詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野木京子「Zの記号」ほか

2011-03-02 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
野木京子「Zの記号」ほか(「スーハ!」7、2011年02月25日発行)

 野木京子「Zの記号」は、何が書いてあるのかわからない。わからないのだけれど、とても気になる。

部屋に戻ると Zという名の若い男が
「ここは私の土地ではないので、言葉が記号のようだ」と言う
それで 生き抜けるために わたしは記号を部屋のすみずみに 並べた
スラッシュは削除すること ひとおもいに切り裂くこと
ピリオドは周期のこと 最終段階のこと
ダッシュは粉々にすること ひとを打ちのめすこと
順繰りに偽造し 記号の言葉を内に入れて わたしも記号になった
ひとに故郷がなくなったように記号にも故郷がなく なまの臭いはどこにもなかった

破線を縫い上げるように泳いでいく
背が青く艶びかりのするもの
声を出さないかれらは
美しい記号のようだが
内臓もそうなのだろうか

はらわたの故郷は海の粒子なのだから
私のそれも同じなのだろうと
故郷を持たないZが言う

 「言葉」ではなく「記号」で会話する。そういう人間関係はとてもおもしろい。「言葉」を拒絶し、「記号」を受け入れる。スラッシュ、ピリオド、ダッシュ、破線。それは、沈黙であり、呼吸なのだろう。沈黙と、呼吸--ことばにならないことば。でも、そこに野木は「意味」を見出している。「削除すること」「切り裂くこと」「周期(終期?)のこと」(=最終段階?)」「粉々にすること」「打ちのめすこと」。「意味」とは「……すること」。動詞。そして、その動きを「こと」という名詞で閉じ込める。
 同じこと、つまり、動詞を生きて(偽造し)、記号の言葉(沈黙と呼吸)を「わたし(野木)」の「内=肉体」に閉じ込めることで、野木は「記号」になる。沈黙と、呼吸そのものになる。
 沈黙と呼吸の交錯が、なにやらセックスを感じさせる。ただし、官能が切り開く未知のわたしに出会うセックスではない。セックスであるかぎり、そこには自己からの逸脱があるのだが(エクスタシーがあるのだが)、それは野木の場合の逸脱は、なんといえばいいのだろう、無機質、いや、虚無の逸脱なのだ。
 2連目の「声を出さないかれら」の「かれら」とは「私(Z)」と「わたし(野木)」のことだろうか。それとも互いに「記号」になったふたりの、その名づけられていない記号なのか。スラッシュでもピリオドでもダッシュデも破線でもなく「背が高く艶びかりするもの」と描写されるしかない「記号」なのか。--わからないものはわからないままにして、そのセックスには「声」がない。(声を出さない)。声は「言葉」のためにあり、沈黙と呼吸は「記号」のためにある、ということなのか。
 何かしら異質なものが交錯する。それはそのまま「Z」と「わたし」のセックスのようでもあるが、その虚無のセックスの中で、不思議なことに「美しい記号」「内臓」を野木は夢見ている。
 そして、この「内臓」ということばから思うのだが、野木にとってのセックス(逸脱--と言い換えると、ことばの運動におけるあらゆる逸脱、つまり、文学、詩など)は、自己の外へ逸脱するのではないのだ。内臓へ--自己の内部へ逸脱するのだ。虚無を、「はらわた」のように生暖かく抱え込む。

 ここには私のことばでははっきりとみることのできない「矛盾」がある。「虚無」は、私にとっては絶対に「内臓」などではない。内臓の温かみを「虚無」と結びつけることは、私にはできない。--そういう意味の「矛盾」である。けれど、この「矛盾」は野木にとっては矛盾ではない。必然であり、「美」なのだ。
 それがなぜ必然であり、美なのか、私にはわからない。わからないから、とても気になる。この詩には、野木にしか書けないことが書いてある。そして、それは野木にしか書けないことばなので、翻訳はできない。意味として理解することはできない。まるで外国語である。詩はたしかにだれのことばも外国語なのだが……。そして、多くの外国語がそうであるように、「意味」は理解できないのに、ことばの動きから「意味」を納得することがある。わからないのに、納得してしまう何かがある。
 この詩で言えば、ここにある不思議な美しさ、ことばの運動の美しさ。野木のことばを借りて言えば「なまの臭い」を拒絶して動くことばの美しさを納得してしまう。

