詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(97)

2010-01-31 09:13:54 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 ことばはなぜ動いていくのか。と、書くと、いやことばは動いていくものではなく人間が動かすものだ--と言われそうだが、私にはやはりことばは勝手に動いていくものである、と思われる。
 「庭に菫が咲くのも」の書き出し。

幻像の貧困はガラスの絞首台にある。
ミモザの花が花屋に出た
恋愛の孤独と路ばたの雑草を見た
時の孤独の情とはまるでちがうのだ
円が円であるように人間が人間
である時があるとサルトル
がどこかで言つた

 1行目に、どんな「意味」があるか、私にはわからない。「内容」がわからない。私は、ただ、その「もの」の組み合わせに驚く。「ことば」の組み合わせに驚く。驚きで「頭」がいっぱいになってしまって、「意味・内容」がわからない。「意味・内容」がわからないから、逆に「頭」が覚醒する。えっ、何? わからないものをわかろうとして、「頭」にスイッチが入る、という感じ。
 でも、まあ、わからないままですねえ。それでも、2行目「ミモザの花が花屋に出た」は、1行目がわからないのとは逆に「内容」がわかるので、ほっとする。黄色い色が目の前に広がってくる。こういうことばの展開にふれると、あ、たしかに西脇は絵画の人なのだということが、ちらっ、と「頭」をかすめる。だが、その色彩はすぐに消えてしまう。つづく行には、私は、どんな色をも見ない。次に視覚を刺戟するのは「雑草」ではなく、「円」である。「円」は、とてもくっきり見える。見えるけれど「意味」はわからない。

 わからない、わからないといくら書いても、詩の感想にならないかもしれないが……。わからないまま、私が驚くのは、1行目から2行目のへの飛躍。そして、3行目と4行目の関係である。特に3行目と4行目のつながりと切断、その関係である。

恋愛の孤独と路ばたの雑草を見た
時の孤独の情とはまるでちがうのだ

 これは、意味的(?)には「恋愛の孤独と/路ばたの雑草を見た時の孤独の情とは/まるでちがうのだ」ということだろうか? そして、それは2行目ともつながっているのだろうか? 
 つまり……。
 ミモザの花を花屋で見たときの感情と、路ばたの雑草を見たときの感情が違うように、そういう自然(自然と切り離された花の美)を見たときの恋愛(あるいは孤独)の感情はまったく違う--と西脇は書いているのか。
 そうなのかもしれないけれど。きっとそうなのだろうけれど。

時の孤独の情とはまるでちがうのだ

 この行は、私には、独立して見える。実際に1行として「独立」した形で書かれている。さっき私は、これらの行の「意味・内容」をつかむため(?)に、「雑草を見た時」という具合に改行操作を変更してみたけれど、ほんとうは、私の「肉体」はそんなふうには反応していない。「頭」はむりやり「学校教科書」のように改行をととのえて(?)みたけれど、まったく違うことばを読み、違うことばを聞いている。
 「時の孤独」。whenの孤独ではなく、timeの孤独。
 あ、うまく書けない。
 「孤独」が「主語」ではなく、「時(時間)」が「主語」であると感じてしまう。いろいろな「時」が存在する。ミモザの花を見た「時」。恋愛の「時」。路ばたの雑草を見た「時」。それらの「時」はそれぞれ「孤独」である。そして、それらの「孤独」が違うのではなく、そもそも「時」が違うのだ。
 「学校文法」にしたがって読んだときとは、「主語」が逆転してしまう。
 「時」を「主語」にして読んでしまう読み方は、間違っているかもしれないけれど、私の「肉体」は、「時」を「主語」にしたてあげたいのだ。そうでないと、納得しないのだ。
 なぜなんだろう。なぜ、そんなふうに強引に(?)「誤読」したがるのだろう。
 リズム、音楽のせいだ、と私は感じている。
 ここには、「恋愛の孤独と/路ばたの雑草を見た時の孤独の情とは/まるでちがうのだ」と書いたときとは違う「リズム」がある。音の響きがある。そして、それは「学校教科書」の「意味・内容」を脱臼させる「リズム」であり、響きである。
 だとしたら、その脱臼した「リズム」、響きそのものが指し示す「主語」をそのまま主語として受け入れた方がいいと私は思うのである。
 ここは絶対に「時」が「主語」。
 「意味・内容」を破壊して、ふいにあらわれる「主語」。その「主語」のあらわれかたの「リズム」が、そして全体を動かしていく。「意味・内容」ではなく、「音楽」がことばを動かしていく。
 私には、西脇のことばの運動は、そんなふうに見える。

