詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平田好輝「門衛さん」

2011-03-08 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
平田好輝「門衛さん」(「鰐組」263 、2011年01月01日発行)

 平田好輝「門衛さん」は、坂多瑩子の「天井裏」と同じように、とっても変な詩である。ひとに勧められない(?)、特に子どもに勧められないようなものを含んでいる。

父の勤めていた工場には
門衛さんがいた
門のところに
小さな建物があって
その中にいつも坐っていた

門衛さんはいいなア
何もしなくていいのだから
楽ちんでいいなア
わたしが本気になって父に言うと
父はひどく不機嫌な顔を見せた
工場の中で
一番つまらん奴が門衛なのだと
父はツバでも吐くように言った

けれども わたしは
門衛さんにあこがれていた
将来あんな人間になりたいと
思っていた

 多くのひとが「父」と同じような考えかもしれない。仕事に貴賤はないとかなんとかいっては見ても、どこかで人間を比べている。そして、少しでも「つまらん奴」ではない方にいたいと思う。それはそれで、自然な考えではあるだろう。
 けれど、そういう考え(意味)から離れて、かってに動いていくことばがある。「自律」運動を生きてしまうことばがある。思いがある。「何もしなくていいのだから/楽ちんでいいなア」と、動いていく思いがある。
 この「自律運動」と、坂多の書いていた「ねずみ算」の計算の結果--だれもが消えてしまったという結果とは「違う」ものかもしれないが、私は、何か似たものを感じるのである。算数の計算の、計算そのもののなかにある自律して動いていく力、自律して動くことで「真理」をつかんでしまう力、「白い月」と同じような美しさに到達してしまう力が、平田の書いている「幼いこども」のことばのなかにあると感じるのだ。
 そのことばが自律してつかみとる美しさは、人間のくらしとは、かならずしもうまく合致しない。だからこそ、「父」はそれを絶対的な力で否定しようとする。
 でもねえ。
 自律することばは、そんな保守的な暴力には負けないのだ。

父の仕事の部屋に行くと
大勢の人が忙しそうに一日中働いていて
夜になって幾人かの人がうちに酒を飲みにきても
やはり工場のことばかり
怒鳴り合うように話していた

門衛さんはいつも
一日中何もしないで
静かに暮らしていた
昼どきになると
魚をジュージューと焼いて食べたりしていた

 ことばは、いつでも、どこでも、自律して動いていってしまう。子どものことばが、平田の書いているままの真実をつかみ取ったとしたら、多くの「父」はやっぱり叱るだろう。それは、まあ、どうしようもないことである。どうしようもないことであるからこそ、平田は、そこから離れて自律して動くことばがあるということを、こんなふうにして詩にするのことで守っているのである。


みごとな海棠―平田好輝詩集
平田 好輝
エイト社



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コメント (1)
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