詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(95)

2010-01-29 23:00:21 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「ナラ」。この「ナラ」は何だろう。西脇は地名をよくカタカナで書くから「奈良」なのかもしれない。

ポンペイの女郎屋の入口の
狼のように耳が立つた
まつ黒い犬がほえる

 この書き出しの「犬」はほんとうに犬? 鹿を、そんなふうに書いて、遊んでいるだけなのかもしれない。
 西脇は有名詩人というよりも、日本の代表的な詩人だから、そういう人に対して「遊んでいる」というようなことを書くときっと反論が返ってくると思うのだけれど、いいじゃないか、誰だって遊んだって、と私は思う。
 「意味」とか「思想」とかは関係なく、ただことばで遊びたいから遊んでみる--そういうことだって詩の重要な要素である。「ポンペイの女郎屋の入口」も「奈良の都の入口」も、かわりはないのだ。ある場所、その場所が喚起するものが似ているか、似ていないか--よくわからない。よくわからないから、まあ、その変なものを(ことば)を動かしてみる。それが、どこまで動いていくか。その「動き」そのものが、詩であるかもしれない。

 私は、この詩は「奈良」を「ナラ」と書いたことからはじまる奇妙な音楽として読みたい。そう、読んでいる。そして、おもしろいと感じているのは、「ナラ」と「ポンペイ」と関係があるかないかわからないけれど(わからないからこそ?)、次の部分である。

この悲しい記念
この美しい管を通る恋心(れんしん)は

 「この」の繰り返し。「しい」の繰り返し。「きねん」「れんしん」の韻の踏み方。「恋心」にわざわざ「れんしん」とルビをふって、変な音にしてしまう遊び。
 特に気に入っているのが「この」の繰り返し。
 それはあとにも出てくる。

この価値のない牧神笛
この朱色の金属
この考え及ばざる空間
このブリキの管を通す

 4回「この」が繰り返される。最後にも、「この」が登場する。

ただこのブリキの空間とこの朱色
との関係が激烈なるためだ。

 「この」が最後に「との」になっている。
 この瞬間の、変なおもしろさ。

 西脇の詩が私はとても好きである。そして、その好きの理由は「音楽」にあるのだが、その音楽は「音」であると同時に「書きことば」と何か関係があるかもしれない、とも、最近、急に思うようになったのだ。
 最終行の「との」は、学校教科書文法に従えば(つまり、「意味」「内容」を正確に伝えるということばの働きを重視すれば)、とても奇妙なつかい方である。行の冒頭に「との」があるのは変である。その「との」は、前の行の「朱色」につながる形で「朱色との」と書かれるべきものである。それを西脇は、あえて、わけて(分離させて)書いている。
 その「書くこと」から、音楽がはじまっている。

 それは「奈良」を「ナラ」と書くことからもはじまる「音楽」につながっている。「音楽」は「音」だけではなく、書かれる「文字」によってもはじまる。--そのことを、ふいに感じた。



アムバルワリア―旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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ジェームズ・キャメロン監督「アバター」(★★★)

2010-01-29 22:32:58 | 映画
監督・製作・脚本 ジェームズ・キャメロン 出演 サム・ワーシントン、ゾーイ・サルダナ、シガーニー・ウィーバー

 3D映像は精密でスムーズである。昔の立体映画のように、何かを飛び出させてびっくりさせるというよりは、「奥行き」を深める、という感じである。(私は眼の手術をしたあと、左目と右目の焦点距離がずいぶん違うので、3D映像を正確にはとらえきれていないかもしれないが。)ただし、3D映像を体験するためにかける眼鏡のせいで画面が暗くなる。これには閉口した。3D映像ではなくていいようなシーン(地球人?同士が口論するシーンなど)は眼鏡を外してみていたのだが、その明るさの違いに、参ってしまった。
 映像そのものは3Dでない方が、もしかすると美しさを堪能できるかもしれない。緑がアメリカ映画にしてはみずみずしくきれいである。夜の空気も透明感があって、とてもいい。巨大な鳥にのって、垂直に飛び降りる映像も、スピード感がとてもいい。
 ただし、この映画の映像が(そしてストーリーのほとんども)、ジェームズ・キャメロンのオリジナルかというと、私にはそんなふうには感じられない。随所に宮崎駿のやってきたことを土台にしている。森への畏怖、森の精(木の精)は、そのまま宮崎駿の思想だろう。こんな「拝借」の仕方は、ちょっといただけない。(私は、「もののけ姫」の悪質なパロディーにしか見えなかった。)

