目黒裕佳子「よる」(「朝日新聞」2010年01月16日夕刊)
目黒裕佳子「よる」は、ひらがながとても印象的な詩である。きれいである。そして、旧かなづかいも効果的だ。きれいだ。二回、「きれい」ということばをつかってしまったが、「きれい」という印象が、ともかく前面に出てくる。漢字、現代かなづかいなら、違った印象になるかもしれない。読み過ごしてしまうかもしれない。
私は旧かなづかいでは文字が書けない。かろうじて読めるにすぎない。だから、旧かなづかいのことばを読むときは、読む速度も遅くなる。ひらがなは、やはり苦手である。カタカナほどの難読症ではないが、やはり読み間違えが多い。漢字とひらがなが適度にまじっていないと文字が読めない。
目黒の今回の作品は、私にとっては、読むことができるぎりぎりの文字で書かれている。これ以上ひらがなが多くなると、完全に読み違える。読み違えが少ないのは、(ほんとうは読み違えをしているかもしれないが)、旧かなづかいが読む速度にブレーキをかけるからである。
書き出しの「さはやか」を、私は、即座には理解できない。「さはやか」という文字を「さわやか」という音にかえることで、やっとその「意味」を理解する。ゆっくり読むしかないのだが、そして、その「ゆっくり」のなかで、ことばが静に熟成してくる。「さはやか」が「さわやか」に変わる。それは「わからないもの」が「わかるもの」に変わるような、不思議な感じである。それが楽しい。
--と、書いたあとでこんなことを書くと矛盾しているかもしれないが。
旧かなづかいで書かれたものを読むのは私は大好きである。とても速く読むことができる。現代かなづかいに比べてことばが速く動く。
ゆっくりなのだけれど、速い。
矛盾した言い方になるが、ひとつひとつはゆっくりなのだけれど、そのゆっくりのなかでことばが発酵して、熟成し、読んでいる意識のなかで「酔い」のようなものが生まれ、その「酔い」の速度が速くなる。「酔い」というのは、まあ、勘違いの源のようなものだから、ゆっくりだけど速いという感覚自体が勘違いかもしれないけれど、とても気持ちよく、ことばのスピードに乗ることができる。
「さはやか」が「さわやか」にかわり、「くつがへす」が「くつがえす」にかわるとき、何か、不思議なスピード感が私をとらえる。
それは「した」が「舌」にかわるときも同じである。「した」という音が「舌」というもじにかわって、私の体のなかで結晶する。そのときの速度が、旧かなの文字が現代の(?)音にかわるときのスピードと交錯して、とても不思議な印象になる。
この詩は「夜汽車」を舞台にしている。(思わず「夜汽車」と書いてしまったが、そういう古い感じ、が色濃く漂う。)その「夜汽車」に乗って、その速度でことばに運ばれて、その速度のことばに運ばれて、「いま」「ここ」ではない不思議な旅をしている感じになる。
これが実に楽しい。
そして。
ああ、書くべきなのか、書かない方がいいのか。自分だけの楽しみに隠しておきたい気持ちにかられながら、でも、みんなに知ってもらいたいとも思うのだが……。
とても変なことが起きる。
この1行の「ばら」が「薔薇」になって私を襲うのである。そしてそれは、前の行にさかのぼって「うなばら」を「海原」ではなく「海薔薇」にしてしまう。
たぶん、「静脈のばらいろ」が影響しているのだ。「静脈のばらいろ」は「静脈の薔薇色」なのだが、その「ばら」という文字、音が、「薔薇」という文字にかわって、その変化が、詩のなかの、別の行の「ばら」を「薔薇」に変えてしまう。
ああ、きれいだ。ほんとうにきれいだ。いままでに見た、どんなバラよりもきれいだ。ため息が漏れてしまう。
その影響だろう。「はなやてあし」ということばも「花やてあし」として読んでしまうし、そこには「華やか」も紛れ込んでくる。
あ、もう、だめ。
私はカタカナは完全に難読症で一度として正確に読めたことはないが、それ以外の文字も正確に読んだことは一度としてないことがわかってしまう。
この詩のなかには「さはやかなした」「しずかに」「はしつて」「まなざし」「てあし」ということば(文字?、音?)が響きあっているが、その音の(文字の)なかの「し」が「ほし」の「し」と重なって、夜空に輝いている青い光に見えてくる。うーん、「ばらいろ」から「青」だけがしぼりとられたような輝き--なんて、いってはいけないのかなあ。
こんな冬の夜の、晴れ渡った空の星。
何を読んだか、もう忘れてしまう。ただただ「きれい」な夜が私をつつんでいる。
「誤読」だよね。かってな妄想だよね。そう感じながらも、そういう「誤読」、妄想を引き出してくれることばの力に、なぜだかうっとりしてしまう。とても幸福な気持ちになれる。
目黒裕佳子「よる」は、ひらがながとても印象的な詩である。きれいである。そして、旧かなづかいも効果的だ。きれいだ。二回、「きれい」ということばをつかってしまったが、「きれい」という印象が、ともかく前面に出てくる。漢字、現代かなづかいなら、違った印象になるかもしれない。読み過ごしてしまうかもしれない。
