池井昌樹「径 他四篇」(「現代詩手帖」2010年01月号)
池井昌樹がとても不思議な詩を書いている。ほかのひとにとっては不思議ではないかもしれないが、私には不思議だ。「径 他四篇」という小詩集だが、その最初の「願ったことは」という詩。
私は茫然としてしまう。「どこにもぼくの影がないこと。」とは、何だろう。「影」は「誰より良い夫良い父親になる」という「願い」のことだろうか。そういう「願い」をどこかで見失って、その「願い」とは違うところへきてしまった--ということを池井は書いているのだろうと推測する。
それは一種の「人生の敗北」かもしれない。こういう敗北はセンチメンタルになるのが普通である。敗北の自覚がカタルシスになり、敗北の苦悩を浄化し、美しいものにしてしまいがちである。「敗北」が対象化され、「私(筆者)」とあいだに「距離」ができ、その「あいだ(間)」で感情が遊ぶことができる。その余裕(?)が抱え込むのがセンチメンタルの美である。
池井の詩は、そういう「美しさ」とは無縁である。「悲しみ」とも無縁である。そのかわりに、生々しい記憶が噴出してくる。「美」とは無縁のものが池井を飲み込み、いや、池井を突き抜けていく。
具体的に書こう。
この詩には「いつも」ということばが繰り返される。「もっと」も繰り返される。「いつもいつも」夢見ている良い父良い夫になろうと願いながら、その願いから「もっともっと」遠くへきてしまう。何もかもなくして、その「いつもいつも」と「もっともっと」だけが残っている。そしてそれは「いずれ(か)」つながっている。
「願い(良い夫良い父)」から遠ざかるけれど、そこには「間」がないのだ。「いつもいつも」「もっともっと」という意識が常にある。「願い」はなくなっても「いつもいつも」「もっともっと」という意識が残り、カタルシスがやってこない。「いずれ(か)」が、その先に待っている。
「いずれ(か)」があるというとこは、「いつもいつも」「もっともっと」が池井を突き抜けて、かってに生きはじめているということだ。「良い夫良い父」という「願い」を生きているつもりが、その「願い」ではなく、あるいはその「願い」とは反するものが、池井を追いかけてきて、池井を貫き、いつの間にか池井自身を「願い」ではなく、「いつもいつも」「もっともっと」にしてしまう。池井は「いつもいつも」「もっともっと」になってしまった。そこには人を個人として特徴づける「夢・理想・願い」がなく、つまり個人の刻印である影がなく、ただ「いつもいつも」「もっともっと」という止まることを知らない運動だけがある。それは「いずれ(か)」、「こんな」と呼ぶしかない「所」へとつながっている。
池井が最近向き合っているのは、そういう世界である。「こんな」とは知っているけれど、知らなかった「所」である。知っているけれど、意識してこなかった「所」、見落としていた「所」--池井の中の「よそ」の「場所」。あるのは知っているけれど、親しくはない。あるいは親しんではいけない「場所」。できるなら「他人の場所」であってほしい「所」。自分の「場所」ではなく、「他人の場所」であってほしい。けれど、そういうものが自分のなかにあるのだ。
そういう世界、自分の「願っている場所」(夢見ている場所)ではない「所」に出てしまう池井とはいったい誰なのか。
池井ではなく、池井とつながる「誰か」である。池井個人を超えて、存在する誰か。これを私は、池井の中の「他人」と、仮に呼んでいる。池井は「他人」を生きはじめている。
センチメンタル(抒情)にも「他人」が登場する。先に書いた「敗北」を例にとると、「敗北した私」を「他人」として客観化し、感情を洗い流す。「私」であるけれど、それを「他人」として見つめ、感情を独立させ、美の形式に整える。それがセンチメンタル。
