詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マーク・ウェブ監督「(500)日のサマー」(★★)

2010-01-23 12:18:49 | 映画
監督 マーク・ウェブ 出演 ジョセフ・ゴードン=レヴィット、ズーイー・デシャネル
 「ボーイ・ミーツ・ガール」。ただし、ボーイはすでにボーイではない。若くはない。「卒業」のダスティン・ホフマンのように大学を卒業してしまっている。いまどき、「卒業」のラストシーンを思い出したりしている。若いのに。若い--というのは、「卒業」なんて知らない、で通じる年齢なのに、という意味である。でも、まあ、年齢は関係がないかもしれない。男女の仲には。
 男の仕事は「カード会社」でカードのことば、コピー(?)を考えること。この、ちょっと映画の舞台にはならなかったような会社(仕事)を題材にしているところが、おもしろいといえば、おもしろいのかな。でも、あ、ここがおもしろい、といえるほどの特徴的なおもしろさがない。
 万人向け(?)のことばをひねり出しつづける。けれど、自分自身のことばはもっていない。--というところまでつきつめて描くと、おもしろくなるけれど、そこまではつきつめない。「脳内ニューヨーク」のように、哲学的(?)にもなれない。
 中途半端。
 年齢も仕事もそうだが、この中途半端というか、この見落としてしまうそうな「すきま」に目を向けているのが、この映画の一番いいところなのかもあれない。主役の二人にしても同じだ。美人・美男子ではない。役者になるくらいだから「中の上」「上の下」くらいの感じではあるのだけれど、トップスターのもっている輝かしいものはない。かといって、醜いわけではない。その中途半端な二人が、中途半端な恋をする。
 そういう時期というのは、確かにあるなあ。

 ジョセフ・ゴードン=レヴィットの半分眠たいような、やる気のなさというか、覇気にかける肉体と動きは、この映画にぴったりあっていて、それを楽しむ映画といえば、そうなるかもしれない。--たぶん、その肉体論というか、役者の特権論から書きはじめれば、少しはおもしろい感想になったかなあ。
 でも、もう遅いね。
 いっそうのこと、「卒業」とこの映画とどこが違うか--を考えてもよかったかもしれない。ダスティン・ホフマンも、背は低いし、眠たいような、ぴりっとしない肉体の役者である。中途半端な役者である。その中途半端な役者が、この映画と同じように、中途半端な生活をしている。でも、ひとつだけ違った点がある。「卒業」にはミセス・ロビンソンとの恋というか、情事があった。乗り越えるべき「障害」があった。「大人」の壁があった。この映画には、それがない。
 「大人の壁」がない。
 仕事に行き詰まったときも、大人である上司はボーイを攻めたりはしない。あたたかく見守る。ボーイは何とも戦わない。--これは、不戦の映画なのだ。そして、大きな壁と戦わないということが、中途半端をいっそう「ずるずる」とした感じでただよわせる。
 そして、「大人の壁」がないかわりに、とてもこましゃくれた「子供」が登場する。中学生(小学生?)の女の子が、ボーイの恋の悩みを聞いて、冷静に、何をすべきかを教えるのだ。諭すのだ。
 その教えは、体験というよりは、一種の「耳年増」の知恵という感じなのだが、それがこの映画の一番楽しいところかなあ。へんに笑えるところかなあ。
 
 でも、まあ、見なくていいよ。(笑い)

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海埜今日子『セボネキコウ』

2010-01-23 00:00:00 | 詩集
海埜今日子『セボネキコウ』(砂子屋書房、2010年01月10日発行)

 海埜今日子『セボネキコウ』。私はカタカナ難読症だから、詩集のタイトルで、あ、困った、と思った。けれど、詩集そのものの中身、作品はカタカナではなくひらがなが中心である。これなら大丈夫--と思ったが、それは早とちりだった。あ、ひらがな難読症まで出てきてしまった、と一瞬、思ってしまった。
 海埜は、ひらがなを意識的につかって世界をゆさぶっている。その揺さぶりのなかで、一種の船酔いのような感じになってしまう。
 --と書いて、はた、と私は考え込んでしまった。なぜ「車酔い」ではなく「船酔い」と書いたのだろう。なぜ「酔っぱらった」(あるいは二日酔い)ではなく、「船酔い」などと書いたのだろう。私は船に乗ったのがいつか思い出せないけれど、なぜ、そんな記憶にないようなことを思い出したのだろうか。
 思うに、海埜のことばが私にもたらす「酔い」(揺れの不安定な気持ち)は、たぶん、いつでも体験できるものではなく、何か特別な乗り物に乗ったときにだけ起きるような「酔い」なのだ。ことばのスピードがバスとか電車、飛行機ではなく、めったにつかわないけれど、あるときつかった記憶がある乗り物のスピードかなにかのように、とおい記憶に残っている感じ、肉体の奥に潜んでいる感じを引き出してくる動きなのだ。だから「船酔い」と感じたのだ。(もし、私が日常的に船で動き回る人間だったら、きっと「船酔い」ということばはつかわなかっただろう。)
 海埜のことばの、どこが、私に「船酔い」を引き起こすのか。たとえば「門街」。

