詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

吉野恵『雫』

2010-01-22 00:00:00 | 詩集
吉野恵『雫』(弘前詩塾叢書3、2009年12月15日発行)

 吉野恵『雫』の「素直」にはとても美しい行がある。

人は、脆いのだ

感情を抱くとき
人は古都の甘い砂糖菓子みたいに
水分を吸いこみ角からぼろぼろ零れ
感情はざらざらねっとりした感覚で
頭の裏側を舐め
残って消えない痕になる

 「感情」「頭」という概念のことばがあるが、それを概念からすくいだす「肉体感覚」、「肉体」がつかんできた「比喩」がある。「砂糖菓子」の変化を、ていねいにたどっていくことばが、そのていねいな動きだけが持つ美しさに輝いている。「裏側」「舐め(る)」「消えない」「……になる」とゆっくり動いていく動きがいい。「ぼろぼろ」「ざらざら」「ねっとり」は、ことばの速度をしっかり落ち着かせている。
 「甘い砂糖菓子」の「甘い」はわかりきったことで(苦い砂糖菓子、辛い砂糖菓子というものはないことはないかもしれないが、特別なものだ)、ふつうは「不要」なことばかもしれない。けれど、それは単に「砂糖」を修飾するだけではなく、全体をつつみこむ「味」なのである。

不謹慎なくらい野放しの心
それを嫉妬だと認めたくない
嫉妬のつけた痕こそが生きてきた証
傷とも誇りとも言えるその醜さが
自分の居場所であると誰かに指さされたい
誰にも知られたくない焦げついた部分を
本当は指さされたい

 知られたくないけれど、知られたい。この「矛盾」。そして、この「矛盾」をつつみこむのが「甘い」味なのだ。甘くて、ねっとりと、「肉体」全部をつつみこんでしまう。知られたくないけれど、知られたい、という矛盾そのものが「甘い」味がするのだ。
 その「甘い」味のなかで、「私」は甘えたい。つまり、許されたい。「私」がいるということを受け止めてもらいたい。

 きのう読んだ城戸朱理の詩には、次の行があった。

言葉は粒子のように波立ち
人間はその海のなかで
          “収縮”したり
“弛緩”したりする

 「収縮」と「弛緩」は厳密には「矛盾」ではないが、いわば逆向きの動きとして書かれているだが、城戸のことばは「肉体」ではなく「頭」のなかで動くだけである。
 けれど、吉野のことばは「頭」のなかではなく「肉体」のなかで動き、肉体を突き破って、感情になる。感情と言うのは、あるいは欲望と言ってもいいかもしれないけれど、そういうものはいつでも「矛盾」したものがからみあって動くのだ。
 嫉妬は知られたくない。けれど嫉妬せずにはいられないほど激しく恋していることは知ってほしい。ひとを憎んではいけないこと、恨んではいけないことは「頭」ではわかっているけれど、憎まずにはいられない恨まずにはいられない。そうしないと、こころが砕けちってしまう。でも、そんなことは許されない。そして、許されないからこそ、ひとに知られ、ひとに罰せられたい。批判されたい。批判されれば何かがかわるわけではないが、なんというのだろう、その批判のなかに、どうにもならない感情の「位置」ができる。批判されも、「私」の受け皿になる。「私」というより、「嫉妬」の受け皿になる--ということかもしれないけれど。
 「世間」が「私」を受け止め、「嫉妬」をうけとめる。その動きのなかで、「私」はおちつく。「認められる」わけではないが、「許される」。
 ひとに知られることで、「私」の嫉妬は、私のものであるけれど、同時にひとのものになる。「世間」のものになる。城戸は「人類」ということばをつかっていたが、「人類」などといのうは「頭」のことばである。「肉体」のことばでは、それを「世間」と言うのである。
 ひとりひとりの「肉体」「感情」というのは独立したものである。それはけっして融合しない。けれど、ひとはなぜかわからないけれど、他人を見れば、その「肉体」のなかで動いていることがら、「感情」のなかで動いていることがらが、だいたいわかる。「世間」は何でも知っている--のは、そのためである。「世間」というのは、ひとが触れ合ったときにできあがる「肉体」なのだ。
 不思議なもので、ひととひとのの触れ合い、「世間」というのは、自然に「間」をかえることで全体を調整する。吉野が書いている「嫉妬に狂う女」(と勝手に仮定するけれど)がいれば、そっと近づいてみたり、そっと離れたりする。まきこまれたくない、やつあたりされたくないと思い、しばらくそのままにしておいて、落ち着いたころ、「そうだよねえ、わかるよ、その苦しみ」なんてなぐさめたりする。そうやって「嫉妬に狂う女」との「距離」(間合い)を調整する。これは「頭」で考えてすることではなく、一種の「肉体反応」のようなものだ。

 あ、何か、余分なことを書いてしまったなあ。

 吉野の詩にもどろう。この詩には「感情」「感覚」という概念や、「不謹慎」「嫉妬」「傷」「誇り」「醜さ」など具体的ではないものがたくさん書かれている。「傷」や「焦げついた部分」というのは「比喩」である。そういうものは、本当はなんのことかわからない。わからないものであるけれど、わかる。--矛盾になるけれど、わからなけれど、わかる。そして、その「わかる」というふうに感じさせる(?)のが「甘い砂糖菓子」と一緒に動くことば、その運動の確かさなのだ。
 その描写には「肉体」のなかにある感覚が連携している。「水分を吸いこみ」という様子は「視覚」がとらえる。「角から」というのも視覚でとらえる。「ぼろぼろ」「ざらざら」「ねっとり」は触覚である。ひとつのものが触覚のなかで変化していく。「舐める」という動詞で、それをていねいに追う。
 「残って消えない痕になる」の「なる」。変化。動き。「なる」ということばのなかで、「水分を含み」からのひとつづきの動きが完結する。緊密につながる。
 それは、大げさに言えば、新しい世界そのものの創造でもある。新しい世界をつくっていくのは「頭」ではなく「肉体」である。「頭」は計画を立てることができても、計画を実行はできない。「肉体」のみが計画を実行することができる。--これは、ことばの世界でも同じことだと思う。「肉体」が動かしたことば、ことばがその動きをとおして「肉体になったことば」を私はいつも美しいと感じる。


コメント
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