池井はそうではない。「他人」として整えない。感情を整えない。美の形式にはしない。だらしなく(?)、「いつもいつも」とか「もっともっと」とか、学校教科書なら「一度書けば十分、ことばを大切にしなさい。文章を整えなさい」と否定されてしまいそうなことばを繰り返している。
どうしていいか、わからないのだ。「他人」を制御できないのだ。「他人」が生きるままに、生かしておくことしかできないのだ。「いずれ(か)」も同じである。
そして、そういう整えることができない運動のゆきさきというか、たどりつくところが「こんな所」なのだ。願った場所なら、ひとは「こんな所」とは言わない。そういう「所」。それがわかっているけれど、そこへ行くしかない。その運動をつづけるしかない。
これは不思議で、不気味で、なおかつ、とてもひきつけられる。
「他人」が自分を突き抜け、勝手に生きている。それを池井は、次のように言い換えている。「魔法の小函」の後半に出てくる。
このことばを「願ったことは」にあてはめると、「願ったことは」の世界がとてもよくわかる。「良い夫良い父になりたい」と願った「思い出」は、それを書き留めたいと願った瞬間から、跡形もなくなっ過去という時間を脱出してきて、いまを生きはじめる。そうすると、その「いま」(現在)に、「いつもいつも」「もっともっと」がなまなましく動きはじめる。「願ったこと」という「名詞」ではなく、「願ったとき」の「いのちの動詞」が動きはじめ、それが「いつもいつも」「もっともっと」を連れてくる。「いつもいつも」「もっともっと」に「いま(現在)」がのっとられる。それはそして「過去」にとどまるのではなく、「いずれ(か)」という「未来」へとつながる。そして、「理想の場所」ではなく、「こんな所」としか呼べないところへとつながる。
「こんな所」といいながら、けれど、池井はその「こんな所」がいとおしい。なぜか。そこには「こんな所」と感じながらも生きている「いのち」があるからだ。
「いつもいつも」「もっともっと」という動き、その「動詞」のなかで、池井は、「いのち」そのものとつながる。
つながる「いのち」はもちろん「他人」である。その「他人」はたとえば「父」であり、「母」の場合もあるけれど、見知らぬ人(それこそ他人)の場合もある。「いつもいつ」「もっともっと」を生きている人がすべてつながってくる。つながりながら、池井は池井のなかに生きている「他人」を育てはじめている。
そのことを静かに書いている「径」は、とても美しい。
焼鳥屋のおじさん(そのひと)、池井(焼鳥屋で「おまちどうさま」と言われる客であり、また本を売る人でもある)、本を買った若者--その3人は、ただ偶然出会っているのだけれど、その偶然の出会いにも「いつもいつも」「もっともっと」があるのだ。「いつもいつも」どこかのしらない焼鳥屋で焼き鳥を食べ、「もっともっと」と何かを探して歩く。「いつもいつも」本屋で本を選び、買って、それから「もっともっと」と何かを探して歩いていく。それぞれの「願ったこと(願っていること)」は違うかもしれないが、願いがなんであれ、ひとは「いつもいつも」「もっともっと」願いから離れ、それでも生きている。そして「いずれ(か)」、「こんな所」に行き着く。
どんなに願いから離れようと、「いつもいつも」「もっともっと」生きる「いのち」のなかにほんとうは「美」がある。かなわぬ夢を見つづける「いのち」の美しさがある。
「敗北の美」という形ではあらわせないもの、センチメンタルではあらわせないものがある。
これは直接的には、池井から本を買っていった「わかもの」の描写だが、実は、焼鳥屋から出た若い時代の池井そのものでもある。あ、こんなふうに、自分も焼鳥屋の「そのひと」から見られていたんだ--と気付く。それは焼鳥屋の「そのひと」もまた「いつもいつも」「もっともっと」を生きて、「こんな所」に行き着いたということでもあるだろう。
そんな「こんな所」をほんとうに池井はいつくしんでいる。大事に、あたたかく、つつみこんでいる。
