詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

橋場仁奈『ブレス/朝、私は花のように』

2010-01-17 00:00:00 | 詩集
橋場仁奈『ブレス/朝、私は花のように』(荊冠社、2009年10月16日発行)

 橋場仁奈『ブレス/朝、私は花のように』は2冊組みの詩集である。『朝、私は花のように』に「10体の仏像」という作品がある。

ほんとうは1人なのに
いつのまにか10人に分かれてしまう(どうしても、
10人は15、23と分かれてしまう

 この感覚が2冊の詩集を必要としたということだろう。

 私がおもしろいと思ったのは、『ブレス』におさめられている「ボール」。草むらに落ちていた(転がってた)ボールを見つけた。そこから、ことばが動いていく。

黒と黄色の
小さい、まるい、縞々の、
ひろうと掌のなかで
ふむふむと蠢く(息、息をする、
草むらの、草むらで、
ゆうこ、と書かれている(黒いマジックで、
ゆうこ、とゆうこが書いたのかゆうこの母が
ゆうこ、と書いたのかいえいえ母はそんなことするはずもなく
ゆうこはゆうこ、とじぶんでじぶんに書いて
転がっている、
草むら、の

 同じことばが何度か繰り返される。それはたぶん橋場がことばを探しながら書いているからだろう。ことばが動くのを待ちながら書いているからだろう。書きたいことを決めて、それを「結論」のようにして書くのではなく、現実(世界)と向き合いながら、ことばが動いていくのにまかせている。
 この感覚が私は好きだ。
 ことばは動いているうちに「ボール」から「ゆうこ」にかわっていく。「ゆうこ、はどこにいるのか/ゆうこ、はどこへいったのか//ゆうこはゆうこをさがす」。けれど見つからない。そのうちに……

ゆうこは
きっともう大人になった、(ふむふむ、と
白いスーツを着て、
昼休みには小さな鏡に向かってニキビをつぶしている
プツプツ、穴があく
穴の向こうに転がっている、(ふむふむ、と
彼女の手を放れて
転がっている(ふむふむ、ふくらんで
まだ転がりつづけるのか草むらの夢を見ているのか草むらの、
ふむふむふむとふくらんで
縞々の(ゆうこ、
ゆうこは私の足もとにふいにあらわれて
イテ、テテテテテ、ともいわずに(踏まれて弾けて、
転がる、転がって

ゆうこ、はどこかにいきたくて
ゆうこ、はもっととおおおおおおおーいどこかにいきたくて
ゆうこ、はまだ遊んでいたくて日暮れてもなお遊んでいたい!
のうこ、はかえりなくないゆうこがかえってもゆうこはまだかえらない!
ゆうこ、は泥だらけ草むらで夜露にぬれて犬に吠えられ
ゆうこ、は踏まれても蹴られてもそれはそれでよくって、よ
ゆうこ、は転がっている(ふむふむ、転がってふむふむ、ふふ
ゆうこ、はきっと私だからどこまでも転がっていくよ

 ボールのゆうこは途中からボールではなくなる。人間になる。それは橋場がボールを人間に「する」のだ。ボールが人間に「なる」のではなく、人間に「する」。橋場が、と書いたが、正確には「ことば」が、と言い換えた方がいいだろう。現実の世界ではボールはいつまでもボール。ことばのなかでボールから人間への変化が起きるのだ。それはことばの運動の問題である。
 そこには確かに橋場という作者が関係している。橋場ぬきには、この変化はありえない。橋場がことばに関与して、ことばをそう動くように仕向けるのである。「私」が登場するのはこのためである。
 ことばの世界へ「私」が登場し、ことばをとおして、何かを別のものに「する」。その何にするかということのなかに、「私」があらわれる。この「あらわれる」は単に登場するというだけの意味ではなく、いや、単に「私」という表面的な存在(?)としてあらわれるという意味ではなくて、そこに「人間性」そのものがあらわれるということである。「思想」が「肉体」としてあらわれるという意味である。

 詩の意味は、そこにある。

 ことばの運動のなかに、そのひと自身が「肉体」として、「ことば」として、「思想」としてあらわれる。
 ボールに書かれた「ゆうこ」という文字を見て、それから「ゆうこ」という少女を想像し、その少女が大人になったと想像する。その想像をことばで結晶化させていくとき、そこには橋場がいつも考えていること(思想)がくっきりと反映される。大人になった少女、女性、はどんなふうに暮らしを生きているか。何を思い出すか。ボールのように、踏まれて、蹴られて、草むらに転がって、置き忘れられて--それでも、どこかへ生きたいと思っている。
 これは空想ではなく、思想であり、肉体だ。暮らしに密着し、いつでも考えを支配する思い、それこそが「思想」というものである。
 そういうことばを書きながら、橋場は、橋場自身が、ひとりの人間になる。「思想」をもった人間になる。ことばは、橋場を、「思想」をもった人間に「する」のである。

ゆうこ、はきっと私だから

 この「私」ということばの重さを大切にしたい。大切にしてもらいたい。そのことばの運動のなかにある「する」を大切に育ててほしい。

コメント
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