詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透「『海の古文書』序章の試み」

2010-01-16 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「『海の古文書』序章の試み」(「現代詩手帖」2010年01月号)

 きのう読んだ柏木勇一の詩集は「ことば」が「流通言語」で構成されていた。詩のことばもあるのだけれど、それは「比喩」である。「比喩」というのは、いま、ここにあるものを、いま、ここにないもので言い表すことである。ふたつの存在の間をことばというか、意識が行き来する。そのとき、その運動のなかでしか見えないもの(まあ、電車で旅するときの、動く風景の、その動きのようなもの)が見える。
 --この、運動のなかでしか見えないもの、それを「比喩」から解放して、純粋にことばの運動そのもののなかで展開するとどうなる。
 たとえば、北川透「『海の古文書』序章の試み」。
 ここに書かれていることばから「意味」を引き出そうとすれば、まあ、できるかもしれない。でも、そんなことをしても「窮屈」になるだけだろう。ことばはどうしたって、私たちの知っている何かと結びつき、あれこれのことを思い起こさせるから、そこから「意味」を見つけ出そうとすれば見つけだせるかもしれないけれど、それはとても面倒くさい。北川が、何か「意味」をこめているのだとしても、面倒くさくて、私はそれを取り出したいとは思わない。(北川さん、ごめんなさいね。)
 では、何を読むのか。
 ことばのスピードと、そのスピードによっても狂わないことばの強度、そのスピードに乗ってどこへでも行ってしまえることばの、その力そのものを読む。いや、読む、というのは正確ではないなあ。私は、読んではいない。あ、かっこいい、と思うだけである。
 うまくいえないが……。街で、とんでもない格好をした人に出会う。(服装、ファッションのことですよ。)そういう格好は、まあ、できない。なんといっても、ひと目があるからねえ。でも、ああいう格好ができたら楽しいかな、と思う。いつも見ている街の風景だって違って見えるかもしれない。変な格好の中には、何か特別のエネルギーがある。変な格好というのは、そのエネルギーを受け止め、それが「形」(目に見えるもの)に仕立てたもの。
 ことばにも、そういう動きがあるのだ。
 なんだかわからないけれど、既成のことばの運動(流通言語)では明らかにできないものがあるのだ。
 そしてそれは、私には適当なことばがみつからないのだが、その「何か」は、たとえば北川自身が持っているものではなく、ことばそのものが持っているものなのだ。
 奇抜な格好、ファッションも、そんな格好をする人が、あふれだすエネルギーを持っているだけではなく、ファッションというもの、そのもののなかにこそ、何か既成のものでは収まり切れないエネルギーがあって、それが噴出してきている--というのがほんとうのことかもしれない。私はファッションというものを、そんなに見てきているわけではないので、そこまでは感じることができないけれど……。
 しかし、私は私なりに、ことばというものをかなり読んできている(見てきているので)、ことばに関して言えば、ことばにはことば自身のエネルギーというものがあって、それは書き手の思惑(意味の押しつけ?)を超えて、勝手に動いていくことができる、と、(いささか乱暴だけれど)断言できる。断言したい。

 わたしが語ろうとするのは、またしても三人の男の行方です。

 北川がそう書き出したとき、北川には何かいうべきこと(意味)があったかもしれない。あったかもしれないけれど、その1行を読んだ瞬間から、私は北川が何を言おうとしているか、まったく気にならなくなる。どんな思いで北川がそのことばを書いているか--それはどうでもいい。(またまた、ごめんなさいね、北川さん。)
 三人はほんとうに三人か。もしかしたらひとりであって、それがたまたま三人にみえるだけかもしれない。あるいは百人いるのだけれど、三人にしか分節できないのかもしれない。(あ、分節、ってこんなふうに使っていいですか? 「現代思想」に詳しいひとがいたら教えてね。)
 私が興味があるのは、そんなふうに書きはじめたことばがどこまで動いていけるか。その動きなのかで、いったい、ことば自身の力のどの部分が新しく目覚めるか、ということだけである。

 たぶん--というのは、間違っているかもしれないけれど、間違っていたとしてもその間違いは間違いを通り越して別なものに触れる--いわば、方針転換(?、閑話休題?)することで、何かほんとうのことになる--ということを期待して書いているのだけれど。(あ、意味のわからないことばだなあ。--でも、どう書き直していいか、わからないから、このままにしておく。)
 たぶん。
 たぶん、北川にも、何を書くかということは決まっていない。北川はただことばを動かしたいだけなのだ。自分の知っていることばを動かして、破壊して、既成のことばではなく、まだことばにならないことばのエネルギーを引き出したいのだ。

 わたしが語ろうとするのは、またしても三人の男の行方です。ひとりは狂死、ひとりはアルコール中毒死、もう一人は行方知れず。狂死の男も、中毒死の男も、生死不明の男も、みんなどこかで生きています。

