詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アンジェイ・ワイダ監督「カティンの森」(★★★)

2010-01-27 14:49:13 | 映画
監督・脚本 アンジェイ・ワイダ 出演 マヤ・オスタシェフスカ、アルトゥル・ジミイェフスキ、マヤ・コモロフスカ

 ポーランド・カティンでのロシア軍によるポーランド将校の虐殺を描いている。
 ドイツ(ナチス)と戦っているポーランドにロシア軍が侵攻してくる。そして、ナチスを装ってポーランド将校、ポーランドの知識人を大量虐殺する。ロシアがポーランドを支配した後、将校や知識人が邪魔になるからである。ただ虐殺したのでは、ロシアの「目論見」が露顕する。だからナチスの犯罪を装うのである。
 映画はこの「事実」をたんたんと描いている。この「たんたん」という感じが、じわりじわりと胸に迫ってくる。
 だれもが死にたくはない。そして自由でもいたい。そのせめぎ合いのなかで、あるひとはロシア側にとりこまれてしまう。別のひとは、新しい敵・ロシア軍と対立する。けっして、なびかない。そこから、また悲劇がはじまる。
 アンジェイ・ワイダは、ロシア軍になびいたひとを一方的には批判しない。彼らは彼らなりに苦悩して、「生きる」(生き残る)ということを選んだのである。一方的に非難するかわりに、その苦悩を愛するひととの対立、たとえば姉妹の対立、たとえば親しい友人との対立という個人、一対一の関係のなかで浮き彫りにする。
 あ、ひとの苦悩とは、いつでも一対一なのだ--と、わかる。
 「国家」というものがある。「体制」というものがある。そのなかで人間は苦悩するのだけれど、それは「国家(体制)対ひとり(個人)」という形で浮かび上がるものではなく、いつでも個人と個人、一対一という関係のなかで深まっていくのだ。
 それは同じひとを心配する苦悩の場合でも同じである。
 この映画の「事実」をしっかり伝える手帳の持ち主。将校には母がいて、妻がいて、娘がいる。その将校を心配するとき、母と妻が、思わず対立してしまう。「大切な息子をどうしてあなた(妻)は守れなかったのか」「あなた(母)にとって大切なひとであると同じように、私(妻)にとっても大切なひとなのに、なぜ、あなたは私を責めるのか」。
 あ、すごいなあ。
 悲しみを、そこまで掘り下げてしまうのだ。母と妻が、力をあわせて(というのは、変な表現だけれど)、一緒に息子(夫)を思うだけではなく、思わず「私にとっての大切なひと」という次元でぶつかりあってしまう。
 そういうことをしっかりと描いている。
 だからこそ、どうしようもなくてロシア軍側になびいてしまったひとの苦悩も、手触りのある悲しみとして迫ってくる。

 それにしても……。

 ある「事実」が「事実」として、明確に「ことば(アンジェイ・ワイダにとっては映画が、ことばだ)」になるまでには、長い時間がかかる。悲しみや苦悩がことばになるには時間がかかる。そこで起きたことが衝撃的であればあるほど、時間がかかる。そのことを伝えることばを、ひとは、何も知らないからである。どう伝えるべきなのか、知らないからである。
 「誰がため」にしろ、「カティンの森」にしろ、ドイツとロシアに挟まれ、「自分の国」を守ろうとしたひとの「声」、ひとりひとりの「声」は、ようやく「ことば」になりはじめたのかもしれない。
 日本は、どうなのだろう。
 私にはよくわからないが、ひとりひとりの「声」をていねいに記録しているひとはどこにいるのだろう。自分の国のことなのに、何も知らない。そのことに気づかされる映画だった。


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誰も書かなかった西脇順三郎(93)

2010-01-27 09:24:44 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 2009年09月20日(日曜日)から中断していたが、また書きつづけてみようと思う。(09月20日、網膜剥離で入院し、24日に手術をした。中断は、このため。)
 私は書いたものを読み返さないので、いままで書いてきたことと違ったことを書くかもしれない。



