詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(94)

2010-01-28 19:20:14 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 私は西脇順三郎について書いているが、西脇については何もわからない。西脇の研究家(?)、あるいは西脇の詩が好きなひとは、きっと怒りだすだろうと思う。私が、あまりにも根拠のないことを書きすぎている、と。私は何の反論もできない。私は根拠などもっていない。そればかりか、私は自分が感じていることを正確に(?)書くことばをもっていない。いや、何を書きたいか、という明確なことがらもないのだ。何を書きたいかわからない。書きながら探している。私の書いたことばが勝手に動いていって、どこかで西脇のことばときちんとぶつかってくれることを祈りながら書いている。これが、ほんとうのところである。特に、今回のように長い中断をはさむと、前に書いたことと、ことばがうまくつながらない。だから、無理には、つなげない。つなげようとしても、つながらないのだから、つながらないまま書いていくしかない--と思う。
 「粘土」は三人の男が、関東のどこかを歩いている詩である。

農家の庭をのぞいて道を
きくと役所のあんちやん
だと思つたのか眼をほそくしてこわがつた

 この「きくと役所のあんちやん」が楽しい。「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」という改行が学校教科書の文法だろう。西脇はこの学校文法を完全に無視してことばを動かしている--と書いた先からこんなことを言うと変だけれど、それは西脇が意識して壊しているのか、それともことばがかってに壊しているのか、実は、私にはよくわからない。
 たぶん、この西脇についての文章を書きはじめたころは、それは西脇が壊しているのだ、乱調を導入することで美をつくりだしているのだ、と感じていた。だが、長い中断をはさんだいま、なぜか、まったく理由もないままなのだが、それは西脇が壊しているのではない、という気がしてきたのだ。ことばが、かってに文法を壊してしまう。(といっても、学校文法のことだけだけれど。)西脇は、そのこわれた「音」をただ聞き止め、記録している、という気がしてくるのだ。

きくと役所のあんちやん

 この音は、とても美しい。「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」という正しい文法(?)を知っている人間が、こんな「音」を「音」だけとして文脈(?)の中から取り出せるとは、なんだか信じられない。意識はどうしたって「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」と動いてしまう。私は何度読んでも、この3行は、そういう「意味・内容」をもっているとしか判断できない。意識(?)は正確に(?)、そんなふうに判断しているにもかかわらず、その意識とは無関係に、

きくと役所のあんちやん

 という音が動いているのだ。輝いているのだ。「耳」のなか、「頭」のなか、「肉体」のどの部分が反応しているのかよくわからないけれど、その音をとても美しいと感じる。「きくと役所のあんちやん」ということばは、それだけでは何の「意味」ももたない。「無意味」である。その「無意味」の輝きが、「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」と書いたときとではまったく違うのだ。
 私は「音読」はしないが、もし「音読」したとしたら、この行は、いま私が感じているように輝くか。輝かないのではないか。この輝きは、「眼」で「音楽」を聞いているから感じるものなのではないのか。
 私はもともと視力が弱いが、眼の手術をしたあと、さらに悪くなった。その眼の悪い人間が「眼で音楽を聴く」と書いてしまうと、なんだかとんでもないことを書いてしまっている気持ちになるが--だけれど、やっぱり眼がなんらかの作用をして、その「音楽」を美しいと感じさせているのだ。

アテネの女神のような神を結つたそこの
おかみさんがすつぱい甘酒とミョウガの
煮つけをして待つているのだ

 この3行は、書いてある「内容」そのもののアンバランス(乱調--アテネの女神とおかみさん、甘酒、ミョウガ)もそうだけれど、

おかみさんがすつぱい甘酒とミョウガの

 この1行の表記の複雑さが、また「音楽」を感じさせるのだ。もっとも、この行に関して言えば、私のカタカナ難読症の影響はかなり大きいかもしれない。「ミョウガ」。この「文字」が私には最初読めない。見えない。「音」がしないのだ。 
 「おかみさんがすつぱい甘酒と」まではひとつづきの「音」が聞こえてくるが、「ミョウガ」がとても小さい音、ほとんど沈黙として響いてくる。その沈黙の後に「の」という音がやってきて、あ、「甘酒と」と「の」の間には何かしらの「音」があったのだ--と気がつく。その瞬間の、「音楽」の覚醒のようなものが、とても新鮮で、とてもうれしくなる。
 カタカナが正確に読めるひと(ほとんどのひとがそうだと思うけれど)は、そして、私とは違った「音楽」を聴いている--と思うと、私は、またなんともいえず妙な気持ちになる。