ああ、ここには「影」はない。ただ、人間を受け止めてくれる「宇宙」の潔癖な美しい光だけがある。「こんな所」というけれど、言ってしまうけれど「こんな所」にも宇宙は平等にあかるい光をそそぎ、そこにいきる「いのち」を照らしだしている。そして、その光も「いつもいつも」なのだ。「いつもいつも」「もっともっと」という気持ちでひとを照らしだしている。その光にひとは気づかず、月の「思い」(そういうものがあると仮定しての話したけれど)にも気付かず、「もっともっと」を繰り返している。
それに気がつくのは「本人」ではない。いつも「他人」である。
--この「他人」と、先に書いてきた池井の中の「他人」はどこかで重なり合う。詩のなかで重なり合う、と言っていいのだろうけれど、でも、それがどこかはわからない。「詩のなか」と言ってしまえば、すべて同じように言ってしまえる。詩の、どの部分で重なるのか。それを池井は探している。懸命に探している。この正直さに、私はついていきたいと思う。ずっーと池井の詩を読みつづけたいと思う。
池井昌樹がとても不思議な詩を書いている。ほかのひとにとっては不思議ではないかもしれないが、私には不思議だ。「径 他四篇」という小詩集だが、その最初の「願ったことは」という詩。
いつもの駅で降りいつもの町を行きいつもの塒(ねぐら)へ帰る。町は家族連れでいつも賑わいぼくだけいつも一人で。今に結婚したら誰より良い夫良い父親になるんだと。でも結婚なんか出来っこないだろうなと。いつものように肩を窄ませ天の河がぼんやり白く映っている運河に懸かる陸橋を昇り陸橋を降(くだ)りもっと淋しい町をてくてくともっともっと淋しい路地を折れると素足になれるいつもの塒があるのだが。その夜ぼくは影と逸(はぐ)れていずれかは素足になれいずれかは素足になれずもっともっと淋しい町を行き墓場を匿す生垣を過ぎ知らない方へとぼとぼとこんな所に出て来てしまった。良い夫でも良い父でも何でもなかった。漸くぼくは気付くのだ。どこにも影がないこと。願ったことは。
私は茫然としてしまう。「どこにもぼくの影がないこと。」とは、何だろう。「影」は「誰より良い夫良い父親になる」という「願い」のことだろうか。そういう「願い」をどこかで見失って、その「願い」とは違うところへきてしまった--ということを池井は書いているのだろうと推測する。
それは一種の「人生の敗北」かもしれない。こういう敗北はセンチメンタルになるのが普通である。敗北の自覚がカタルシスになり、敗北の苦悩を浄化し、美しいものにしてしまいがちである。「敗北」が対象化され、「私(筆者)」とあいだに「距離」ができ、その「あいだ(間)」で感情が遊ぶことができる。その余裕(?)が抱え込むのがセンチメンタルの美である。
池井の詩は、そういう「美しさ」とは無縁である。「悲しみ」とも無縁である。そのかわりに、生々しい記憶が噴出してくる。「美」とは無縁のものが池井を飲み込み、いや、池井を突き抜けていく。
具体的に書こう。
この詩には「いつも」ということばが繰り返される。「もっと」も繰り返される。「いつもいつも」夢見ている良い父良い夫になろうと願いながら、その願いから「もっともっと」遠くへきてしまう。何もかもなくして、その「いつもいつも」と「もっともっと」だけが残っている。そしてそれは「いずれ(か)」つながっている。
「願い(良い夫良い父)」から遠ざかるけれど、そこには「間」がないのだ。「いつもいつも」「もっともっと」という意識が常にある。「願い」はなくなっても「いつもいつも」「もっともっと」という意識が残り、カタルシスがやってこない。「いずれ(か)」が、その先に待っている。