 「ホロビの芯」にも冷たい美しさがある。そして、その冷たい美しさと感じるものは、きっと野木の中では「内臓(温かい血)」そのものなのだろうなあ、と私は、理解するのではなく、納得するのである。

箱をあけても(どの箱をあけても
小さなひかりがひとのために揺れていた

空のように遠く”私”は迷路の曲がり角で
ひかりの気配を手の内に載せて
半壊の部屋に持ち帰った
隅では知らない小動物がきいきい声をあげて
モウホロビテモイイノカモシレナイと言う
滅びてもいいのかもしれないが
ひかりはホロビとかかわりなく
ひとの芯をいまもあたためるのだ

夢は たちの悪いものしか歩かなかった
それがわたしのなかを歩いていった
それなのにひかりは わたしを追って
ついてくるのです

 この3連目の「矛盾」の美しさ。「夢」が「わたし」なのか、「わたし」が「夢」なのか、「夢」が「わたし」のなかを歩く「たちの悪い」ものか、それとも「わたし」が「たちの悪い」ものとなって「夢」のなかを歩くのか。--たちの悪いものが「わたし」なのか、ひかりが「わたし」なのか。
 これは、わからなくてもいいのだ。詩なのだから、そのときそのときの(つまり、読んだときの)気分や都合で、どうとでも感じればいいのだ。相反するものに浸食され、そのふたつを同時に感じる--そういう「矛盾」の美しさのなかに隔離され、虚無と親しくなれば、その虚無が希望にも見えてくる。
 不思議だ。



 佐藤恵「浮球」には、動揺のように美しい5行があった。

月の果ての砂浜には
流れ着いた
浮球を抱いて
卵を捨てた鳥は
青い夢をみる

 「鳥」は佐藤自身なのかもしれない。「青い夢」の「青」は佐藤にしか見えない「青」である。そして、それが佐藤にしか見えない「青」なのに--あ、この「青」を美しいなあ、と私は感じる。それは、その「青」を見たい、と心底感じるということでもある。
 だれかのことば--そして、その「意味」のはっきりしないことばに出会い、そのことばの向こう側を見たいと心底感じることがある。その先にある「詩」を感じることがある。




ヒムル、割れた野原
野木 京子
思潮社


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大西若人「はかなき影が語るもの」

2011-03-02 22:52:28 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「はかなき影が語るもの」(「朝日新聞」2011年03月02日夕刊)

 朝日新聞に「水曜アート」というページがある。この欄の大西若人の文章はとても輝いている。約1年ほど大西若人の文章を読んでいなかった(ほかのページで書いていたかもしれないし、私が読み落としているかもしれないのだが……)。久々に読んだ。
 大西若人の文章は独特で、ページを開いて、その全体を眺めた瞬間に、あ、大西若人かな、と思う。漢字とひらがなのバランスが新聞記事らしくないのかもしれない。改行の構造が新聞らしくないのかもしれない。分析したことはないのだが、何か、目を誘うものがある。(私は目の手術をして以来、活字を読むのがとても苦手になったのだが。)
 きょうも、なんの期待もなく(もう大西の文章に出会えるとは思っていなかったので)、ページを開いて、瞬間的に、あ、と思い、署名を確かめたら、大西若人だった。

 影が美しいのは、張りつめた輪郭があるから。影がはかないのは、重力の離脱に成功しつつあるからなのだ。

 最後の「しつつあるからなのだ」が、古めかしくて、ださい。うるさい。けれども、やはりことばのバランスがとても美しい。「影が美しいのは」「影がはかないのは」という繰り返しとずれ、ずれというより意識の移行、うつろいか……を論理化する文章の構造も楽しい。
 大西若人の文章に欠点があるとすれば、ああ、そうだねえ、前にも書いたことがあるけれど、美術の紹介なのに、その肝心の美術作品を忘れてしまう。文章に惹きつけられてしまうということかもしれない。
 美術作品の紹介を通り越して、批評家の文章の領域の仕事をしているのだ。