 私がこの映画で気に入らないものは、ほかにもある。いや、ほんとうは、こっちの方がもっと嫌いかもしれない。(「もののけ姫」の悪質なパロディーであるけれど、それは、まあ、宮崎駿の影響を強く受けているということの裏返しと考えれば、それでいい。)
 この映画でいちばん嫌なのは、侵略者である地球人の軍人が、その星の住民を「青い猿」と呼ぶところである。(字幕で、そう読んだのだが、実際にはなんと言っているか、私は知らない。聞き取れなかった。)この差別意識と、それを裏返したような「自然の知恵」という評価。そのセッティングが、あ、嫌だなあ。どうしようもないなあ、と思う。
 自然そのものを評価するとき、なぜ、それを一方で「青い猿」というような否定と対比させなければいけないのか。その星の住民が、地球人(人間?)と同じような体型、肌をしていて、同じように衣服で体をつつんでいてはいけないのか。同じ体、同じ衣服を着ていて外見は区別がつかない。けれど彼らは、不思議な馬に乗り、巨大な鳥にのって戦うというのでは、なぜいけないのか。
 いや、その「青い猿」というのは、一方で「青い猿」と呼ぶ差別的な人間がいて、他方にはそんなふうには呼ばない人間がいて--という対比のためにある、という見方も可能かもしれない。そして、それは差別的な人間は間違っていて、その結果、当然のようにして敗れる運命にある、という「ストーリー」を描くためのもの、という見方があるかもしれない。
 だとすれば、それこそが、嫌い。いやだなあ、と思う。
 安直じゃない? 差別的な人間は間違っていて、それは、素朴な(?)自然の力に最終的に屈する。侵略者は必ず失敗する。そんなことのために「自然」や「現代文明・未来文明(機械文明)とは無縁」なものが利用されていいのだろうか。
 自然の力を称賛するのはいいけれど、その称賛をきわだたせるために、「差別」を敗者(?)に仕立てるというような方法は、どこか間違っていない? ちゃんと差別を批判したことになるのかな?

 何ねえ。どうもねえ。きれいに、きちんとつくられた映画だけれど、おかしいよなあ、と思う。


エイリアン2 (完全版2枚組) [DVD]

20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

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石峰意佐雄「無闇男」

2010-01-29 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
石峰意佐雄「無闇男」(「解纜」143 、2009年12月18日発行)

 石峰意佐雄は「男たち」シリーズを書いている。その26が「無闇男」。「解纜」にはほかの作品も掲載されている。テーマは、しかし、「男」よりも書くという行為そのものである。
 「無闇男」の書き出し。

 かれは存在するのか、したのか、それともしうるのか。じつにしんどいことだが、ほとんど証明不能のことを語ることがそもそもできるのだろうか。

 ここには「否定」だけがある。次々に襲いかかる「否定」だけがある。そして、「否定」とは「不可能性」のことである。ある「こと」(存在と言うより、こと、であると、私は直感的に思う)を想定する。そして、それを「否定」し、さらにその「否定」そのものを「可能」「不可能」の二者択一にかける。それは、そして、「可能」をひきだすためではなく、「不可能」と断定するためである。
 ことばがそんなふうに、次々に否定し、不可能であるという「答え」に向かって動くとき、そこには「何」が存在するのか。どんな「こと」が存在するのか。何も存在しない、どんな「こと」も存在しない。ことばが動いたという記憶(?)、あるいは意識が残るだけである。
 それは、次のような「比喩」として語られる。

 かれは、よこたわったまま遥かなすそのほうをけり出すとその余波が、こちらに及んでくる、ようにしてかれじしんの体感としてわずかに、存在した証しがあるだけだ。

 この文章は、とても奇妙である。「主語」が奇妙にねじれる。
 「第一の主語=かれ」は「すそをけり出す」(述語)。「第二の主語=裾をけり出した足(?)、あるいはけり出された裾」が、「余波」を引き起こす(述語)。「第三の主語=余波」がこちらに「及んでくる」(述語)。
 そのあとは?

ようにしてかれじしんの体感としてわずかに、

 「主語」は? 「主語」はどこへ消えたのか。「かれじしんの体感」というのは、だれが感じる「体感」? かれが感じる? 私(石峰、あるいは読者)? わからないまま、「わずかに」は、次の、

存在した証しがあるだけだ。

 にかかっていく。けれど、その「わずかに」は「わずかに存在した」なのか、「存在した証が「わずかに」あるだけなのか、見当がつかない。そして、その見当のつかなさをごまかす(?)ようにして「第四の主語=(存在した)証し」が「ある」(述語)。
 最初の1行で、「かれ」という「主語」が措定され、それからすぐに「存在するのか」「存在したのか」「存在し得たのか」「存在しうるのか」という「否定」と「不可能」の「述語」によってかき消されたように、ここでも「主語」がかき消されていく。
 「存在した証しがある」と石峰は書いているが、何が存在したのか--そのほんとうの「主語」はとっくの昔に否定されて、主語をめぐって動いたことばしか残っていない。書かれたことばしか残っていない。
 そして、その書かれたことばを決定的に特徴づけるのが

