詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

宇宿一成『固い薔薇』

2010-01-08 00:00:00 | 詩集
宇宿一成『固い薔薇』(土曜美術社、2009年11月20日発行)

 宇宿一成の「正直」は、どこにあるか。皮膚科の医師である宇宿はその職業をとうして接した世界のことを丁寧に書いている。生活に密着してことばを動かしていく、ということを基本にしている。とてもいいことだとは思う。思うけれど、不満もある。職業から逸脱できない。そして、「意味」にしばられる。書かれていることはわかるのだが、同時に、その書かれていることに「感動しろ」と説得されているようで、私のような天の邪鬼には、ちょっと向いていない。

 1篇、少し異質な作品に出会った。その作品が印象に残った。「うしろめたさだけを」という、野球の「クローザー」のことを描いた作品。「クローザー」に触れながら、過去を思い出す作品。

歩く。立ち止まり、蹴っ飛ばす。踏みつける。
振り返って、掘る。つま先の一瞬。
心のカメラが足元ばかりを映す日。
塁上を賑わす走者の足がちらちらと行きつ戻りつして、苛立つ日々の仕事を盗んでゆく

クローざーの剛速球が投じられた
力をこめて踏み出された軸足のとがりに
髪の毛が落ちてゆく昭和
町役場の空き地をグラウンドに
三角ベースを疾走した
ベースを守る友達の踵に
オキナワヲカエセーの合唱が響いて

(沖縄が返って来ましたがどう思いますか)小学校の校長室に呼ばれて
マイクを持ったどこかの背広の大人に尋ねられた
眼を上げることができず
俯いたままこたえた
(オキナワの小学生と一緒に野球したいです)
わからないことの後ろめたさだけを色濃く憶えている

 1連目は、救援投手がマウンドに上がって、マウンドに残っている前の投手の足のあとを消しているシーン。自分の足でマウンドを一心に整えている。その足先--足先をみつめる視線に記憶がよみがえる。
 それが3連目。
 沖縄が日本に返還された。それについてどう思うか。テレビ局(?)が取材に来た。児童を代表して(?)宇宿は答えることになったのだろう。「オキナワの少年と野球がしたいです」。ああ、小学生らしい、理想の感想。たぶん宇宿ならそういう答えをすると期待されていてひとり校長室に呼ばれて質問されたのか、あるいは前もって質問を聞かされていた校長先生に、「こう言うんだよ」と言い含められて、上手にそのとおりに答えたのか。どちらにしろ、それは宇宿のほんとうの気持ちではなかっただろう。沖縄を返還されてどう思うか。そんなこと、小学生にわかるわけがない。わからないのに、そう答えた。その後ろめたさ、そして俯いてみつめていた「つま先」を宇宿は記憶している。
 「気持ち」の記憶とともに、「眼」の記憶。「気持ち」の記憶よりも、私は、この「眼の記憶」にこころを動かされる。「眼の記憶」が1連目の投手の眼の動きとぴったりと重なり、宇宿を宇宿以外の世界へ連れてゆき、同時に宇宿にもどってくる。宇宿が宇宿ではないものになり、そこを経由することでより純粋な(?)宇宿にもどってくる。
 その動きに、私は「正直」を感じる。そして、ほっとする。

 皮膚科の医師として患者と接したときの詩でも、宇宿は自分から出て行って、自分以外のものになり(つまり患者の視線に立ち)、もう一度医師にもどるのだが、そこにはどうしても「意味」というか「倫理」が入り込んで、なんだか堅苦しい。「倫理」というのは「正直」というよりも、「他人」との関係を円滑にするための「学習による知識」の占める位置が大きい--と、私は思う。「倫理」がいけないわけではないし、大切なものだとは理解できるけれど、そういうものが前面に出てくると、私はちょっと身構えてしまう。申し訳ないけれど。
 ただ、そういう詩にも、おもしろいものもあるにはある。
 「キリンの欲求」は金網の外の葉っぱを食べようとするキリンを描くことからはじめている。キリンの舌は、どうしても葉っぱにとどかない。そのキリンを見ながら、宇宿は少女を思い出す。恋人を交通事故で失った難病の少女。絶望のなかで「死んだら彼のところへいけるのね」と宇宿に訴える。宇宿は、どうしたか。

死んだって恋人の許へなど行けないのだと
だからあなたは生きなければと
納得させることはできなかった

 そのあと、ちょっと奇妙な具合に、詩はねじれる。
 「納得させることはできなかった」という行まで、私は少女は「キリン」だとばかり思っていた。金網の外にある葉っぱは「死」。それが手に入れば、少女は恋人と一緒になれると、かなわぬ夢を見ている--と思っていた。そして宇宿は、そういうかなわない夢を見るのではなく、別な生き方(死を願うのではなく、生きるために何をすべきかを求めるという方法)を選ぶべきだと説得しようとしているのだと思っていた。宇宿の説得は実らなかったが、それは少女が生きようとする意思を持たなかったからというより、難病のせいだろう。「納得させることはできなかった」は、効果的な治療をほどこすことができなかったということを控えめに書いているのだと思った。
 ところが、宇宿が少女と重ね合わせているのは「キリン」ではなく、「葉っぱ」なのだ。
 えっ、と思わず声を漏らしてしまう。

キリンが求めている葉っぱが
Kさんの死と重なるのはどうしてだろう

食べさせてあげたいねという声の中に
葉っぱ、がんばって食べられないでね
という幼い子供の声を聴いて
病棟のようなキリン舎を後にする
下ってゆく坂道には私の影が伸びていた

 「食べさせてあげたいね」はキリンの側にたった気持ち、「葉っぱ、がんばって食べられないでね」は葉っぱの側にたった気持ち。少女は何を望んでいた? 「葉っぱを食べたい」(死を手にいれたい)と望んでいたのでは。それを宇宿は、唐突に立場を入れ換える。「葉っぱ、食べられないでね」(葉っぱ、死なないでね)。あ、これは少女というより、宇宿の声ではないか。
 少女の声と宇宿の声が、区別できない形でからみあっている。患者の気持ちと医師の「倫理」がからみあっている。からみあって、どっちがどっちか、判別できない感じで動いている。
 もちろん文法(学校教科書国語文法)にしたがって分析すれば、その「からみあい」はほぐすことができるけれど、そんな分析をすれば「詩」から遠ざかるだけだ。
 キリンに葉っぱを食べさせたい、いや葉っぱの側にたてば食べられないでね、といいたい。世界は簡単には整理できない。矛盾するもので成り立っている。その矛盾とどう向き合い、どう動くか。そのときの「基準」は?

葉っぱ、がんばって食べられないでね
という幼い子供の声を聴いて

 この「幼い子供の声」--そこに、宇宿の「欲望」のようなものを感じる。「正直」への渇望のようなものを感じる。どうやったら「倫理」ではなく「正直」から患者と向き合えるかと苦悩するこころが見える。


光のしっぽ (21世紀詩人叢書・第2期)
宇宿 一成
土曜美術社出版販売

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