詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉本徹「橇と籠」、竹内敏喜「木々の」

2011-03-22 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
杉本徹「橇と籠」、竹内敏喜「木々の」(「ムーンドロップ」14、2011年02月04日)

 杉本徹「橇と籠」はタイトルに違和感を感じて読みはじめた。どんな違和感かというと、音があわない、という違和感である。--これは、説明がとてもむずかしいのだが、「そりとかご」と音で聞いたとき、私はそれが何をあらわしているかわからないに違いないと思うということだ。音を聞いてもわからないことば、そのことばのつながり--そういうものに私は違和感を感じる。「そりとかご」。えっ、何と何? つながらないのだ。
 私は音痴のくせに(あるいは音痴だからなのか)、音にいつもつまずいてしまう。そうすると、妙に気持ちがいらだつのである。そのいらだちが違和感である。

あけがたの夢に載るだけの光の縞を登記した、事務机から林道へ--きのうの
雨に濡れて押し黙る樹皮と踊場は、一通のジョウビタキの飛来のために。陽を
縫えば極寒の海の色で空き缶もころがり、何度も試された口づての吃音を、見
上げれば過ぎる。日付変更線を追う枝鳴りの暗さが、その先のしたたりを秘密
の羽に、……颯と、消印として。

 この書き出しには、タイトルと同じような違和感がある。
 「雨に濡れて押し黙る樹皮」「陽を縫えば極寒の海の色」「何度も試された口づての吃音」は、とても美しい。先に書いたことと矛盾するかもしれないけれど、その音を聞いたとき、たぶん私はそれが何を言っているかわからないと思う。しかし、わからないはずのその音に酔ってしまう。わからなくていい、と感じてしまう。いつか、あるとき、きっとそれが瞬間的にわかるときがやってくる。それまで、それはその音であればいいと思うのだ。それは、そこにある音が、きっと美しいイメージにつながるという予感に満ちている。繰り返しているうちに、だんだんそのことばが描写するものが見えてくる。そして、見えてくるのだけれど、私は、それを見ない。見るのではなく、その音へ帰りたいと、激しく思うのだ。見えるもの、イメージなど、どうでもいい。それは音の付録である。
 「日付変更線を追う枝」(鳴り、は含まない)「したたりを秘密の」「消印として」も、それに近い。
 一方、「夢に載るだけの光の縞」「事務机から林道へ」「一通のジョウビタキの飛来のために」「空き缶もころがり」には、音がない。音がないというと、杉本にしかられるかもしれないが、私には音が聞こえない。ノイズでもない。こういう音の組み合わせを私は私の肉体をとおして聞いたことがない、発したことがない、と反発してしまうのである。「空き缶もころがり」くらいは、どこかで聞いているはずの音かもしれないが、「も」ではなく「が」、「空き缶がころがり」だったら、聞き逃したかもしれない。「も」であるために、私はつまずいたのである。
 こういうことは、杉本の責任(?)ではなく、私の肉体の問題なのだが、きのう書いたこととのつながりで書いておきたいと思ったのである。
 音が呼びあって、肉体のなかでつくる「意味」がある。その一方で、音が反発しあって、音が離れあって(?)--音が互いに遠ざかって行って、「意味」にならないことがある。「そりとかご」というタイトルはその「典型」である。「そり」という音と「かご」という音が、ふたつを結びつけるはずの「と」という音を中心にして、ぱっと離れてしまう。そして、そこに「文字」は残るのだが、音はまったく聞こえなくなる。そういうことが、私には起きるのだ。そして、その瞬間、私は難読症になった恐怖心に襲われる。

 だったら、書かなければいいのに……。

 そうだよね。書かなければいいのかもしれない。でも、書きたい。というのも、どうにも私には聞き取れない音がある一方、杉本のことばには不思議な美しさが同時に輝いている。何度が繰り返される「水脈(みお)、のち曇り、……」は、音になっていない「……」さえもが私の肉体に響いてくる。不思議な「無音」を呼び覚ます。
 とくに、次の3行が好きだ。

……それから道半ばを覆う黒い樹に眼をつむり、眼をひらき、わずかな陽の移
りに巧緻な歴史を読む。測候所の守衛が鷲であった日と問えば、彼の、眺め下
ろした雪の世がまぶしい。あれは風を孕む背嚢、辞書の一片など底で翻る。

 「眼をつむり、眼をひらき、わずかな陽の移り」の「わずかな」はだれもがつかう平凡な(?)ことばかもしれないが、ここではこの世で一回かぎりのような美しさだ。「わずかな」がいったいどれくらいの量、どれくらいの明るさなのか、何もわからない。けれど、そのわからない量、明るさが、とても静かに肉体のなかへ入ってきて、「わずかな」なのに、それが全体になる。それは、私の肉体のすみずみにまで広がっていくのか、あるいはまったく逆にその光にむかって私の肉体が収縮していくのかわからないが--きっと、それは同じことだろう--、うっとりしてしまうのだ。
 「わずかな」ということば、その音のなかで、私はどこまでも広がる光と、どこまでも収縮していく肉体という「矛盾」を体験する。それは、俳句のことばで言えば「遠心・求心」が結合したような「矛盾」である。そういう瞬間をくぐりぬけると、そのあとにつづくことば、その音は、どこまでも自由になる。「矛盾」は「矛盾」ではなく、「自由」と同義になる。

