監督・脚本 アンジェイ・ワイダ 出演 マヤ・オスタシェフスカ、アルトゥル・ジミイェフスキ、マヤ・コモロフスカ
ポーランド・カティンでのロシア軍によるポーランド将校の虐殺を描いている。
ドイツ(ナチス)と戦っているポーランドにロシア軍が侵攻してくる。そして、ナチスを装ってポーランド将校、ポーランドの知識人を大量虐殺する。ロシアがポーランドを支配した後、将校や知識人が邪魔になるからである。ただ虐殺したのでは、ロシアの「目論見」が露顕する。だからナチスの犯罪を装うのである。
映画はこの「事実」をたんたんと描いている。この「たんたん」という感じが、じわりじわりと胸に迫ってくる。
だれもが死にたくはない。そして自由でもいたい。そのせめぎ合いのなかで、あるひとはロシア側にとりこまれてしまう。別のひとは、新しい敵・ロシア軍と対立する。けっして、なびかない。そこから、また悲劇がはじまる。
アンジェイ・ワイダは、ロシア軍になびいたひとを一方的には批判しない。彼らは彼らなりに苦悩して、「生きる」(生き残る)ということを選んだのである。一方的に非難するかわりに、その苦悩を愛するひととの対立、たとえば姉妹の対立、たとえば親しい友人との対立という個人、一対一の関係のなかで浮き彫りにする。
あ、ひとの苦悩とは、いつでも一対一なのだ--と、わかる。
「国家」というものがある。「体制」というものがある。そのなかで人間は苦悩するのだけれど、それは「国家(体制)対ひとり(個人)」という形で浮かび上がるものではなく、いつでも個人と個人、一対一という関係のなかで深まっていくのだ。
それは同じひとを心配する苦悩の場合でも同じである。
この映画の「事実」をしっかり伝える手帳の持ち主。将校には母がいて、妻がいて、娘がいる。その将校を心配するとき、母と妻が、思わず対立してしまう。「大切な息子をどうしてあなた(妻)は守れなかったのか」「あなた(母)にとって大切なひとであると同じように、私(妻)にとっても大切なひとなのに、なぜ、あなたは私を責めるのか」。
あ、すごいなあ。
悲しみを、そこまで掘り下げてしまうのだ。母と妻が、力をあわせて(というのは、変な表現だけれど)、一緒に息子(夫)を思うだけではなく、思わず「私にとっての大切なひと」という次元でぶつかりあってしまう。
そういうことをしっかりと描いている。
だからこそ、どうしようもなくてロシア軍側になびいてしまったひとの苦悩も、手触りのある悲しみとして迫ってくる。
それにしても……。
ある「事実」が「事実」として、明確に「ことば(アンジェイ・ワイダにとっては映画が、ことばだ)」になるまでには、長い時間がかかる。悲しみや苦悩がことばになるには時間がかかる。そこで起きたことが衝撃的であればあるほど、時間がかかる。そのことを伝えることばを、ひとは、何も知らないからである。どう伝えるべきなのか、知らないからである。
「誰がため」にしろ、「カティンの森」にしろ、ドイツとロシアに挟まれ、「自分の国」を守ろうとしたひとの「声」、ひとりひとりの「声」は、ようやく「ことば」になりはじめたのかもしれない。
日本は、どうなのだろう。
私にはよくわからないが、ひとりひとりの「声」をていねいに記録しているひとはどこにいるのだろう。自分の国のことなのに、何も知らない。そのことに気づかされる映画だった。
ポーランド・カティンでのロシア軍によるポーランド将校の虐殺を描いている。
ドイツ(ナチス)と戦っているポーランドにロシア軍が侵攻してくる。そして、ナチスを装ってポーランド将校、ポーランドの知識人を大量虐殺する。ロシアがポーランドを支配した後、将校や知識人が邪魔になるからである。ただ虐殺したのでは、ロシアの「目論見」が露顕する。だからナチスの犯罪を装うのである。
映画はこの「事実」をたんたんと描いている。この「たんたん」という感じが、じわりじわりと胸に迫ってくる。
だれもが死にたくはない。そして自由でもいたい。そのせめぎ合いのなかで、あるひとはロシア側にとりこまれてしまう。別のひとは、新しい敵・ロシア軍と対立する。けっして、なびかない。そこから、また悲劇がはじまる。
アンジェイ・ワイダは、ロシア軍になびいたひとを一方的には批判しない。彼らは彼らなりに苦悩して、「生きる」(生き残る)ということを選んだのである。一方的に非難するかわりに、その苦悩を愛するひととの対立、たとえば姉妹の対立、たとえば親しい友人との対立という個人、一対一の関係のなかで浮き彫りにする。
あ、ひとの苦悩とは、いつでも一対一なのだ--と、わかる。
「国家」というものがある。「体制」というものがある。そのなかで人間は苦悩するのだけれど、それは「国家(体制)対ひとり(個人)」という形で浮かび上がるものではなく、いつでも個人と個人、一対一という関係のなかで深まっていくのだ。
それは同じひとを心配する苦悩の場合でも同じである。
この映画の「事実」をしっかり伝える手帳の持ち主。将校には母がいて、妻がいて、娘がいる。その将校を心配するとき、母と妻が、思わず対立してしまう。「大切な息子をどうしてあなた(妻)は守れなかったのか」「あなた(母)にとって大切なひとであると同じように、私(妻)にとっても大切なひとなのに、なぜ、あなたは私を責めるのか」。
あ、すごいなあ。
悲しみを、そこまで掘り下げてしまうのだ。母と妻が、力をあわせて(というのは、変な表現だけれど)、一緒に息子(夫)を思うだけではなく、思わず「私にとっての大切なひと」という次元でぶつかりあってしまう。
そういうことをしっかりと描いている。
だからこそ、どうしようもなくてロシア軍側になびいてしまったひとの苦悩も、手触りのある悲しみとして迫ってくる。
それにしても……。
ある「事実」が「事実」として、明確に「ことば(アンジェイ・ワイダにとっては映画が、ことばだ)」になるまでには、長い時間がかかる。悲しみや苦悩がことばになるには時間がかかる。そこで起きたことが衝撃的であればあるほど、時間がかかる。そのことを伝えることばを、ひとは、何も知らないからである。どう伝えるべきなのか、知らないからである。
「誰がため」にしろ、「カティンの森」にしろ、ドイツとロシアに挟まれ、「自分の国」を守ろうとしたひとの「声」、ひとりひとりの「声」は、ようやく「ことば」になりはじめたのかもしれない。
日本は、どうなのだろう。
私にはよくわからないが、ひとりひとりの「声」をていねいに記録しているひとはどこにいるのだろう。自分の国のことなのに、何も知らない。そのことに気づかされる映画だった。