「いずれ(か)」があるというとこは、「いつもいつも」「もっともっと」が池井を突き抜けて、かってに生きはじめているということだ。「良い夫良い父」という「願い」を生きているつもりが、その「願い」ではなく、あるいはその「願い」とは反するものが、池井を追いかけてきて、池井を貫き、いつの間にか池井自身を「願い」ではなく、「いつもいつも」「もっともっと」にしてしまう。池井は「いつもいつも」「もっともっと」になってしまった。そこには人を個人として特徴づける「夢・理想・願い」がなく、つまり個人の刻印である影がなく、ただ「いつもいつも」「もっともっと」という止まることを知らない運動だけがある。それは「いずれ(か)」、「こんな」と呼ぶしかない「所」へとつながっている。
池井が最近向き合っているのは、そういう世界である。「こんな」とは知っているけれど、知らなかった「所」である。知っているけれど、意識してこなかった「所」、見落としていた「所」--池井の中の「よそ」の「場所」。あるのは知っているけれど、親しくはない。あるいは親しんではいけない「場所」。できるなら「他人の場所」であってほしい「所」。自分の「場所」ではなく、「他人の場所」であってほしい。けれど、そういうものが自分のなかにあるのだ。
そういう世界、自分の「願っている場所」(夢見ている場所)ではない「所」に出てしまう池井とはいったい誰なのか。
池井ではなく、池井とつながる「誰か」である。池井個人を超えて、存在する誰か。これを私は、池井の中の「他人」と、仮に呼んでいる。池井は「他人」を生きはじめている。
センチメンタル(抒情)にも「他人」が登場する。先に書いた「敗北」を例にとると、「敗北した私」を「他人」として客観化し、感情を洗い流す。「私」であるけれど、それを「他人」として見つめ、感情を独立させ、美の形式に整える。それがセンチメンタル。
池井はそうではない。「他人」として整えない。感情を整えない。美の形式にはしない。だらしなく(?)、「いつもいつも」とか「もっともっと」とか、学校教科書なら「一度書けば十分、ことばを大切にしなさい。文章を整えなさい」と否定されてしまいそうなことばを繰り返している。
どうしていいか、わからないのだ。「他人」を制御できないのだ。「他人」が生きるままに、生かしておくことしかできないのだ。「いずれ(か)」も同じである。
そして、そういう整えることができない運動のゆきさきというか、たどりつくところが「こんな所」なのだ。願った場所なら、ひとは「こんな所」とは言わない。そういう「所」。それがわかっているけれど、そこへ行くしかない。その運動をつづけるしかない。
これは不思議で、不気味で、なおかつ、とてもひきつけられる。
「他人」が自分を突き抜け、勝手に生きている。それを池井は、次のように言い換えている。「魔法の小函」の後半に出てくる。
思い出は書き留めたいと願った瞬間から跡形もない過去を脱して現在を生きはじめる。
このことばを「願ったことは」にあてはめると、「願ったことは」の世界がとてもよくわかる。「良い夫良い父になりたい」と願った「思い出」は、それを書き留めたいと願った瞬間から、跡形もなくなっ過去という時間を脱出してきて、いまを生きはじめる。そうすると、その「いま」(現在)に、「いつもいつも」「もっともっと」がなまなましく動きはじめる。「願ったこと」という「名詞」ではなく、「願ったとき」の「いのちの動詞」が動きはじめ、それが「いつもいつも」「もっともっと」を連れてくる。「いつもいつも」「もっともっと」に「いま(現在)」がのっとられる。それはそして「過去」にとどまるのではなく、「いずれ(か)」という「未来」へとつながる。そして、「理想の場所」ではなく、「こんな所」としか呼べないところへとつながる。
「こんな所」といいながら、けれど、池井はその「こんな所」がいとおしい。なぜか。そこには「こんな所」と感じながらも生きている「いのち」があるからだ。
「いつもいつも」「もっともっと」という動き、その「動詞」のなかで、池井は、「いのち」そのものとつながる。