たびはそこからつづけようとおもった。やわらかな足さきが、みちしるべのようにたおれこむ。ふたまたに腰をおろし、いつでもさんさろはゆくてになまえをつらねている。くびれた予感をたずさえ、おもいくちをのみこみ、石をたべたしょっかんをたもっていた。そこからしゅっぱつがながめられるのがふさわしいのだから、と街はひとしれずおわりをやどしていたのだろう。

 この「たび」は「足」ということばや「石」ということばから見ると「陸路」の旅である。それも歩行の旅である。「おもいくちをのみこみ」ということばは私の「肉体」のなかでは「重い陸奥をのみこみ」にかわっている。(ひらがな難読症は、こんなふうにしてあらわれる。)そして、「重い陸奥」ということばが、それに先行する「足さき」「みちしるべ」「たおれこむ」を芭蕉の旅に誘い込む。「旅に病んで夢は枯れ野をかけめぐる」ということばが浮かんできたりする。思い浮かぶのは、陸路、荒れた野原。「街」ということばにもかかわらず、「街」の外の荒野。--それなのに、なぜ、「船酔い」か。

くびれた予感をたずさえ

 このことばを私は「くたびれた予感をたずさえ」と読んでしまった。「くたびれて宿かるころや藤の花」。そして「くたびれた」のなかにある「たび」という音のつながりが「旅」にかさなり、なんだか、歩いて旅をする芭蕉の疲れがそのまま私の「肉体」をつつみこんでしまうかな……と思った瞬間、それが、ふっと消えてしまう。
 あれっ。
 何が起きたんだろう。何かが違う。私の「肉体」はどうなってしまったんだろう、ととても気持ち悪くなるのである。
 「おもいくちをのみこみ」ということばは私の「肉体」のなかでは「重い陸奥をのみこみ」にかわったときとは違う不思議な感じ、不思議な違和感、感じたことのない「ゆれ」が「肉体」に残っている。
 「くびれた予感をたずさえ」を「くたびれた予感をたずさえ」と読み間違えた瞬間、あ、何か読み間違えているという印象が非常に強いのである。「おもいくちをのみこみ」が「重い陸奥をのみこみ」と「誤読」したときとは「音楽」が違う--「肉体」が、そうつげるのである。
 そこで読み返す。 

くびれた予感をたずさえ

 「くびれた」が「くたびれた」になるには、「予感」をはさんで、その向こうから(?)「たずさえ」の「た」を運んでこなくてはならない。「おもいくちをのみこみ」「おもいみちのくをのみこみ」は音を前後に動かしてできる「音楽」だが、「くびれたよかんをたずさえ」と「くたびれたよかんをたずさえ」には音の前後とはいえないものがある。間にはさまった「漢字」をとおりこしての音の移動がある。
 それがなんともいえず、気持ち悪い。