円が円であるように人間が人間
である時があるとサルトル
がどこかで言つた

 この3行は、「学校教科書」の改行(文節)では「円が円であるように/人間が人間である時があると/サルトルがどこかで言つた」になるかもしれない。
 しかし、西脇は、そうは書かない。
 わざと改行をずらす。そうすることで、ことばを活性化させる。「自由」にさせる。
 さっきまで「時」が「主役」であったが、ここでは「円が円」「人間が人間」というような繰り返しと、その繰り返しの「リズム」に乗った「ある」「ある」「ある」--「ある」ということば、それが「主語」になる。
 「ある」。存在のことば。--だからこそ、「サルトル」という哲学者も登場してくる。(サルトルの響きの中にも「ある」が隠れている。)

 「意味・内容」ではなく、音が、リズムが、音楽が、西脇のことばを動かしている--私は、どうしても、そう感じてしまう。

 そして。

 数行前、私は「しかし、西脇は、そうは書かない。」と書いたが、「書く」ということが、たぶん、西脇の「音楽」にとって重要な役割を果たしている。
 「恋愛の孤独と/路ばたの雑草を見た時の孤独の情とは/まるでちがうのだ」、あるいは「円が円であるように/人間が人間である時があると/サルトルがどこかで言つた」という改行(文節)は、「話しことば」(声)の「意識」を「文字化」したものである。話す--声にだし、何かをいう、そのときの「リズム」を正確に(?)転写したものである。話すことを文字に書き写せば、たぶん、「学校教科書」の「意味・内容」(文節)になる。
 西脇は、このことばの運動(ことばの法則)を「書く」ことで解体している。改行(文節)をわざとずらして「書く」。そうすると、「意味・内容」が脱臼させられ、「音」が復活する。「音」そのものがもっている「いのち」というか、勝手な動きが復活する。

 「書く」という行為は「音」を除外しているように見える。「音」がなくても「書く」ことはできる。けれど、書かれた「文字」のなかには「音」は存在する。「書く」ことによって、「書く」ときの「文字」の操作によって、聞こえなかった「音」そのものが逆に響きはじめるときがある。
 西脇の独特の改行システム。それは「意味・内容」を脱臼させるだけではなく、ほんとうは、ことばの「音楽」を復活させるための方法かもしれない。
 声に出す、声に出して読む--ではなく、黙読する。文字を読む。そのとき「肉体」のなかで鳴り響く音楽。
 逆説的な音楽--かもしれない。「文字」のなかにある「音楽」というのは、奇妙かもしれないけれど、それはたしかにあるのだ。
 この詩の最後は、とても美しい。

「なにしろホラチュウスを読んで一番自分を
喜ばすことは、結婚しないでよかつたことです。……
ウッファファファ・ウファッファファ
ウーファッファッファッファー」

 私はカタカナ難読症なのだけれど、最後の2行は、はっきりと「聞き取る」ことができる。読むかわりに。





Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)
西脇 順三郎
日本図書センター

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秋山基夫「神殿」

2010-01-31 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
秋山基夫「神殿」(「どぅるかまら」7、2010年01月10日発行)

 秋山基夫「神殿」は形が「定型」である。1連目。

灰褐色の細い道が木立や灌木を縫って丘へつづいている。
丘の背後から巨大な石積み建造物の先端がのぞいている。
空は晴れて気温が高く風も吹かないからすぐに汗ばんだ。

 同じ文字数。この3行が1連となり、6連で構成されている。特別におもしろいと感じたわけではない。「書く」ことについて、きのうの日記に書いたが、そのことが「体」のどこかに残っていて、その影響で、秋山の作品について書きたいという気持ちになったのだ。

 こういう作品を書くとき、ことばの選択は自由ではない。定型詩というのはすべてそうかもしれないが、一種の「不自由さ」が作品を歪める。そして、一定の「形」を要求されることばは、「不自由」なのだが、不自由だからこそ、その圧力を跳ね返して暴走するものがある。形の「外へ」ではなく、「内部へ」。
 すぐれた定型詩のなかでは、なにかが暴走している。