 「かなしみ」。

花崗岩に
春が来た

 この書き出しの不思議さ。次にどんな行が来るか、想像がつかない。1行目から「意味の予定調和」が破られている。「無意味」が噴出してきている。
 そして、ここには「音楽」がある。私が「音楽」と感じるものがある。(私は音痴なので、クラシックだとか、ジャズだとか、Jポップというような「意味・定義」とは違ったことがらを指して「音楽」ということばをつかっている。いわゆる音楽というものは、私の耳には縁遠い。)
 「花崗岩」(かこうがん)という音が、私の耳には強烈に響く。それは「岩」というか「石」の種類であり、その石を私は見たことがあるし、そんなにかわった石ではないことを知っている。知っているけれど、この文字を読んで(音を聞いて)、私が石を思い浮かべるわけではない。そして、私は、括弧に入れる形で(音を聞いて)と書いたが--実際に意識のなかで「音」を聞いているのだが、それは実際に誰かの声をとおして聞いたときとは違ったふうに動く音なのだ。
 「花崗岩に/春が来た」。このことばを、たとえば誰か、いや西脇でいいのだか、西脇が実際に私に向かって話しているときに、そのことばを言ったとしたのだとしたら、つまり私が実際に耳で聞いたとしたら、驚く変わりに、私は「ばかじゃない?」と思ってしまうだろう。
 ところが、本に印刷された文字、そのことばを読み、私の「肉体」がその音を聞くとき、それは「ばかじゃない?」という印象とはまったく違った感じを引き起こす。聞いたことがない「音楽」として聞こえてくる。そして、その「音楽」に引き込まれてしまう。
 「意味」がわからない。「花崗岩に/春が来た」の「意味」が、文字を読んでいるとわからない。「意味」がわからないのに、そのことばが動いていくことだけがはっきりわかる。実感できる。いままで、私が読んできたことばとはまったく違うところへ動いていくということが、わかる。わかるというより、わかるもなにもないまま、強烈にひっぱられていくのだ。
 このとき、私をひっぱっていくのが「音楽」。ただの「音」。「花崗岩」という「音」なのだ。「か行」の美しい響き。そして、これはどう説明すればいいのかわからないが、その「か」は「春が来た」の「は」が、私には「和音」のように聞こえる。とても響きあうのだ。響きあって、そこにはない「音」が聞こえるのだ。「か」でも「は」でもない、何か別な音が。

 「かなしみ」の「定義」は、ひとそれぞれだろうけれど、こういう不思議な「音楽」を聞いてしまうと、あ、この「音楽」が「かなしみ」か、と私は思ってしまう。
 そこにある、不思議な「出会い」。
 あとは、その「出会い」がくりかえされる。変奏される。増幅される。

あの名もないさし絵かきの偉大さ
ヘカネーション、ミモーザ、
フリージヤ、すみれをささげる

 私は「もの」を思い浮かべない。いや、「もの」を思い浮かべようとする想像力が「音」にひっぱられて、違うことを感じてしまう。「ミモーザ」と「肉体」が「声」を出している。音を確かめている。(私は音読をしないが、文字を読む目が、いつのまにか目ではなく、発声器官にすりかわって、「声」を出している。)
 「あの名もないさし絵かき」と「すみれをささげる」という音の間にあるカタカナの音。カタカナの音をサンドイッチにしてしまう、ひらがなの音。その音そのものが、「意味・内容」を突き破って、どこまでも自在に動いていく。
 この自在さは、あえて「意味」にしてしまえば、

人間と鱸(すずき)が話をしている
キツネとコウヅルが立ち話をしている

 という「イソップ物語」の「世界」と関係するのかもしれないけれど、ああ、そのイソップ物語がなぜか外国の音ではなく、日本語の音として新しく響いてくる。

蜂、蝗、蟻、水がめ
風、太陽、葡萄、まむし
樫の古木、溺れようとする子供

 私は、そこに書かれていることばが指し示す「もの」が見えなくなる。私の目は、その文字を追う。そして、そのとき私の「肉耳」は、そこに書かれていることばの「音楽」に酔ってしまう。「意味・内容」が消えてしまって、ただ、そこに書かれている「ことば」が「ことば」そのものとして遊んでいる--そういう感じに襲われる。

 あえて言ってしまえば、「感情(私のこころ?)」を裏切って、ただ「ことば」が「ことば」として、そこで自由に動いている。--感情(こころ?)が、ことばから見放されている。けれど、その見放され方は、なんというのだろう、「さっぱり」としいてる。あ、この「さっぱり」した感じが「かなしみ」? そんなふうに感じてしまうのだ。





西脇順三郎詩集 (岩波文庫)
西脇 順三郎
岩波書店

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進一男『小さな私の上の小さな星たち』

2010-01-27 00:30:32 | 詩集
進一男『小さな私の上の小さな星たち』(本多企画、2010年01月10日発行)

 「過去」というものは不思議である。「過去」は、なぜ、「いま」(現在)という時間のなかに噴出してくるのか。
 進一男『小さな私の上の小さな星たち』には、進の年齢も関係しているのか、「過去」がふいに噴出してくる作品が多い。「脳の中に」の全行。