 で、先の文章。何の紹介かというと、倉俣史朗「ブルーシャンパン」というテーブルの批評である。テーブルの紹介なのだが、まるで大西の文章にあわせてつくったテーブルに見えてしまう。写真は、Hiroyuki Hirai 。これもまた、大西の文章にあわせて撮った写真に見えてしまう。
 いいことかわるいことか、わからない。けれど、大西の文章がすばらしいことだけは確かである。
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誰も書かなかった西脇順三郎(188 )

2011-03-02 09:25:50 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『宝石の眠り』のつづき。「くのみの木」。私はこの詩がとても好きだ。まったく個人的な理由である。私があそんだ田舎の川の、その崖の方にくるみの木があって、まだ緑色の皮のついたくるみを河原の石でごしごしやって剥いて、それから石でたたきわって、青っぽいくるみの実を食べたことを思い出すからである。

夏の河原に
水たまりはあせている
土手をよこぎるかまきりは
黒い宝石を動かして
私の来るのを見ている
くるみの木は石にしがみついて
天使の睾丸のような
果実を
みどりの皮に包んで
人間の中で繁殖を考える
たそがれの皮の昔

 遠い記憶と重なるのは、風景だけではない。「天使の睾丸のような/果実」という比喩も、性にめざめるころの記憶と重なる。10代のはじめというのは、「もの」そのものではなく、ことば自体にも欲情してしまう。睾丸ということばに欲情するというと、まるでゲイのようだが、そのころのことばへの欲情というのは女の肉体、男の肉体とは関係がない。肉体を感じさせれば、それだけで欲情の対象になってしまう。「もっと突っ込んで考えろ」とか「挿入」とか「深く」とか、あらゆることばを、まだ知らないセックスと結びつけ、頭が欲情してしまうのである。
 そして、くるみ。「天使の睾丸」。くるみ。そのしわしわの硬い皮は、たしかに睾丸である。その睾丸に天使ということばが重なる不思議。あ、そんなふうにみたことはなかった。そんなふうに感じたことはなかった。そして、それはほんとうは感じてよかったことなのだ。感じなければならなかったことなのだ。
 このことばのあと、西脇は、「繁殖」ということを書いている。それは、私のことばで言いなおせばセックスにつながるけれど、それもまた不思議なことに、遠い昔の、欲情につながる。
 とてもとても、とてもなつかしい。
 そして、

土手をよこぎるかまきりは
黒い宝石を動かして

 この2行を、私は記憶のなかで、まったく別のものに作り替えていたことに気がつく。私は、かまきりではなくトカゲと記憶していた。土手ではなく、石の上と記憶していた。白く乾いた石の上をトカゲが動く。その影を、白い石の輝きとの対比を「宝石」と感じていた。そんなふうに記憶していた。
 それは、私の見た、ほんとうの記憶である。



西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会


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ウディ・アレン監督「人生万歳!」(★★★+★)