さはやかなしたで くつがへす
よる
列車はけむり しづかにはしつてゆく
乗客はだまつてゐる
むねに手を 手に
世界をおいて
(ああ ひかるうなばらはきれい)
(静脈のばらいろはきれい)
ものおとたてず
乗客はまなざしの束をほどき ふと
ずぶぬれのまなこ
ばら蒔いた
(ごらんなさい
かたことゆれてゐるのはほしです)
この闇に
はなやてあしも しずかにひかり
(どちらさまも ひえますな)
(零下らしい)
じつに きれいなよるなのです
私は旧かなづかいでは文字が書けない。かろうじて読めるにすぎない。だから、旧かなづかいのことばを読むときは、読む速度も遅くなる。ひらがなは、やはり苦手である。カタカナほどの難読症ではないが、やはり読み間違えが多い。漢字とひらがなが適度にまじっていないと文字が読めない。
目黒の今回の作品は、私にとっては、読むことができるぎりぎりの文字で書かれている。これ以上ひらがなが多くなると、完全に読み違える。読み違えが少ないのは、(ほんとうは読み違えをしているかもしれないが)、旧かなづかいが読む速度にブレーキをかけるからである。
書き出しの「さはやか」を、私は、即座には理解できない。「さはやか」という文字を「さわやか」という音にかえることで、やっとその「意味」を理解する。ゆっくり読むしかないのだが、そして、その「ゆっくり」のなかで、ことばが静に熟成してくる。「さはやか」が「さわやか」に変わる。それは「わからないもの」が「わかるもの」に変わるような、不思議な感じである。それが楽しい。
--と、書いたあとでこんなことを書くと矛盾しているかもしれないが。
旧かなづかいで書かれたものを読むのは私は大好きである。とても速く読むことができる。現代かなづかいに比べてことばが速く動く。
ゆっくりなのだけれど、速い。
矛盾した言い方になるが、ひとつひとつはゆっくりなのだけれど、そのゆっくりのなかでことばが発酵して、熟成し、読んでいる意識のなかで「酔い」のようなものが生まれ、その「酔い」の速度が速くなる。「酔い」というのは、まあ、勘違いの源のようなものだから、ゆっくりだけど速いという感覚自体が勘違いかもしれないけれど、とても気持ちよく、ことばのスピードに乗ることができる。
「さはやか」が「さわやか」にかわり、「くつがへす」が「くつがえす」にかわるとき、何か、不思議なスピード感が私をとらえる。
それは「した」が「舌」にかわるときも同じである。「した」という音が「舌」というもじにかわって、私の体のなかで結晶する。そのときの速度が、旧かなの文字が現代の(?)音にかわるときのスピードと交錯して、とても不思議な印象になる。
この詩は「夜汽車」を舞台にしている。(思わず「夜汽車」と書いてしまったが、そういう古い感じ、が色濃く漂う。)その「夜汽車」に乗って、その速度でことばに運ばれて、その速度のことばに運ばれて、「いま」「ここ」ではない不思議な旅をしている感じになる。
これが実に楽しい。
そして。
ああ、書くべきなのか、書かない方がいいのか。自分だけの楽しみに隠しておきたい気持ちにかられながら、でも、みんなに知ってもらいたいとも思うのだが……。
とても変なことが起きる。
ばら蒔いたとき
この1行の「ばら」が「薔薇」になって私を襲うのである。そしてそれは、前の行にさかのぼって「うなばら」を「海原」ではなく「海薔薇」にしてしまう。
たぶん、「静脈のばらいろ」が影響しているのだ。「静脈のばらいろ」は「静脈の薔薇色」なのだが、その「ばら」という文字、音が、「薔薇」という文字にかわって、その変化が、詩のなかの、別の行の「ばら」を「薔薇」に変えてしまう。
ああ、きれいだ。ほんとうにきれいだ。いままでに見た、どんなバラよりもきれいだ。ため息が漏れてしまう。
その影響だろう。「はなやてあし」ということばも「花やてあし」として読んでしまうし、そこには「華やか」も紛れ込んでくる。
あ、もう、だめ。
私はカタカナは完全に難読症で一度として正確に読めたことはないが、それ以外の文字も正確に読んだことは一度としてないことがわかってしまう。
この詩のなかには「さはやかなした」「しずかに」「はしつて」「まなざし」「てあし」ということば(文字?、音?)が響きあっているが、その音の(文字の)なかの「し」が「ほし」の「し」と重なって、夜空に輝いている青い光に見えてくる。うーん、「ばらいろ」から「青」だけがしぼりとられたような輝き--なんて、いってはいけないのかなあ。
こんな冬の夜の、晴れ渡った空の星。
何を読んだか、もう忘れてしまう。ただただ「きれい」な夜が私をつつんでいる。
「誤読」だよね。かってな妄想だよね。そう感じながらも、そういう「誤読」、妄想を引き出してくれることばの力に、なぜだかうっとりしてしまう。とても幸福な気持ちになれる。
二つの扉目黒 裕佳子思潮社このアイテムの詳細を見る |