詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高貝弘也「かたかげ」

2010-01-20 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
高貝弘也「かたかげ」(「現代詩手帖」2010年01月号)

 私はときどき「文字」が読めなくなる。カタカナ難読症については何度か書いたが、それとは違った「難読症」がある。そこに書かれている文字は文字としてわかるのだけれど、それが違った文字に見えてしまうのだ。違った音が聞こえてくる。いや、これは正確ではない。「音」そのものは同じだが、その「音」が別なものに聞こえる。私はカタカナ難読症と同じ程度に(それ以上かもしれないが)、音痴である。音痴の私がこんなことを書くと変かもしれないが、同じ「音」が別の「音楽」に聞こえてしまう。その瞬間、あ、文字が読めなくなった--と感じる。文字ははっきり認識できるけれど、その認識を裏切って、「肉体」が別の「音楽」を聞こうとしている--そんなふうに感じることがある。
 18日、19日に読んだ目黒裕佳子、谷川俊太郎の作品でもそういうことが起きたが、高貝弘也「かたかげ」でも、そういうことが起きる。

行方しれぬ子が露地で。浅く たち●(こ)める雨。
あなたを愛撫している。


腹白い魚が、露地うらで鳴いている。--きゅ、きゅ
体育座りした子が、何度も裏返すので

濃(こま)やかな、愛撫にふれる。塊(かた)まって、憎しみをさし翳(かざ)す


はしの詰(つめ) 灰墨の縁(よし)
それは、うすいしるし


あの、やさしい言葉の はかなさ。薄っぺらな、
うすっぺらな。けれど死にそうなほどに、真剣な


もう訪れることのない、かたかげ。
うら反っている 死児の魚(うお)


とても やみがたい生きもの
かなしい性の あてどなさよ
             (谷内注・1行目の●は「四」の下に「卓」という漢字)

 何が書いてあるのか。その「意味」(内容)を私は私のことばで言いなおすことができない。要約できない。高貝の書いていることが、私にはわからない。それはこの詩に限らず、どの詩をとってもみても同じである。高貝の詩をわかったことは私には一度もない。
 けれど、不思議にひかれるものがある。
 それは高貝のことばのどこからか響いてくる「音楽」にひかれるということだ。
 高貝の詩を読んでいるとき、私は「文字」を読んでいるが、「肉体」は「文字」を追いかけてはいない。「肉体」は「音楽」を追いかけている。「音楽」にひっぱられて、「意識」をなくし、ぼーっと陶酔している。
 この詩から聞こえてくる「音楽」。それは「死」である。「死にそうな」「死児」と2回「死」という文字がつかわれているが、文字通り「死」という「意味」で私につたわってくるのは「死にそうな」というだけである。そして、その「死」のつかい方は、ちょっとどう説明していいかわからないけれど、私には「音楽」としての「死」には聞こえない。そこには「意味」はあるけれど、「音楽」はない。

 別な書き方をしよう。

 「死」の「音楽」、「音楽」としての「死」は冒頭の「行方しれぬ子」の「しれぬ」のなかにすでに聞こえはじめている。これがもし「知れぬ」と書かれていたら「死」の「音楽」は聞こえてこなかったかもしれない。目が「知」という「文字」を読んで認識(意識、頭?)を固定させてしまう。それが「しれぬ」とひらがなであるために、「頭」をはなれてことばが勝手に動いていく。「頭」で正常に(?)判断するならば、けっして考えてはいけないことを「肉体」が勝手に聞きとってしまう。「行方しれぬ子」は「どこかで死んでいるのだ」と。そして、その「音楽」にあわせて情景が勝手に動きはじめる。ダンスしはじめる。死んだ子供を雨がそっとつつんでいる。「たち●める」の「こめる」という文字のなかにある「四」さえ、「し」→「死」をひきよせるのだ。「あなたを愛撫している」ということばの「している」の「し」さえ、「死」につながる「音楽」として響いてくる。
 その「音楽」が影響して、「腹白い」の「白い」さえ、私は「しろい」と読んでしまう。「はらじろい」という「音」を「死」の音楽が拒絶するのだ。何か、ことばの「意味」「音」とは別の「音楽」が、高貝のことばを動かしている--と私は感じてしまうのだ。
 「憎しみ」「さし翳す」「はし」「縁(よし)」「しるし」「やさしい」「かなしい」。そのことばの、その「音」のなかの「し」がすべて「死」をゆさぶる。「縁」は「よし」というルビがなければ何と読むだろう。「えん」か「えにし」か。「えにし」のなかには「し」があるけれど、音が多くなった分だけ印象が薄れるし、直前の「はし」「よし」という響きあいにもつながらない--だから「よし」というルビを高貝は打ったのだろう。それによって「し」が「死」という「音楽」に自然に変わっていく。
 「真剣」のなかにも「しんけん」と「し」の音があるが、それは漢字が読みが「腹白い」と違って「オン読み」のせいか、「死」へとは「音楽」ではつながらずに、「視覚」をとおして「死」を少しだけ連想させる。「剣」が「死」という漢字を「視覚」として運んでくる。(「けれども死にそうなほどに、真剣な」という部分だけ、私の「肉体」のなかでは「音楽」ではなくなっている。--この部分だけ、大嫌い、聞きたくない、と私の「肉体」は叫んでいる。)

