採点。
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