ようにして

 と、唐突に挿入されたことばである。
 「ようにして」からはじまる文節は、それまでの文章「かれは、よこたわったまま遥かなすそのほうをけり出すとその余波が、こちらに及んでくる」と、それ以後の文章「存在した証しがあるだけだ。」を分断し、同時に接続する。強引に、ふいの「比喩(のよう)」と、どの述語を修飾するかわからない副詞(わずかに)の粘着力で。
 分断し、接続する(接着する)というのは、矛盾した行為だが、矛盾しているからこそ、そこに「思想」がある。「肉体」がある。
 「肉体」があるから「体感」がある。
 だれが感じるのか、「主語」があいまいなまま、「かれじしんの体感」が残る。ほうり出される。その「体感」が「思想」である。

 書く--ことばの運動。書かれたことばの運動というのは、その「かれじしんの体感」のように、何かを分断し、同時に接着させるものなのだ。書くと言うことは、そういうことなのだ。

 何かが存在し、ある「こと」が存在し、それをことばで置き直すのではない。ことばは「存在」や「こと」を伝えるのではない。ことばが何かを伝えるとしたら、そのことばが何かを切断し、同時にそこに別なものを接着しようとする運動、その「感じ(体感)」を伝えるだけなのだ。

 あ、何か。
 --ことばがかってにスピードをあげて暴走する。自分で自分のことばについていけなくなる。
 ちょっと別な書き方をしてみる。

 「かれ」を「ことば」と置き換えてみる。そうすると、私が書きたいと思っていること、あるいはことばが私を置き去りにしたまま書こうとしていることが、別な形で見えてくる。

 ことばは存在するのか、したのか、しえたのか、そもそもしうるのか。

 ことばで書きながら、こういう質問をすることは自己矛盾かもしれない。その「自己矛盾」を少しだけゆさぶるために、「ことば=存在(もの)」あるいは「ことば=意味」は存在するか……と考えてみるとどうだろう。ことばは存在(もの)と同じ(あるいは等価)なのか。ことばは「意味」なのか。
 そうではないのではないだろうか。
 ことばが動く(すそをけり出す)。「もの」に向かって動く、意味に向かって動く。そうすると、そこにはことばによってつなぎとめられるものがある一方、そのつなぎとめによって振り捨てられるものもある。「かれは、よこたわったまま……」という段落で石峰が書いていることと逆の順序になってしまうが、接続と(接着と)同時に、なにかが分断される。

 「存在(もの)=ことば」「意味=ことば」という形でのことばは、存在するのか、したのか、しえたのか、しうるのか。

 石峰の「思想」はそれを中心に蠢いている。動き回る。
 それは確かに、

ほとんど証明不能のことを語ることがそもそもできるのだろうか。

 という疑問を呼び起こす。「ことば」が「ことば」について語ることができるのか。そこに「客観性」はありうるのか。「客観的な思考」として、それは有効なのか。疑問だけが、有効な何かかもしれない。
 そして、「ようにしてかれじしんの体感としてわずかに」という、わかったような、わからないような「比喩」が残される。
 「比喩」というものは、とてもおもしろい存在だ。「比喩」のことばの特徴は、「存在(もの)=ことば」「意味=ことば」をどこかで否定している。つまり……。(と、書いていいのかな?)
 「比喩」が存在するためには、「比喩」が語るものがその対象そのものであってはならない。「きみは花のように美しい」という比喩がなりたつためには、「きみ」は「花」であってはならない。そこに、一種の「否定」がある。「きみ」が「花ではない」(否定)。だからこそ「花」であると強引に他のものを接続する(接着させる、他のものでのっとる)とき、「きみ」は「きみ」を超越し、絶対的な「美」になる。
 比喩--とは、存在を否定し、超越し、絶対的な何かになってしまう運動なのだ。

 比喩の中にこそ、ことばの運動のすべてがある。のかもしれない。存在を語りながら、存在を超越する運動。詩。
 ことばは「意味」をもたない。ことばは、過激に動くことで「それまでの意味」を分断(破壊)し、別の「意味」を生み出すのだ。いままで、接続、ということばをつかってきたが、それはたぶん、間違いだ。別の「意味」を結びつけるのではなく、それまで存在しなかった「意味」を生み出していく。そこに展開するものが「それまでの意味」ではなく、生み出された「あたらしい意味」であるがゆえに、だれにもその「意味」はわからない。書いている作者にも、読んでいる読者にもわからない。「体感」のようなものがあるだけで、「意味」はだれにもわからない。運動していることば自身にもわからないかもしれない。

 石峰が書こうとしているのは、そういう「ことばの運動」そのものだ。ことばはなんのためにあるかという問いかけそのものだ。何を書き得るか--それを、ことば自身の運動にゆだねて、石峰はことばを書いている。
 そして、ことばに身をゆだねるために、ことばそのものを「過去」からまず解放する。その方法として、「かれは存在するのか、したのか、しえたのか。そもそもしうるのか。」というような、「否定」と「不可能」を刻印することからはじめる。すべてをうたがい、すべての根拠をとりはらう。そこからことばは「自由」に動きはじめる。



塋域―詩集
石峰 意佐雄
詩学社

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