疎開していた三馬と豊国と伊勢物語と
ニイチェの全集とメーテルリンクの蜜蜂の生活
をとりに来たのだ

 この部分では、「疎開していた三馬と豊国と伊勢物語と」と「ニイチェの全集とメーテルリンクの蜜蜂の生活」が違った「音楽」として響いてくる。それは日本の音と外国語の音ということかもしれないが、私には、もうひとつ「カタカナの音」、眼で感じてしまう変な音が加わり、聞き取れない「音楽」が駆け抜けて行ったのを感じるのだ。
 「メーテルリンクの蜜蜂の生活」では、「の蜜蜂の」の部分で、体がとろけるような快感に襲われる。
 --これはいったい何なのだろう。



アムバルワリア―旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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小池昌代『転生回遊女』

2010-01-28 00:00:00 | その他(音楽、小説etc)
小池昌代『転生回遊女』(小学館、2009年12月09日発行)

 小説がはじまってすぐ--といっていい部分(10ページ)に非常に印象的なことばがある。主人公の桂子の誕生の瞬間を語る母のことばである。桂子は首にへその緒をまきつけて生まれてきた。死産寸前で、唇も顔も真っ青だった、と告げたその後。

あなたは、生まれたとき、死の方角から折り返してきたのよ--。

 この1行のなかの「折り返し」ということばを読んだ瞬間、私はこの小説は「折り返し」がキーワードだと感じた。小池にキーワードという意識があったかどうかわからないが、このことばももう一度だけ、この小説でつかわれている。それも、母のことばを引用したその直後にである。(小池にもしキーワードという意識があれば、こんなにすぐ近くではつかわないだろう。もっと効果的につかうだろう。--ところが、私は、それが無意識だからこそ、キーワードと呼ぶのだけれど。)
 
 かつて母は、そんなふうに言ったが、折り返し、という言葉を聞いたとき、どこかに突き当たったような思いがした。

 このあと、文章は「息が詰まり、首のあたりにぬめった紐(ひも)状の感触が蘇(よみがえ)った。」とつづいているから、たぶん、小池は「折り返し」に、そんなに重きを老いていないだろう。小池は「折り返し」ということばよりも、「感触」の方に意識を傾けている。「感触」を書きたかったのだと思う。この作品には、いろいろな「感触」がことばをかえて書かれている。そのことも、小池が書きたかったのは「感触」だろうという印象を強くする。