2011-03-02 01:34:19 | 映画
監督 ウディ・アレン 出演 ラリー・デヴィッド、エヴァン・レイチェル・ウッド

 奇妙になつかしい映画である。なぜなんだろうなあ、と思ったら、ニューヨークの映画だからだ。最近のウディ・アレンはマンハッタンを離れ、ヨーロッパに行ってしまっていたが、なぜか、ふたたびマンハッタン。ウディ・アレンにはやはりマンハッタンが似合う。
 私のまったくの個人的直感なのだけれど、アメリカの自由主義とヨーロッパの自由主義はまったく違う。アメリカの自由主義は、「全体自由主義」。個人個人が独立して自由というよりは自由な組織(国家)を思い描いている。ひとりひとりが自由であることができる国家を常に念頭に置いている。個人の自由を守るために国家があり、個人はその自由を守るために他者と連携するという感じ。けれども、ヨーロッパの自由主義は、国家(組織)から個人が自由であるという感じ。国家を必要としない自由。個人主義。別なことばでいうと、わがまま。
 で、私の感覚からいうと、ウディ・アレンの味はヨーロッパの自由、ヨーロッパの個人主義の匂いがする。個人で人生を生きる、という感覚。この映画の主人公はノーベル賞候補にもあがった物理学者という設定だが、それはようするに普遍的な知識・思考を個人の存在基盤にしていて、常に「知性」へ還ることで「個人」になる、他人と向き合うという生き方である。絶対的な「普遍」を常に自己の中にもっている。独善的な人間観察、批判なのだけれど、その「独善」のなかに、芯がある。「国家」などは関係ない。自分自身の「普遍」を基盤にして、そこから自己を拡大していく。そして、その過程で他者をつぎつぎに批判する。その結果がシニカル、クールである。他者との距離が、必然的に、彼のまわりに存在する。この「距離」がウディ・アレンの考える「自由」なのだ。ラリー・デヴィッドがウディ・アレンの思想を代弁している。
 そのヨーロッパ的個人主義がなぜマンハッタンに似合うのか。そこはだれでもがやってくる「都市」であり、「国家」ではないからだ。マンハッタンにはひとが住んでいると同時にひとが行き来するのだ。(ヨーロッパの街も、そこにひとが住んでいると同時に、そこではひとが行き来するのである。)この映画では、ひとが行き来するということがエヴァン・レイチェル・ウッドと彼女の両親によって象徴されている。マンハッタンに出てくることで、他人に出会い、それまでエヴァン・レイチェル・ウッドと両親を縛っていた「全体主義」としての「宗教」の呪縛を切り離し、一夫一婦制を切り離し、異性愛という制度を解体する。マンハッタンで、エヴァン・レイチェル・ウッドの「一家」は「一家」から解放され、個人になってしまう。
 行き来するひとは、常に他人と出会うということであり、他人と出会ったとき、「国家」の思想ではなく、「個人」の思想をもって他者とぶつかりあわなければならない。自分を守ってくれるのは、「母国」ではなく、彼自身の思想である。そういうことが起きるのが、マンハッタンという「都市」なのだ。ウディ・アレンは「国家」ではなく「都市」の思想を生きている。「都市」での生き方を描いている。
 ヨーロッパではあたりまえのことがアメリカではあたりまえではない。けれど、ニューヨーク、マンハッタンではあたりまえである。ニューヨークは、「世界の都市」なのである。パリやロンドンやバルセロナのように。--そして、ウディ・アレンの思想がいきいきするのは、やはり、常に「アメリカ」が侵入してくる街、マンハッタンなのである。エヴァン・レイチェル・ウッドの「一家」はパリやロンドンへはやってこない。けれど地つづきのマンハッタンへはやってくる。そこで衝突が起きる。人間の化学反応が起きるのである。
 あ、なんだか、面倒くさいことを書いてしまったなあ。ウディ・アレンのことばの洪水にやられてしまったのかもしれないなあ。もっとエヴァン・レイチェル・ウッドの「一家」の解体にそって書けばよかったのかもしれないなあ。「知性(自由なことば)」によって家族から解放される若い女、「芸術(写真)」によって個人の能力にめざめる母親、ゲイと出会うことで自分を取り戻す父親。--そこでは、ラリー・デヴィッド(ウディ・アレンの分身)は狂言回しである。
 ラリー・デヴィッドと出会うことで「個人」になっていく「一家」。そして「個人」になった彼らのまわりで新しく組み立てられる「距離」。二夫一婦(?)という三角関係。ゲイのカップル。そういう「関係」を受け入れる「街(都市)」としてのマンハッタン。それは、なにも超高層ビルの、超機能的なビルの林立するマンハッタンではなく、下町の、古いビル、緑のあふれるマンハッタンの風景である。マンハッタンは、昔から、そういう町だったのだ。
 この映画は、「人生」讃歌というよりも、ニューヨーク讃歌の映画なのである。なぜだかわからないが、私は、遠い遠いむかしにみたウディ・アレンの映画もふと思い出すのである。ダイアン・キートンの出ていたニューヨークの映画を思い出し、あ、なつかしいなあと思うのである。



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