私は西脇順三郎について書いているが、西脇については何もわからない。西脇の研究家(?)、あるいは西脇の詩が好きなひとは、きっと怒りだすだろうと思う。私が、あまりにも根拠のないことを書きすぎている、と。私は何の反論もできない。私は根拠などもっていない。そればかりか、私は自分が感じていることを正確に(?)書くことばをもっていない。いや、何を書きたいか、という明確なことがらもないのだ。何を書きたいかわからない。書きながら探している。私の書いたことばが勝手に動いていって、どこかで西脇のことばときちんとぶつかってくれることを祈りながら書いている。これが、ほんとうのところである。特に、今回のように長い中断をはさむと、前に書いたことと、ことばがうまくつながらない。だから、無理には、つなげない。つなげようとしても、つながらないのだから、つながらないまま書いていくしかない--と思う。
「粘土」は三人の男が、関東のどこかを歩いている詩である。
農家の庭をのぞいて道を
きくと役所のあんちやん
だと思つたのか眼をほそくしてこわがつた
この「きくと役所のあんちやん」が楽しい。「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」という改行が学校教科書の文法だろう。西脇はこの学校文法を完全に無視してことばを動かしている--と書いた先からこんなことを言うと変だけれど、それは西脇が意識して壊しているのか、それともことばがかってに壊しているのか、実は、私にはよくわからない。
たぶん、この西脇についての文章を書きはじめたころは、それは西脇が壊しているのだ、乱調を導入することで美をつくりだしているのだ、と感じていた。だが、長い中断をはさんだいま、なぜか、まったく理由もないままなのだが、それは西脇が壊しているのではない、という気がしてきたのだ。ことばが、かってに文法を壊してしまう。(といっても、学校文法のことだけだけれど。)西脇は、そのこわれた「音」をただ聞き止め、記録している、という気がしてくるのだ。
きくと役所のあんちやん
この音は、とても美しい。「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」という正しい文法(?)を知っている人間が、こんな「音」を「音」だけとして文脈(?)の中から取り出せるとは、なんだか信じられない。意識はどうしたって「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」と動いてしまう。私は何度読んでも、この3行は、そういう「意味・内容」をもっているとしか判断できない。意識(?)は正確に(?)、そんなふうに判断しているにもかかわらず、その意識とは無関係に、
きくと役所のあんちやん
という音が動いているのだ。輝いているのだ。「耳」のなか、「頭」のなか、「肉体」のどの部分が反応しているのかよくわからないけれど、その音をとても美しいと感じる。「きくと役所のあんちやん」ということばは、それだけでは何の「意味」ももたない。「無意味」である。その「無意味」の輝きが、「農家の庭をのぞいて道をきくと/役所のあんちやんだと思つたのか眼をほそくしてこわがつた」と書いたときとではまったく違うのだ。
私は「音読」はしないが、もし「音読」したとしたら、この行は、いま私が感じているように輝くか。輝かないのではないか。この輝きは、「眼」で「音楽」を聞いているから感じるものなのではないのか。
私はもともと視力が弱いが、眼の手術をしたあと、さらに悪くなった。その眼の悪い人間が「眼で音楽を聴く」と書いてしまうと、なんだかとんでもないことを書いてしまっている気持ちになるが--だけれど、やっぱり眼がなんらかの作用をして、その「音楽」を美しいと感じさせているのだ。
アテネの女神のような神を結つたそこの
おかみさんがすつぱい甘酒とミョウガの
煮つけをして待つているのだ
この3行は、書いてある「内容」そのもののアンバランス(乱調--アテネの女神とおかみさん、甘酒、ミョウガ)もそうだけれど、
おかみさんがすつぱい甘酒とミョウガの
この1行の表記の複雑さが、また「音楽」を感じさせるのだ。もっとも、この行に関して言えば、私のカタカナ難読症の影響はかなり大きいかもしれない。「ミョウガ」。この「文字」が私には最初読めない。見えない。「音」がしないのだ。
「おかみさんがすつぱい甘酒と」まではひとつづきの「音」が聞こえてくるが、「ミョウガ」がとても小さい音、ほとんど沈黙として響いてくる。その沈黙の後に「の」という音がやってきて、あ、「甘酒と」と「の」の間には何かしらの「音」があったのだ--と気がつく。その瞬間の、「音楽」の覚醒のようなものが、とても新鮮で、とてもうれしくなる。
カタカナが正確に読めるひと(ほとんどのひとがそうだと思うけれど)は、そして、私とは違った「音楽」を聴いている--と思うと、私は、またなんともいえず妙な気持ちになる。
疎開していた三馬と豊国と伊勢物語と
ニイチェの全集とメーテルリンクの蜜蜂の生活
をとりに来たのだ
この部分では、「疎開していた三馬と豊国と伊勢物語と」と「ニイチェの全集とメーテルリンクの蜜蜂の生活」が違った「音楽」として響いてくる。それは日本の音と外国語の音ということかもしれないが、私には、もうひとつ「カタカナの音」、眼で感じてしまう変な音が加わり、聞き取れない「音楽」が駆け抜けて行ったのを感じるのだ。
「メーテルリンクの蜜蜂の生活」では、「の蜜蜂の」の部分で、体がとろけるような快感に襲われる。
--これはいったい何なのだろう。
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