 ところが。

 私は、その小池がおきざりにした「折り返し」が、そのことばが、とてもおもしろいと思うのだ。この小説を決定づけているのは、他のどんなことばでもなく、10ページ目につづけてでてきて、その後消えてしまった「折り返し」がこの小説の構造そのものになっていると感じるのだ。
 主人公・桂子は女優の母と暮らしていた。その母が突然死ぬ。そのあと、桂子はひとりで生きていかなければならない。母が女優であったせいか、役者の話が持ち上がる。そして桂子は女優をめざすのだが、その過程で、何人もの男に出会う。本の「帯」によれば、桂子は「交わりながら、前へ、前へ。」と進んでいく。確かに、桂子は、前へ、前へと進んでいく。
 しかし、私には、それは「前へ、前へ」とは感じられないのである。桂子は常に、「折り返し、折り返し」生きている。「折り返す」ということが桂子にとって「生きる」ことなのである。次々に男に出会い、交わり、その男から別の男へと進んでいく--というふうに「外見」のストーリーは読むことができるけれど、ほんとうに「前へ、前へ」と進んでいるとは私には感じられない。いつも「折り返し」ているだけのように感じられる。
 だが、どこへ「折り返す」というのか。
 「わたし」へ「折り返す」、「おんな」へ「折り返す」。桂子は「自分」からはけっして出て行かない。「自分」をけっして捨てない。かならず「わたし」へ「折り返す」。
 そのことが一番よくわかるのが、長谷川老人と桂子の関係である。桂子は長谷川老人とは交わらない。セックスしない。老人の前で裸になることすら拒む。帯には「交わりながら」と書いてあるが、交わらないまま、どこかへ動いていくということがあるのだ。そして、それは「前へ」ではない。「自分」へ。「わたし」がほんとうに求めているものが何であるかを確かめるために「わたし」へ一度、「折り返し」てみるのだ。そして、「わたし」がほんとうに求めているものから、別の新しい男へと「折り返す」のである。
 「引き返す」と「折り返す」は似ているようで、違う。
 その違いが、ここにあるのだ。
 「引き返す」は「死産」から「誕生」へ引き返したように、一度きりの運動である。もう一度、どこかへ行く、ということはない。(人間は、まあ、死んでしまうから、もう一度死へ向かって「引き返す」と言えないこともないかもしれないが、ふつうは、そんなふうには言わない。死産から誕生へ「引き返し」ても、誕生から死へと「引き返し」はしない。)
 桂子は「わたし」から俳優志願の男へと進み、そこから「わたし」へと「折り返し」て、友人の夫へと向かい、またいったん「わたし」へ向かって折り返して、その「わたし」から次は建築家へ……。常に「わたし」→男→わたし→男→わたし、なのである。「わたし」を中心にして、何度もくりかえす。
 この小説には「木」が重要な役割を果たしているが、木になぞらえていえば、木の中心に桂子がいて、その中心から桂子は出発し、男に出会って、交わって、もう一度「わたし」という中心にもどってくる。「中心」が桂子(わたし)であり、男は、そのまわりに「円」を描く形で存在するのだ。
 そして、桂子は、その「折り返し」運動を繰り返しながら、「前へ」進むのではなく、垂直にのびるのである。枝を、年輪を、周囲に広げながら、同時に垂直にのびるのである。「折り返す」度に、桂子という「木」は生長し、高くなり、同時に見えない部分(土の下)で深く深く根をおろすのである。「わたし」自身にもわからない別の存在(水脈--と呼んでみようか--「水」の描写が何度も何度も出てくるが、それは「わたし」を濡らすだけではなく、「わたし」の内部を樹液のように駆け回る、という印象がある)を求めて、深く深く根を下ろし、「他人(快楽--エクスタシー、エクスタシーの語源は、わたしからでること、わたしではなくなること、つまり他人になること)」を吸収して、「他人」を自分の中に取り込んで大きな大きな木になっていく。新しい「水」を吸い上げながら、垂直に垂直に育っていく。

 主人公に「桂子」という名前をつけたときから、そして桂子の誕生を、死からの「折り返し」と呼んだときから、この小説のことばは、そういう運動へと突き進んでいくのである。

 それは、この小説の最初に書かれている「巨木」との関係に、象徴的にあらわされている。母は桂子に語るのだ。

困ったことがあったら、あの巨木のそばに行くといい。よく晴れた日の、午前中がいいわね。心を落ち着かせて、幹に手をあてるの。目を閉じて、巨木とつながってごらんなさい。あなたの中に、静かなエネルギーが流れ込んでくるはずよ--

 桂子は、巨木に触れ、そこから「折り返す」のである。巨木が大地から吸い上げ発散するエネルギーに触れ、その巨木そのものに「なる」。「わたし」のいた「場」へそのまま引き返すのではなく、巨木に触れて「折り返す」という運動をすることで、「わたし」のいた「場」を「巨木」そのものにかえてしまう。
 「場」が「巨木」に「なる」。--「わたし」が「巨木」になる、は、そう言い換えることができるかもしれない。
 「場」が「巨木」に「なる」というのは、変な言い方で、学校教科書では許してもらえないだろうけれど、そんなふうにしか言えない「飛躍」したなにか、それが、この小説の「折り返し」の運動なのだ。あえていえば、「場」も「巨木」も、エネルギーということになるのだが(そして、ここからは、なんだか東洋哲学?の領域に入ってしまいそうなので、めんどうなのだが……)--その、学校教科書の正しい日本語(?)ではたどれないものがあるからこそ、それは「小説」という形になるしかなかったものなのである。


転生回遊女
小池 昌代
小学館

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