 --私の書いていることは、論理的ではない。だから、きょう私が書いていることは「批評」ではない。「批評」になっていない。
 それは、つまり、私が杉本の書いていることばを理解していないという意味でもある。たしかに私は「橇と籠」という作品のことばのほとんどを理解していない。理解していないけれど、その理解できないところに魅力を感じている。
 いつか、私が魅力を感じている部分について、私以外のだれかにわかる形で、きちんと書いてみたいと思う。書ける日がくるのではないかな、とも思っている。そのことを書く日のために、私は「意味」にならないことば、「批評」にならないことばをメモとして残しておくのである。



 竹内敏喜「木々の」は、杉本の音に比べると繊細な印象を欠いている。しかし、それは悪いことではない。不思議な強さがある。繊細には繊細の強さがあるが、そういうものとは完全に違ったゆったりした強さがある。

数十年も放ってあった病院まえの雑木林に
業者が入ると
そこへ、さっぱりした遊歩道ができた

 この「さっぱり」の、それこそさっぱりした強さ。何か、ひとの生き方(竹内の生き方)を感じさせる。あ、私は竹内という人間をまったく知らないのだけれど。そして、その「さっぱり」の前にある「そこへ、」の読点「、」の呼吸。その呼吸がもっている不思議な音、間、としての音が、竹内の強さなのだと思う。
 竹内のことば、その音は、間を持っている。それは杉本の「……」の無音とは違う。「無」を超越してそこにある。「無」を肉体で押さえつけているような感じである。(と、また、無責任に、私は感覚的なことばを並べるしかないのだが……)
 この読点「、」の不思議な間、間を越えてことばが音として動いていく感じは、そのあともつづく。

整備されると、なんのことはない
奥行き四〇メートル
道を歩けば一周一〇〇メートルほどで足りてしまう土地だ

みえないということは
いかにも人間の想像力を刺激するのだろうと
しみじみ、理解する仕儀となった

失われたものを惜しみ嘆く立場でもないから
休日の午後、妻が料理するあいだ
一歳児を抱いて遊歩道を進むたのしさ

風いろになった木々に吸い込まれて

 いいなあ、この音の大雑把な(?)余裕。何が起きようと肉体があって、その肉体がすべてを解決する。木々に吸い込まれるのさえ、肉体の呼吸、ことばとことば、音と音の間のひとつである。

 あ、これは、ちょっと失敗したなあ。書き方を間違えたなあ。あした、また、竹内の詩について書いてみたい。



ステーション・エデン
クリエーター情報なし
思潮社



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ウニー・ルコント監督「冬の小鳥」(★★★★)

2011-03-22 22:50:25 | 映画
監督 ウニー・ルコント 出演 キム・セロン、コ・アソン

 主役のキム・セロンがとてもすばらしい。父親に見捨てられ、それでも父親を愛している。自分を探しにきてくれると、祈りつづけている。そのために周囲にとけこまない。それだけのことを繰り返し描いているのだが、どの映像にも「演技」というか、わざとというものがない。ことばを拒絶し、自分にとじこもる。けれども、いま、ここで起きていることはしっかりとみつめる。その強い視線に圧倒される。
 普通なら(?)、涙、涙、涙……という展開になるのかもしれないが、涙を拒絶して、じつにさっぱりしている。見終わったあと、なぜ涙が流れないんだろう、なぜ悲しくないんだろう、と、それが不思議になる映画である。私は、映画ではめったに泣かないのだが、この映画は、安易な涙というものを完全に拒絶している。
 それが、まったく新しい。
 ストーリーとしては何度も映画になったような物語だが、どのシーンも涙を誘わない。少女の悲しみは痛いほどわかるのに、なぜか、泣けない。同情の涙を流すことを、少女が許してくれないのだ。少女の悲しみは、彼女自身のものなのだ。だれのものでもない悲しみ。悲しみをだれにも渡さないという覚悟で少女は生きている。そのことが伝わってくる。
 プレゼントの人形を壊し、自分のものだけではなく友達のものを壊すその絶望。「むしゃくしゃすることがあるなら布団をたたけ」と言われて、布団をたたきながら少女が泣くときも、その悲しみは、私の感情よりはるかに遠くにある。スクリーンにあるのではなく、そのむこうにある。少女の肉体のなかにある。そこからあふれては来ないのだ。
 クライマックス(?)の、小さなショベルで自分の墓を掘って自殺未遂をするシーンは、びっくりしてしまう。少女がやっていることはわかるのだが、その気持ちに追いついていかない。完全な孤独のなかで、少女はたったひとりで行動している。自分で自分の顔に土を被せ、苦しくなって、泥をはねのける。死ねなかったという事実を少女がみつめるとき、あ、少女が助かってよかったと思うよりも前に、すごい、この少女は「いきる」ということ、「死ぬ」ということの意味、それは個人がひとりでひきうけなければならないものなのだという哲学を理解したのだとわかり、打ちのめされる。ほっとするのでも、あ、よかったと思うのでもない。私は、打ちのめされて、ただただスクリーンをみつめるしかないのである。
 泥をはらいのける。そして、その泥のしたからあらわれる顔--その肌の色の、何にも汚れない美しさ。その黒い目の強い力。これには驚愕の映像である。いや、映像などとはいってはいけない。人間の、いのちの力そのものである。
 ひとはよく、その気持ち、よくわかる、というけれど、少女に言わせれば、「わかってたまるか」なのだろう。個人の感情というのは、絶対的なものなのだ。人とは触れあわないものなのだ。そして、その感情というのは、いつも肉体とともにあるのだ。少女は、彼女自身の感情を自分で守ると同時に、自分の肉体をも発見している。いのちをも発見している。そういうものを発見してしまう力に圧倒される。
 この発見のあと、少女は、やっと「甘える」というか、人に「頼る」ということを思い出す。捨てられるとも知らず、自転車の後ろで父の背中にしがみつていたときの、温かい感じ。それを、もう一度だれかにもとめてもいいのだと気がつく。そして、見知らぬ人、遠いフランスの会ったこともないひとの養子になることを決意する。
 この映画は監督の「自伝」ということだが、自己をきっちりとみつめる視線が、まことにすばらしい。どの映像も感情的にならず、つまり正直なものになっている。正直な力が、少女を少しずつ少しずつ丁寧におしていく。そうして、少女が少女が自然に動いていく。まるで森鴎外の文体を映像にしたような、正確ということばしか思い浮かばない、完璧な作品である。 