私の脳は小さな記憶で詰まっている
ある旅の屋敷町で足元に落ちてきた白木蓮
小学時代の同学年で可愛かった人
出会って そして別れた多くの人々の顔
どういうわけで脳が蓄えているのか
と思われるいろいろ

 短い詩だが、2行目が読む人によって、解釈(?)がわかれるかもしれない。「ある旅の屋敷町で足元に落ちてきた白木蓮」。これは、現在? それとも過去? いま進は旅の途中、屋敷町にいて、落ちてきた白木蓮を見て、ふとその花から小学時代のことを思い出したのか。それともいまは別の場所にいて、ふいにかつて旅したとき、屋敷町で足元に落ちてきた白木蓮--それを思い出したのか。
 私は、後者の方で読む。
 進は、いま、白木蓮を見ていない。白木蓮を見ていないけれど、それがふいによみがえってきた。
 それはイメージとして? 白い大きな花びら。たおやかな、なまめかしい肌の感じをもった花びらとして?
 私は、なぜかはわからないけれど、イメージではなく、ことばそのものとしてあらわれたような気がするのだ。もっと厳密に言うと「書きことば」として、「文字」として「過去」から噴出してきたような気がするのである。そして、このとき「過去」というのは「時間」ではなく、1行目に書いてある「脳」である。--ほんとうに理由などないのだが、ただただ「白木蓮」という「文字」が強烈に私を揺さぶる。
 その揺さぶりは、もう、進の思い(書き手の思い)とは関係がない。

 「白木蓮」という「文字」(書きことば)がふいにどこからかあらわれて、動いていこうとしている。それはこの詩では「小学時代の同学年で可愛かった人」という、なんとういか、センチメンタルなものだが--ああ、違う、と私のなかの「ことばの肉体」は叫んでしまう。
 6行の詩のなかで「白木蓮」という「文字」(書きことば)だけが異様に光っている。生々しい力で迫ってくる。その生々しさは、「小学時代の同学年で可愛かった人」なんかでは、エネルギーを受け止めることはできない。「小学時代の同学年で可愛かった人」では「予定調和」になってしまう。
 詩にならないのだ。
 ことばが「自由」にならない。
 --さっき書いたばかりの藤井貞和「山の歌」のつづきというおうか、岡井隆の『注解する者』のつづきといおうか、--その意識のつながりで言うと、「小学時代の同学年で可愛かった人」では「不自由」を感じてしまう。
 「現代詩」ではなく、これでは古くさい「詩」である。すでにできあがった詩である、と感じてしまうのだ。

 「現代詩」と「詩」をわけるものは、たぶん、このあたりにある。ことばが「自由」であるか、それとも「予定調和」の「意味」に失墜するか。進が書いていることは、とても静に読者のこころに届くだろう。でも、私は、その静けさは「固定された過去」の静けさだと思うのだ。
 そして同時に、あ、もっと違った形で「白木蓮」を救ってやることはできないだろうか、とも感じてしまう。
 こういう瞬間です、私が、作品を批判したくなるのは。

 この作品に比較すると、「片隅から」には「固定された過去」がない。ことばは「固定された過去」から解放されている。

片隅から私を呼ぶような気がした
(そんなことなど有り得ないのだが)
その方角に歩いて行くと
木陰にセントポーリアが一鉢
青々と茂っていたのである
(私はすっかり忘れていたのだ)

 「白木蓮」のように、ここでは「セイントポーリア」が美しい。「書きことば」として美しいし、その「音」も美しい。それは「植物」のセイントポーリアを通り越して、「名前」として浮かび上がってくる。「セイントポーリア」という名前で「呼びたい」なにか、として浮かび上がってくる。
 そのあとで「青々と茂っている」という状態が、また「ことば」として動く。
 このときの、こころの(?)、脳の(?)動き。進は「私はすっかり忘れていたのだ」と書いているが、ここに書かれている「忘れていた」が「過去」からの解放である。進が忘れていたのは、片隅にセイントポーリアを置いたこと--なのかもしれないが、私には、その存在を「セイントポーリア」と呼ぶということばの運動そのものを忘れていたように感じられるのだ。
 何かに名前をつける--このことばの動き。その力そのものが、いま、この瞬間に「過去」から「生まれ変わって」よみがえっている。そういう印象がある。
 だから、私はこの作品が好き。
 読んだときの強烈さでは「白木蓮」の方が、作品全体になじんでいない(あるいは「意味」になじみすぎている、というべきなのか)のに対して、「セイントポーリア」はことばの動きとしてとても自然だ。センチメンタル(意味)にしばられていない。
 別な言い方をすると……。
 「白木蓮」はたぶん「赤い椿」ではだめ。「ひまわり」でもだめ。それは「小学時代の同学年で可愛かった人」とはイメージがあわない。ことばが衝突してしまう。「意味」にならない。ところが、「セイントポーリア」はもっと別の何か、カタカナの音が交錯するものなら詩としてなじむのである。「意味」をもたないまま、つまり「無意味」として存在することができるのだ。