つながる「いのち」はもちろん「他人」である。その「他人」はたとえば「父」であり、「母」の場合もあるけれど、見知らぬ人(それこそ他人)の場合もある。「いつもいつ」「もっともっと」を生きている人がすべてつながってくる。つながりながら、池井は池井のなかに生きている「他人」を育てはじめている。
そのことを静かに書いている「径」は、とても美しい。
つきのひかりのそそぐなか
しらがまじりのそのひとは
さびしいてつきでくしをうち
さびいしてつきでとりをやき
おまちどおさまいらっしゃい
さびしくわらってくれました
しらがまじりのそのひとの
なまえもぼくはしりません
ぼくはそれからそこをでて
それからどこでどうしたか
まいどありがとうまたどうぞ
さびしいてつきでほんつつみ
さびしいてつきでつりわたし
おあいそわらいをうかべます
めもとすずしいわかものは
ふりむきもせずそこをでて
あかりのそとにすこしいて
それからどこへいったのか
つきのひかりのそそぐなか
こみちばかりがさえざえと
焼鳥屋のおじさん(そのひと)、池井(焼鳥屋で「おまちどうさま」と言われる客であり、また本を売る人でもある)、本を買った若者--その3人は、ただ偶然出会っているのだけれど、その偶然の出会いにも「いつもいつも」「もっともっと」があるのだ。「いつもいつも」どこかのしらない焼鳥屋で焼き鳥を食べ、「もっともっと」と何かを探して歩く。「いつもいつも」本屋で本を選び、買って、それから「もっともっと」と何かを探して歩いていく。それぞれの「願ったこと(願っていること)」は違うかもしれないが、願いがなんであれ、ひとは「いつもいつも」「もっともっと」願いから離れ、それでも生きている。そして「いずれ(か)」、「こんな所」に行き着く。
どんなに願いから離れようと、「いつもいつも」「もっともっと」生きる「いのち」のなかにほんとうは「美」がある。かなわぬ夢を見つづける「いのち」の美しさがある。
「敗北の美」という形ではあらわせないもの、センチメンタルではあらわせないものがある。
めもとすずしいわかものは
ふりむきもせずそこをでて
あかりのそとにすこしいて
それからどこへいったのか
これは直接的には、池井から本を買っていった「わかもの」の描写だが、実は、焼鳥屋から出た若い時代の池井そのものでもある。あ、こんなふうに、自分も焼鳥屋の「そのひと」から見られていたんだ--と気付く。それは焼鳥屋の「そのひと」もまた「いつもいつも」「もっともっと」を生きて、「こんな所」に行き着いたということでもあるだろう。
そんな「こんな所」をほんとうに池井はいつくしんでいる。大事に、あたたかく、つつみこんでいる。
つきのひかりのそそぐなか
こみちばかりがさえざえと
ああ、ここには「影」はない。ただ、人間を受け止めてくれる「宇宙」の潔癖な美しい光だけがある。「こんな所」というけれど、言ってしまうけれど「こんな所」にも宇宙は平等にあかるい光をそそぎ、そこにいきる「いのち」を照らしだしている。そして、その光も「いつもいつも」なのだ。「いつもいつも」「もっともっと」という気持ちでひとを照らしだしている。その光にひとは気づかず、月の「思い」(そういうものがあると仮定しての話したけれど)にも気付かず、「もっともっと」を繰り返している。
それに気がつくのは「本人」ではない。いつも「他人」である。
--この「他人」と、先に書いてきた池井の中の「他人」はどこかで重なり合う。詩のなかで重なり合う、と言っていいのだろうけれど、でも、それがどこかはわからない。「詩のなか」と言ってしまえば、すべて同じように言ってしまえる。詩の、どの部分で重なるのか。それを池井は探している。懸命に探している。この正直さに、私はついていきたいと思う。ずっーと池井の詩を読みつづけたいと思う。
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