 そして、高貝の書いていることば(文字)の「音」「意味」と「音楽」の乖離は、そのまま現実の「世界」と高貝のとらえる「世界(高貝ワールド)」を静に引き剥がしているようにも感じる。私は「現実」ではなく高貝の音楽が作り上げる「高貝ワールド」という別のもののなかにいると感じる。
 その乖離と関係があるかないか、よくわからないけれど。
 詩を読んでいくと、ところどころ不思議な部分がある。たとえば、「うら」。最初は「露地うらで」とひらがな。「裏返す」は漢字。「うら反っている」は「うら」がひらがなで、「かえす」は「返す」と「反す」と別の漢字で表記される。その一種のちぐはぐさが、「現実世界」と「高貝ワールド」の違いを静に浮かび上がらせる。

 同じ「死」という文字でも「死にそうな」は「視覚」をひっぱるのに対して「死児」は「音楽」として響く--というのは、奇妙なことかもしれない。私だけがそう感じるのか、ほかのひとも同じであるのか、それはわからない。私には、なぜ「死児」は「音楽」なのか……。
 これも奇妙な説明になってしまうが、「死児」ということばは、「死」という抽象的なものではなく、もっと「肉体」に迫ってくるからである。同じ「視覚」に影響するとしても「死にそうな」というも文字と「死児」では違うのだ。「死児」という文字(ことば)を読んだとき、私の「視覚」は「死」という文字を正確にとらえているが、「肉眼」は違う。「肉眼」は「死児の魚」ということばをそのままつかみ取って、白い腹を表に出して、水に浮かんでいる「死んだ魚」を見ている。においを嗅いでいる。聞こえない水の、たゆたい、あるいは澱んで流れない音を聞いている。「死にそうな」では、そういうことは起きない。そこでは「肉眼」は動かない。「肉体」は動かない。反応しない。
 「意味」を超えて、「肉体」をゆさぶるもの--それが「音楽」なのかもしれない。

 また「死児の魚(うお)」という書き方にも、私は影響を受けているかもしれない。
 2連目には「腹白い魚」という表記がある。そこには「うお」というルビはない。「さかな」と読ませるのだろう。ところが「死児の魚」は「さかな」ではなく「うお」。「さかな」と「うお」はどう違うか。
 「さかな」には「さ行」の音があり、「し」を引き出す効果があるのではないか、なぜ「さかな」ではないのか--と考えるとしたら、これはやはり「頭」の影響だろう。「さかな」の「さ」と、「し」は同じ「さ行」ではあるけれど、子音はほんとうは違っている。「さ」は「SA」、「し」はSを縦に引き延ばしたような形で表記される子音+A。「さ行」とは別に「し行」というものが「発音」的にはあるのだ。
 そして、「さかな」は「うら反っている」とは乖離した「音」だが、「うお」なら「うら反っている」と「頭韻」を踏む。自然に「音楽」を感じさせる。
 こういう「音楽」の操作は、後天的におこなえるものではなく(学習でつかみとれるものではなく)、たぶん生まれながらにして身についているものだと思う。なぜ2連目が「腹白い魚」で、あとの方が「死児の魚(うお)」か、ルビを打つなら初出のとき打つべきだ--などと、学校教科書の法則をあてはめて批判しても、え、それはどういうこと?という反応しかかえってこないだろう。高貝は困惑するだけだろう。それくらい「音楽」は高貝にしみついているのだ。

 「死」の「音楽」は最終行の「かなしい性」ということばのなかにも不思議な形で存在する。私の「肉体」は「性」のなかにどうしても「死」を感じてしまう。それが「死」であることを感じながらも、それにひきずられ、それこそ「あてどなく」さまよってしまうのだが。
 そして、その感覚は、たぶん高貝にもあるのだと思う。だからこそ、最終行の1行があるのだと思う。
 でも、まあ、これは別の機会に書けたら書きたいと思う。


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高貝 弘也
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