 あ、詩とは(あるいは現代詩とは)、ことばが「意味」ではなく、「無意味」として存在する瞬間のことなのだ。「意味」は「過去」をもっている。「無意味」は「過去」をもっていない。「無意味」は何にも束縛されないからこそ「無・意味」なのである。





進一男詩集 (日本現代詩文庫 (94))
進 一男
土曜美術社出版販売

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藤井貞和「山の歌」(つづき、その2)

2010-01-27 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
藤井貞和「山の歌」(つづき、その2)(「現代詩手帖」2010年01月号)

 ほんとうは、もう書くことなどないのかもしれないけれど、藤井貞和の詩について書いているうちに、思いついたことがある。これから書くことは、藤井貞和「山の歌」への感想と言うよりも、ことばそのものへの感想、文学全体への感想(?)になるかもしれない。

 藤井貞和「山の歌」には、たまたま学校文法でいう倒置法がつかわれていて、そのことから「過去」が「いま」にひっぱりだされ、それが「いま」を攪拌しながら、「予定調和」ではない「未来」へ突き進んでいくことばの運動というものが見えてきたけれど、これはあらゆる作品についていえることなのではないか。ことばの運動と言うのは、もともとそれ以外にはありえないのではないか--という気がしてくるのである。
 たとえば、私が50年に1冊の大傑作と思っている岡井隆の『注解する者』。その詩集は、ある作品に「注解」するという基本的な構造をもっている。「注解」というのは、目の前にある作品に対して、何かを言うことである。作品が先にあって、そのあとに「注解」が来る。時系列から言うと作品が「過去」、注解が「いま」、というか作品の後。作品が存在しないことには、注解は存在し得ない。
 そうではあるのだけれど、注解がはじまると、変なことが起きる。
 それは「作品(A)」の注解に、その「作品に先行する別作品(B)」が引用されるということだけではない。Aに対してBの影響云々、ということではない。Aを語るのに、それより「過去」のBがひっぱりだされるということではない。
 変なこと--と私が言うのは、「注解する者」、そのひとの「内部」の問題である。「注解する者」(面倒なので、岡井、と以後書いてみよう)の「過去」がひっぱりだされるのである。「注解する」とき、岡井の「過去」が「いま」にひっぱりだされる。簡単に言えば岡井が「過去」に何を読んできたか、どんな日本語を読んできたかという「事実」がひっぱりだされる。作品Aそのものの「過去」というより、岡井の「過去」、岡井の日本語がひっぱりだされる。
 そして、それは、たとえひっぱりだされた「岡井の過去」が、作品Aよりも前の作品(時代的に古い作品)であっても、岡井自身のなかでは、作品Aよりも前であるとは限らない。作品Aを20代のとき読み、30代のときに読んだ作品Bを利用して、60代(70代?)の「いま」、作品A注解する--そのときの時系列というのは、なんだかとてもややこしい。整理しようとすると面倒くさい。もう、それは、「注解しようとするいま」から見て「過去」のところから何かをひっぱりだすとしか言えないのである。いちいち整理してもはじまらないのである。
 --それは「注解する」というスタイルをというか、見せかけ(?)の形をとっているが、実は、岡井の「過去」の解放なのである。
 「過去」というのは、いわば「固定」されている。「歴史」の法則から言えば、「過去」が変われば「いま」は「いま」とは違った状態である。タイムマシーンで「過去」へ行ったとしても、そこで起きる「事実」を変えてはならない。そんなことをしてしまえば「いま」は違ったものになってしまう。「私」が存在せず、その結果、タイムマシーンで「過去」へやってくるということもできないというパラドックスが起きてしまう。「過去」は「固定」されているだけではなく、「固定しておかなければならない」ものなのである。
 が。
 詩は、そういう「過去」を解き放つのである。ことばを「固定」する何かを破壊し、「いま」のことばの根拠を吹き飛ばしてしまう。「いま」のことばが、どんなふうになってもかまわない、という運動なのである。