 福岡・KBCシネマでやっている「キネ旬ベスト10アンコール上映」の企画で見ることができた。こういう企画を、いろいろな映画館でやってもらえると助かる。
                              (KBCシネマ1)

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誰も書かなかった西脇順三郎(198 )

2011-03-22 10:38:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」。
 音のことばかり書いているので、ときには「意味」のことも。「意味」になるかたどうか、わからないけれど。

すべては亡びるために
できているということは
永遠の悲しみの悲しみだ
秋の日に野原を走るこの
悲しみの悲しみの悲しみの
すべての連結の喜びの
よろこびの苦しみになる
かも知れないまたの悲しみのかなしみ

 「悲しみ」ということばの繰り返しの途中に「喜び・よろこび」ということばが出てくる。これは「悲しみ」とは相いれないことばである。もうひとつ「苦しみ」も出てくるが、苦しくと悲しいは近いことばである。苦しくて悲しいという表現は一般的に成り立つ。喜びで悲しい(うれしくて悲しい)は、いっしょの次元ではなく(併存ではなく)、喜びの一方で悲しい気持ち、うれしいけれど悲しいという対立した(矛盾した)感じのときにかぎられる。
 けれど、西脇は、ここに「喜び」ということばを持ってくる。
 そのとき「連結」ということばをつかっている。「連結」は「併存」でも「対立(矛盾)」でもない。併存も対立も、そこに接点はあるだろうけれど、それは結び合ってはいない。

 詩を定義して、いままで存在しなかったものの出会い、かけはなれた「もの」の出会いという言い方があるが、西脇はその「出会い」を「連結」という状態にしてしまう。しっかり結びつけてしまう。
 ここに西脇のおもしろさがある。そして「日本語」のおもしろさがある。外国語を知らないから、私の感想は間違っているかもしれないが、日本語というのはなんでも「連結」してしまう。どんな外国語も、そのまま取り入れて、「併存」させるというより、日本語そのものに結びつけてしまう。
 日本語のなかにおいてでも、西脇は、この詩の「悲しみの悲しみの悲しみの」と「の」をつかうことで、どんどんことばを「連結」させてしまう。
 そうすると、そこから「喜び・よろこび」が生まれてくる--これが西脇の「哲学」なのだ。そして、その「喜び・よろこび」を、私の場合は「音」のおもしろさ、たのしさ、「音楽」として感じる、ということになるのかもしれない。

 ことばを「連結」するのが「喜び・よろこび」なら、いま、ここに、ふつうにあることばを「ほどく」(連結から解除する、結び目を解体する)というのも「喜び・よろこび」である。
 ことばがほどかれたとき、そのほどけめは乱れる。そこに乱調の美がある。
 しっかり結びつけられた結び目、その独特の形も美しいが、硬く結びつけられていたものが(がんじがらめにこんがらがっていたものが)、解きほぐされたとき--これもまたうれしくて、笑いだしたくなるねえ。

すつぱいソースを飲みにそれは
ザクロの実とセリとニラを
つきまぜた地獄の秋の香りがする
アベベが曲つたところから
左へ曲つて
花や実をつけたニシキギや
マサキのまがきをめぐつて
われわれは悲しみつづけた

 「アベベ」はエチオピアのマラソン選手だろう。東京オリンピックでアベベが走った道。そこを曲がる。ふいに、そこにはいないアベベを「連結」するとき、いまという「とき」がほどかれる。時間が自由になり、その解放感のなかでことばが自由になる。
 「連結」は「解体」(解放)でもあるのだ。





詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房



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