 --気持ち悪いと書いたが、あ、これは海埜のせいではなく、私がそう感じ取る「体質」ということである。

 私は海埜の詩を、詩集で読み返すまでは、ひらがなに特徴があると思っていた。ひらがなのもっている「音」を有効につかって世界を揺さぶっていると思っていた。たしかにそれはそうなのだが、私は海埜のひらがなにゆさぶられながら、他方で漢字につつかれていた。そのふたつのせめぎ合いで、なんだか、いままで感じたことのないような、いや、感じたことはあるのだが、日常的には感じることができないものを感じたような気持ちになって、ふと「船酔い」ということばが「肉体」の奥から出てきたのだ。
 ひらがなに揺さぶられる。けれど、その揺さぶりは、ひらがなだけで書かれていれば、きっと違うものになる。海埜はひらがなの詩人であるけれど、どこかで漢字の詩人でもある。
 速度というか、音楽の連続性が、 2種類あるのだ。
 あ、船旅と言うのは、確かに2種類の音楽の速度をもっている。ひとつはもちろん「船」そのもののスピード。もうひとつは「海」のスピード。海の、波の、うねり、潮流のスピード。そのふたつがいつもぶつかっている。
 車の旅、列車の旅は、車と列車そのもののスピードが世界を支配する。飛行機には偏西風など「風」の影響があるにはあるが、海のうねりとは違うような気がする。(パイロットや船長ではないので断言できないが。)
 船と海(波)がもっているふたつのスピードのぶつかりあいによる音楽、ゆさぶり……。
 私が感じた例をもうひとつ。「紙宿」。「けっきょく文面のなかで会うことにきめたのだった。」ということばが最初の方に出てくる。「恋文」(あ、美しいことばだねえ)について書いたものだと想像しながら私は読みはじめたのだが……。

そうあのひとはあやまってくれたんです。

 この1文に、私は、立ち止まってしまう。「おもいくちをのみこみ」を「重い陸奥をのみこみ」と「誤読」したとき、あるいは「くびれた予感」を「くたびれた予感」と「誤読」したときのように、「音」が私の「肉体」のなかでいれかわり、別の音楽になるわけではない。「音」は正確にそのまま……。
 でも、これはなんて読むの?

そうあの人は謝ってくれたんです。

そうあのひとは誤って(手紙を)呉れたんです。

 どっち? わからない。
 
 「そうあの人は謝ってくれたんです。」と「そうあのひとは誤って(手紙を)呉れたんです。」は音楽でいうと(音痴の私がいうことだから、きっと間違っているんだろうけれど)、これは突然「移調」したというか、突然「キー」がかわってしまったような感じ。「ドレミ……」とたどれば「ドレミ……」のままだけれど、ほんとうは違う音。
 岩崎宏美の「思秋期」の最後の方、同じメロディーが半音ずつあがって別の音になるような感じ。同じだけれど違う。違うけれど同じ。--こんな言い方しか、私にはできないけれど……。
 そして、そのあと。そのつづき。

そうあのひとはあやまってくれたんです。うでのたわむれがぬるんだので、ゆわえた箇所が感覚だけをこばむようで、どうにもやりきなかったのに。反故のもつれる恋だったとつたわりました。

 「うでのたわむれがぬるんだ」は「腕の戯れがぬるんだ」なのかもしれないが、私はこの部分は「重い陸奥をのみこみ」のように、「腕の撓む(……)が(濡れ?)潤んだ」などとわけのわからない「音」のまま「誤読」し、「つたわりました」は「伝わりました。」ではなく「偽りました。」と読んでしまうのだが、そういう「誤読」を「箇所」という漢字の強い刺戟、「感覚」という漢字のもつ「意味」が突き刺す。そして、その刺戟、突き差しが、不思議な具合に意識を揺さぶる。--その揺さぶり方は、同じことの繰り返しになってしまうが、どうも違ったスピードのぶつかりあい、ふたつの音楽のぶつかりあいによるもので、私には一種の「船酔い」に似ている、としかいいようがない。

 船に酔ったら甲板に出て風に当たる。風が運んでくるものが「漢字」なのか、あるいは「ひらがな」なのか。私には、まだ区別がつかない。船が「ひらがな」で「波」が「漢字」なのか、私に区別がつかないのと同じである。船が常にゆれる波に接しているように、「ひらがな」と「漢字」は常に接触しながら、そこで特別なスピードをつくりだしている。リズムをつくりだしている。音楽をつくりだしている。それに揺さぶられるとき、私の「肉体」のなかで、何かがめざめる。私はとりあえずそれを「船酔い」と書いたけれど、それはほんとうは「快感」と呼ぶべきものかもしれない。私がそれを快感として表現する方法を知らないだけで、ほんとうは極上の快感かもしれない。豪華客船で世界を回る夢のようなぜいたくな時間であるかもしれない。--ほんとうはそんなふうに紹介した方がいいのだろうけれど、私の「肉体」は海埜のことばの旅をそんなふうに紹介できるほど強くはない。きっと誰かが豪華客船の旅として紹介してくれるに違いない、そのぜいたくさを紹介してくれるはず、と誰かに期待したい。私にできるのは、海埜の音楽は、ふたつのものからできているという指摘だけである。





隣睦
海埜 今日子
思潮社

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