 そして。

 なんだか、論理的に(?)書いていくためにどうしていいかわからないので、飛躍してしまうが、そういう「過去」を解放するとき、そのことばを動かしているのは、ことば自身のエネルギーなのである。ことばは「意味」として「固定」される前に、何か、別なものをもっている。何かを名付け、名付けることで動いていこうとするエネルギーをもっている。「意味」が先にあるのではなく、また「意味」が「予定調和」として想定されているのではなく、わからないけれど動いていく。動いていく過程で、「意味」はできあがることもあれば、わけがわからないまま失速し、消えてしまうこともある。
 そういうことが、ことばとことばが出会うとき、起きてしまう。
 ことばに何が語れるか、だれにもわからない。ことばは、作者(話者)のいいなりになって動くものではない。ことばはことば自身で動いてしまう。

 「注解する」という行為は、ことばにこことばを出会わせることで、「過去」という「固定」された何かを解放することである。それも作品Aを解放するというよりも、岡井自身の「過去」(岡井の「日本語の過去」)を解放することである。それは岡井自身を「過去」のことばから解放することでもあるかもしれない。詩集のタイトルが『注解する者』と詩人自身を指しているのは、そういうことがあるからかもしれない。(--というのは、もちろん、ことばが勝手に動いて行ってたどりついたことだから、この先、いま書いていることがどんなふうにかわるか、私にもわからない。)

 岡井の作品にもどるべきか。

 『注解する者』にはさまざまなことばの「過去」が登場した。「文献」としての「過去」。岡井の「日常の過去」(卑近なことを言えば、「注解」する前に、岡井が何をしたか、家族とどんな会話をしたか、テレビ局の人とどんな打ち合わせをしたか、というような過去)。そして、質問者の「過去」(その人が、何を読み、その結果としてその質問をするにいたったか、ということ)。複数の「過去」がぶつかりあう。それも「ことば」としてぶつかりあう。ぶつかるたびに、そのことばの地平が浮き上がる。それがくりかえされることで「ことばの地層」ができる。その「地層」は、どんな地球の地層よりも複雑で美しい。地球の地層は過去→現在と直線上に積み重なるが、ことばの地層はそういう順序とは無関係に入り乱れ、なおかつ地層であるからだ。
 それは、まるで、「ことばの地層」がより美しい「地層」をめざして、自分自身を組み換えているようにさえ見える。岡井は、その「地層の組み換え」に立ち会っているだけ、という気がする。地層を組み換えるのはあくまでことば自身。岡井は、その立会人。
 それじゃあ、岡井の存在意味がない?
 あ、そうじゃないんですねえ。岡井でなければ立ち会えない。というか、そういうことば自身の地層の組み替えを識別し、見えるように定着させるには岡井のことばの強靱な「肉眼」が必要なのだ。岡井の強靱な「ことばの肉体」だけが、自在に動き回ることばをつかみとることができたのだ。
 と、--これは、岡井の『注解する者』に対する、いままでの感想の補足。

 ふたたび藤井の作品にもどれば。
 藤井の「ことばの肉体」がしていることも、ことばの「過去」の呪縛を切り捨てることである。「過去」を分断し、「いま」にひっぱりだし、そこからことばがどんなふうに「自由」に何かを語りうるか。
 これは「現代詩」の詩人がこころみていることのすべてであるといえるかもしれない。そういうことをしていない詩人は「現代詩」ではなく、また別なものを書いていることになるのだと思う。
 「現代詩」は難解であると言われるけれど、これはあたりまえ。「難解」というのは「意味」が理解できない、つか見とれない、ということだろうけれど、「現代詩」に「意味」はないのである。「意味」は「予定調和」として想定されているわけではない。だれも、その「予定調和」のあり方を知らない。書く度に、それはかわっていく。ことばがかってに「意味」をかえていく。そして、それは読む度にもかわっていく。ことばはかってに動いて「意味」をこばみつづける。
 
 詩のなかにあるのは、「意味」ではなく、かってに動く「ことばの肉体」だけである。それはあくまで「ことばの肉体」であるから、作者(話者)、そして読者が動かせるものではない。作者や読者は、ただ「ことばの肉体」の動きについていけるよう自分自身の「肉体」を柔軟にするしかないのである。

 きっと、きっと、どこかに、ことばがことば自身で自由に動き回り、誕生し、また死んでいく「場」がある。その「場」と詩人は切り結びたいのだ。その「場」に立ち会って、死に、そしてもう一度、いや何度でも生まれ変わりたいのだ。
 --そういう「欲望」を感じさせてくれる詩が私は好きだ。



注解する者―岡井隆詩集
岡井 隆
思潮社

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