 たぶん、書きことばの内部での暴走がもっと過激だったら、この秋山の詩は傑作になったのだと思う。この詩はまだ過激な暴走を内部に抱え込んでいない。

 定型詩のもうひとつ(?)の形。たとえば西欧の作品にみられる「脚韻」の定型詩。そのとき「音」の形が「意味」の暴走を支える。遠く離れた「意味」が「音」によって接近し、化学反応のようなものを起こす。
 そういう暴走とは、この詩は無縁である。
 形(1行ごとの文字数が同じ)という定型詩では「意味」ではなく、「音」が暴走しないといけないのかもしれない。
 秋山も、そういうことを試みようとしているのだとは思う。
 たしかに(というのは、変なことばだけれど……)、文字数のそろった秋山の詩を読みながら、私はその詩に登場する「もの」(内容)よりも、「音」の伸び縮みの感じにひきずられている感じがするのだから。「意味」には驚かないが、その「意味」を支えるために、ことばの「音」がいつもと変わっていると感じることばがある。
 たとえば2行目の「石積みの建造物」。あ、こういうことばを、私は書かない。もし、このことばが「話しことば」として聞かされたものだったら、私はたぶん、「えっ、いまなんて言った?」と聞き返すと思う。「石積み」という「和の音」と「建造物」という「漢語(?)」のつながりが、私の耳では聞き取れない。しかし、「石積みの建造物」という「文字」をとおしてなら、その「意味」がわかる。そして「意味」を理解したあとに、「音」が動きはじめる。「音」があってことばがひとつの「意味」になるのではなく、「文字」があって「意味」をひっぱってきて、そのあとに「音」がやってくる。その瞬間を、ちょっとだけ、楽しいと感じる。けれど、それはあくまで「ちょっとだけ」で終わる。
 この「音」が、それまでの「意味」や「書きことば」を破壊して、内部に強烈な「音楽」を響かせてくれたら、きっと楽しいと思うのだが……。うまくいえないが、どうも私には不完全燃焼の「音」に感じられる。
 別のことばで言いなおせば、「音」が解放されていない。

 「文字」によって「意味・内容」は十分に保証されているのだから、音をどこまでも暴走させたらいいのに。(でも、そう書きながら、ではどうやって、ということになると、私にもさっぱりわからないのだが。--私は、まあ、いつものように、無責任な感想を書くことしかできないのだが……。)
 
 あ、何が書きたかったのかなあ。いつものことだが、私には、私の書きたいことがよくわからない。
 書き直そう。

 文字数をそろえて書く、ということのために、いままで意識されなかったことばが選ばれる。そういうことが起きる。「石積みの建造物」というような、「意味」はわかるけれど、ふつうはつかわないことばが選ばれるということがあるのだと思う。
 ふつうは、というのは、あくまで私にとっての「ふつう」だけれど、ふつうは「石積みの建物(たてもの、と読んでください)」か「石の建造物」だろうと思う。言うとすれば。
 そして、私は、いま「言うとすれば」ということばを書き足したのだけれど、この「言うとすれば」こそ、もしかすると、この詩を「解きあかす鍵」かもしれない。
 この詩は「言う」(話す)ということとは無縁の作品なのである。「言わない」。かわりに「書く」。
 つまり、「言うとすれば」石積みの建物、石の建造物かもしれないが、「書くとすれば」石積みの建造物でも大丈夫なのだ。「書く」ということが優先され、「書く」(書いた)ときの「形」が優先され、「音」が運ぶものが犠牲にされている。
 それが、この詩である。
 
 だからこそ。

 そうなのだ。だからこそ、こういう詩では、「音楽」の暴走が必要なのだ。「犠牲」になった「音」の反撃が必要なのだ。ずーっと「書きことば」に従属させられたまま、奴隷状態のままでは、何か「欲求不満」のようなものがたまってしかたがない。
 「石積みの建造物」くらいでは、暴走の起爆剤にはならない。逆に、起爆装置が外されてしまった感じすらしてしまう。

空は晴れて気温が高く風も吹かないからすぐに汗ばんだ。

 なんと間延び(?)した1行。そのなかで「音」は苦しんでいる。これでは、何も動いていかない。そして「定型詩」の苦しさだけが残る。

 唯一、おもしろいと感じたのは5連目の2行目。

目の前に背中に青い菱形のうろこのあるイグアナがいた。

 「イグアナ」という音が、いきなり、それまでの「音楽」を破ってしまう。これが3連目の1行目のように「三角頭の蛇」かなにかだったら、音は重たく、重さのなかで間延びする。

 「書きことば」は見かけ上は「音」をもっていない。けれども、その内部に「音」をもっている。「音楽」をもっている。その音に注意をはらうと、書きことばの詩の音楽はもっともっと楽しくなる--そんなことを考えた。
 (「誰も書かなかった西脇順三郎」に、これと類似したことを書いています。あわせて読んでみてください。)





詩行論
秋山 基夫
思潮社

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