 死んだ、と書いたと思ったら、生きている、と書く。
 これは、何を書くか決まっていないから、こんな具合になるのだ。「事実」と「ことば」が一致しているなら、「ことば」が「事実」にそくして動くものなら、ここに書かれていることは「矛盾」であり、北川は、いわばでたらめを書いていることになる。
 北川は、「事実」ではなく、ことばを動かし、そのことばが、いったい私たちの何を縛っていているかを探る。探りながら、ことばそのものを「ことば=事実」という関係から解き放ち、自由にしたいのだと思う。
 もし北川に「思想」があるとすれば、いや、私は「ある」と信じているけれど、それは1行目の「語ろうとする」の「する」こそが北川の「思想」であり、「肉体」なのだ。
 北川は何かを「語る」のではなく、語ろうと「する」。
 「わたしが語ろうとするのは」と「わたしが語るのは」は、ぱっと読んだだけでは同じかもしれない。「する」があろうがなかろうが、そのあとにつづくことば(意味・内容)がかわるわけではないかもしれない。
 けれど、違うのだ。
 「する」には、意識の「念押し」のようなものがある。「決意」がある。「語る」をさらに押し進めていく--それが「語ろうとする」である。
 そして、ことばは、その「語ろうとする」の「する」を引き受けて、勝手に(?)というか、北川をおしのけて動きはじめる。ことばがことば自身で、語ろうと「する」のだ。
 2連目。

 このあたりで、語り手を引き受けているわたしの正体を明かさなければならないでしょう。気障なことを言えば、わたしはこの世に居場所のない五位鷺、詩のことばです。ことばにも肉体があり、性別があるなんて不思議ね。仕事もセックスもしますよ。旅行だって、人殺しだって、魚釣りだって、逆立ちだって、ことばは人間がする、あるいは人間だけはしないあらゆることをします。

 「わたし」は動きはじめたことばに「乗っ取られて」、「ことば」になってしまう。「詩のことば」になってしまう。それは「わたし」を超越する。筆者、語り手とは関係がない。(--とはいえ、それも北川の書いたことではないか、という指摘がありそうだけれど、無視しますね。とりあえず、あるいは永遠に。)
 だって、ことばは「人間がする」ことだけではなく、「人間だけはしない」ことさえできるというのだから、それは、もう北川の意識とは関係がないね。
 私は根が素直な人間なので、あらゆることばを、ことばそのままに受け止めるのです。人の言うことより、ことばそのものが語ること、語ろうとすること、それを優先する。誰が言ったかではなく、そのことばが言おうとすることを優先する。「誰」をとおりこして、そのことばのなかには、そのことばでしかたどりつけないものがある。

 もし、そういう自由な、わがままなことばの何かに北川が関与しているとするならば。--それは、北川がこれまでに鍛え上げてきた「文体」の力である。ことばは北川が鍛えてきた文体に乗ることで、日本語として読むことができる文章になる。そして、そういう文章になりながら、ことばは、その文体を突き破って別なものになろうとする。
 ここにはとんでもない「矛盾」がある。
 そして、この「矛盾」こそ北川の「思想」であり、「肉体」である。ことばを自在に動かすには、ことばのエネルギーを受け止めるだけの強靱な「文体」が必要であり、その強靱な「文体」だけが、あらゆる「文体」を破壊してしまう「ことばの自由」、「自由なことば」を引き出すことができる。
 あれっ。でも……。
 強靱な文体によって表現された自由なことば--それって、結局、強靱な文体のなかに存在するの? それともその文体さえも破壊して、文体が成り立たなくなるの?
 あ、変ですねえ。何を言っているか、わからないでしょ? 「矛盾」について書こうとすれば、どうしたって、変になる。正しい日本語(?)では書けなくなる。変なものは変なまま、書いてしまう。無理には整えない。--これが私の主義(?)なので、このままつづけることにする。

 北川の言い分(?)か、ことばの自己主張か。どっちでもいいけれど、私は「ことばの自己主張」という側に立って、そのことばに耳を傾ける。
 強靱な文体を突き破って、新しくことばになろうとすることばの思いに耳を傾ける。そうすると「現代詩」がいったい何をしようとしているのか、そのことばが何を語ろうと「する」のか、その「意思」のようなものが見えてくる。
 その「意思」、「する」という運動の側に立ちたい、と思う。

わたしの身体を編んでいる文法の糸が、ぐちゃぐちゃ絡みだし、その中を流れている古代からの血が奔騰し、濁りはじめる。

 いいじゃないか、どこまでも濁っていけば。濁った果てに結晶化するのか、あるいはビッグバンのように破裂して跡形もなくなるのか、跡形もないはずなのにそれが誕生ということになるのか、どっちにしたって動いてしまうのがことばである。ひとに受け入れられ、また拒まれる。その二通りを生きるのがことばのいのちじゃないか。がんばれ、がんばれ、と声援までおくってしまうなあ、私は。

 狂死した男、《絶滅の王》が誰に対しても許せなかったのは、行為とことばの不一致でした。しかし、中毒死した男の認識は、心情を過激化させ、眠り込ませる行為と、それを覚醒させることばの関係の本質は、必ずずれる、不一致にあるということでした。

 不一致。かっこいいじゃないか。一致してたまるか。不一致のなかに、誰も知らない「美」があり、それは「不一致」ということばを書いた瞬間に「美」にかわってしまうものだけれど、だからこそさらなる不一致をつくりつづけなければならない。ね、「矛盾」。かっこいいじゃないか。がんばれ、がんばれ、がんばれ、ことば。またまた声援をおくってしまう。


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