白鳥信也「たわんだ空(世界が滅んだ日に)」ほか(「モーアシビ」20、2010年01月15日発行)
白鳥信也「たわんだ空(世界が滅んだ日に)」の書き出しは魅力的だ。
細い路地にはカレーの匂いがする
アパートの曇りガラスの向こうから水道の音と動く人影
窓のすきまとか換気扇からカレーの匂いが流れてくる
勝手口の前、横倒しになった三輪車のわきで
白黒の猫が前脚を顔の前に上げてペロッとなめる
世界がついさっき17時47分に滅びていたとしても
カレーをつくっている誰かと猫とこの俺は生きている
もしかしたらたちこめるカレーの香辛料が誰かと猫とこの俺を包んで
世界の危機からプロテクトしてくれたのかも
カレーの濃密な匂いがただよ撃ってくる。私を包む。1連目の具体的な描写、たとえば「曇りガラス」「水道の音」ということばがとてもいい。カレーの匂いは嗅覚。曇りガラスは視覚。水道の音は聴覚。猫が前脚をなめる「ペロッ」は触覚。嗅覚からはじまった感覚が次々にめざめていく。そして「世界」をつくる。「俺」の体の中にあるもの(感覚)と、俺の体の外にあるもの(世界)が緊密に結びつき、世界を揺るぎないものにする。
あ、この瞬間、たしかに何が起きようと世界は滅びない。「外」の世界が消えてしまっても、「俺」の体の中に、「世界」は感覚として現存する。--この感じ。それを「カレーの香辛料が」「プロテクト」してくれたからだと感じる。とてもいい。思わずカレーを食べたくなるくらいに気持ちがいい。
けれど。
けれど、私は、この作品は、それ以後の行がまったく気に入らない。3連目に「カレーの匂いは薄まってきていて」という行が出てくるが、その行があらわれる前から、もうカレーの匂いはしていない。
せっかくのカレーの匂いが「体の中」から消えている。白鳥は「世界」からカレーの匂いが消えている(薄まっている)というふうに書いているが、それは白鳥の間違いである。世界からカレーの匂いが薄まったのではなく、白鳥の「肉体」がカレーの匂いを手放してしまったのである。
私が引用した行のあと、白鳥のことばは、カレーの内部、あるいはカレーをつくる(つくっている)誰かの室内へとは入っていかず、「角をまが」り、「路地」を捨てて、「世界」へ出て行く。
方向が逆なのである。
カレーの匂いがプロテクトしてくれたのなら、そのカレーの匂いの内部へ入っていかないかぎり「世界」は濃密にならないだろう。
カレーの匂いはもう飛んでしまったようだし
だからといって何も起きていない
何も起きていないことこそ何か起きたことの明確な証左なのだ
と断言したい気持ちになる
空を見上げてみる
裏のマンションと住宅のそそりたつあいだに電線が6本はしっていて
空がそのうしろにたわんだまま
何だかひっかかっているように見える
「何も起きていないことこそ何か起きたことの明確な証左」だなんて……。このことばには、どんな「感覚」も残っていない。灰色の「脳髄」のことばだ。もし、「空がそのうしろにたわんだまま/何だかひっかかっているように見える」としたら、それは「感覚」を放棄したからである。「肉体」を放棄し、「頭」にたよってことばを動かしたからである。
私は、こういうことばは、嫌いである。
*
プリリングル「チャイティラテトールマグイートイン」にも、おもしろいことばがあった。
恥ずかしいから声にださず、ひっそりと文字にたくしているのだろうか。読まれてはずかしいなら書かなければいいか。そうなのか。どうなのだ。などとそんなせこせこした事を思いながら、キーボードを打っていると、わたしのせこせこといやしい心がこの文字にもとけだして、卑屈なにおいとしけた手触りを画面に映し出していくようだ。
いいなあ、この部分。この、ことば。
「ことば」に託すのではなく、「文字」に託す。「ことば」には「話しことば」と「書きことば」がある。話しことばは「音」になる。「書きことば」は「文字」になる。その「文字」が「文字」であることを超越して(?)、「卑屈なにおい」「しけた手触り」になる。
この暴走。ことばの暴走。
書いているうちに、「私」の「肉体」(私の感じていること、感覚--と言い換えた方がわかりやすいのかな?)が、拡大・膨張し、「私」ではなくなってしまう。
そして、この暴走が、実は、とても「日常的」な描写からはじまるのである。「恥ずかしいから……」4連目。1連目と、次のようになっている。
呪文をとなえてチャイナラテを頼み席に着く。わたしを取り囲むように絶え間なくしゃべり続けるおばさんの声。もっと絶え間なく女子高生の声。入り口布巾に陣取る女子大生の声。数カ国語入り乱れる外国人の声。会社員の声。こどもの声。おとなの声。おんなの声。おとこ声。老いた声。若い声。声。声。声。
ことばは最初「話しことば」(音)だったのだが、それが「話しことば」から「書きことば」にかわって、そこから暴走がはじまる。(2連目に「叫ぶ」ということばが出てくるが、その「さけび」は3連目ですぐに「そんな自分を思い浮かべたものの」、声にはださず、「画面を見られないようにこそこそとこれを書いている」と書きことばにかわる。スターバックス(?)かどこかでのありふれた周囲の描写から、書くということを通じて、プリリングルのことばがかわってしまい、暴走をはじめる。
これは、もしかすると、何かとても重要なことかもしれない。ぺちゃくちゃと話しているときもことばはときに暴走してとんでもないことをいってしまうが、それはあくまで「内容」のこと。「暴言」とよばれるもの。そこにも「卑屈なにおい」や「しけた手触り」はあるかもしれないが、それはある意味で、その「場」が求めているものの反映である。書きことばは、「場」をもっていない。共有していない。共有されていない「場」から暴走して、「場」をひとりで拡大し、そこのなかに誰かが紛れ込んでくるのを待つしかない存在である。
だからこそ、暴走する。そうなのか? どうなのだ?
プリングルのマネをして、思わずそんなことを書いてしまうが、この詩も、白鳥の作品と同じように、その後、失速する。ふいに、散漫な「話しことば」(書かれているんだけれど、それは、きっとキーボードで打ち込まれず、モニターに反映されなかった、「思い」のなかだけのことば)があらわれる。その部分が、とてもとても、とてもおもしろくない。
けれども、まだプリングルの作品の方が「救い」がある。
書きことばがときどき復活してきて、「音」が「文字」にかわり、それが暴走する。そういう部分がある。
したい、したいと言いながら、あれもこれもといろんなものをためこんだまま腐敗して、したい、したいとさまよううちに、死体になってしまったのだと思う。
この「死体」がもう一度、嗅覚や触覚にかわって、濃密になってくれればいいのになあ。
でも、それも一部だけ。
とはいいながら、その一部がやっぱり好きなので、その部分を紹介しておく。
たくさんのものを身にまとい思い体をひきずり歩くわたしの後ろには、ひきずった身体の筋が残る。その道はわたしの道で、ひきずってついた筋は、誰かのやっぱりひきずった筋と、時に交差したり寄り添ったり重なってはまた離れていったりする。わたしは、道いっぱいに横たわる、たくさんの筋のにおいを嗅いだり指でなぞったりしては、安心したり心細くなったり、腹をたてたり涙を流す。
この「ぐにゃぐゃ」したことば--それが「嗅ぐ」とか「なぞる」とか、「嗅覚」「触覚」のことばのなかでふくらむ瞬間--いいでしょ?
「書く」という行為のなかでしか起きない暴走。
それをもっと大切にしてもらえたら、と、私は願っている。