詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

マイケル・ムーア監督「キャピタリズム」(★★★)

2010-01-13 12:17:37 | 映画
監督・脚本・出演 マイケル・ムーア

 ドキュメンタリーの真骨頂は、映し出されている対象が怒って「本音」をいってしまうところにある。そういう意味では「ボウリング・フォー・コロンバイン」がやはり一番おもしろかった。チャールトン・ヘストンが「本音」をもらしますからねえ。でも、もういまではマイケル・ムーアが有名人になりすぎて、だれも「本音」を語らない。あ、アメリカの経済政策に反対する議員は別ですけれどね。
 アメリカの議員が選挙を控えて右往左往し、それに乗じて金融機関を救済する法案が通った--ということをきちんと描いている点がこの映画の白眉だけれど、ここでもなんといえばいいのか、「悪人」が「本音」を語るシーンが出てこない。
 そうすると、それがどんなに「正論」であっても、あまりおもしろくない。教科書どおりの批判になってしまう。「正義」の大演説になってしまう。「正義」の主張は主張でいいのだけれど、とても残念。
 まあ、無理なんでしょうけれどね。
 マイケル・ムーアの映画で「本音」をいってしまうことは、「本心」を暴かれること--につながる。「観客」に叩かれる材料を提供するだけになるからね。それは、まずい。もう、みんなが警戒している。
 とてもがんばっている作品なのだけれど、がんばってもがんばっても、「敵」に声がとどかない。いや、声はとどいているのだけれど、その反応、「敵」の声を引き出せない。これでは、やっぱり、おもしろくない。

 これをどう破っていくか--これが大きな課題だな。映画だけではなく、資本主義批判をするときの大前提として、どうやって「巨額の富」を得た人間を庶民の「場」を引きずり出すかという工夫が必要なんだろうなあ。現実の大衆に取り囲まれないかぎり、つまり、「声」が映画でとどけられるというような間接的な状態では、金持ちは痛くも痒くもないだろうなあ。つかいきれないほどの金があるんだから。金を稼ぐ必要はないんだから。うーん。もどかしさが残る映画だなあ。




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谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」(2)

2010-01-13 00:00:00 | 詩(雑誌・同人誌)
谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」(2)(「現代詩手帖」2010年01月号)

 きのう、谷川俊太郎「電光掲示板のための詩」の横書きの詩を取り上げて、最後に「つづく」と書いた。そのとき書こうとしたことは何だったのか。それをはっきり覚えているわけではない。私はいつでも「結論」へ向けて書いているのではない。何かを書きたいと思い、書きはじめ、それから何を書きたいのか探している--と、言い訳めいたことを書いてしまうのは、たぶん、一日時間が経ってしまって、そのあいだに気持ちがかわったからかもしれない。これから書くことが、きのうの「つづく」とほんとうにつながるかどうか、わからない。

 「電光掲示板のための詩」について、私は、不思議・不気味、と書いた。その不気味さは、横書きよりも縦書きの部分の方がもっと不気味である。谷川はどちらを先に書いたのかわからないが、読んだ印象から言うと縦書きの方があとである。縦書きの方が、横書きのものよりはるかに不気味である。
 最後が、不気味である。

ああ いい うう

 最後の「声」。
 私が感じている不気味さを、実は、どう説明していいか私はわからない。わからないが、「ああ いい うう」ということばを読んだとき、あ、ことばは「あ」から始まるということであり、そしてその「あ」はアルファベットの国でも同じだということにつながる。アルファベットの国といっても、私の知っているのは、英語、フランス語、スペイン語くらいだから、私の感想は間違っているかもしれない。私は言語学者ではないから、こうした感想そのものが間違っているかもしれないのだが、英語、フランス語、スペイン語でも、ことばというか「声」は「あ」から始まる。西欧のことばでは「あ・い・う・えお」ではなく「あ・え・い・お・う」かもしれないが、最初は「あ」。--そのこと、その「共通性」に、私は不思議な不気味さを感じたのだ。
 ことばは「声」。ことばは「あ」から始まる。そう考えると、ことばは絶対に「声」である。口を開けて、体の奥から息を吐き出す。すると、まず「あ」になってしまう。その「あ」が何かとぶつかって、別の「音」(声)を引き出す。そうやって、ことばは始まる。どんなことばでも、それは同じだ--そのことを、ふいに、谷川の詩から教えられたのだ。
 そんなことを(というと語弊があるだろうけれど)、なぜ谷川の詩から感じたのだろう。それが私には不思議であり、不気味なのだ。

 縦書きの部分は、次のように始まっている。

コトバはどこで生まれたのだろう コトバはいつ生まれたのだろう コトバが芽を出すのを見たことがありますか ことばの卵が孵るのを見たことがありますか

 私は、それを見たことがない。けれども、私は「聞いたことがある」と、いまなら言える。谷川の、この詩。「電光掲示板のための詩」という詩から、ことばが生まれ、芽を出すそのときの「音(声)」を聞いたことがある、と、いまなら言える。それは「ああ いい うう」という「声(音)」から始まった。
 「ああ いい うう」の直前には、

コトバは増殖し繁殖し循環し消え去ることがない

 とある。「ああ いい うう」は増殖し繁殖し循環し(この循環が大事かもしれない)、冒頭の「コトバはどこで生まれたのだろう」につながるのだ。増殖、繁殖の過程では、きっとヨーロッパもアジアもアフリカも横断する。そしてきっと「日本語」にもどるのだ。
 「電光掲示板」のことばは、谷川が横書きの詩で書いていたように「音」がない。「声」を失っている。けれど、それはきっと見せかけ。ことばには「声」がある。「声」から出発して、それも「あ」という「声」から出発して、いま、こうして、こんなふうに動いているのだ。
 そのことを「ああ いい うう」から、私は感じた。そして、そんなことを感じさせる「ああ いい うう」というのは「詩」を超えているとも思った。「詩」を超えているから「詩」なのだとも。--矛盾しているけれど、その矛盾のなかに、引き込まれてしまった。





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