杉本徹「橇と籠」、竹内敏喜「木々の」(「ムーンドロップ」14、2011年02月04日)
杉本徹「橇と籠」はタイトルに違和感を感じて読みはじめた。どんな違和感かというと、音があわない、という違和感である。--これは、説明がとてもむずかしいのだが、「そりとかご」と音で聞いたとき、私はそれが何をあらわしているかわからないに違いないと思うということだ。音を聞いてもわからないことば、そのことばのつながり--そういうものに私は違和感を感じる。「そりとかご」。えっ、何と何? つながらないのだ。
私は音痴のくせに(あるいは音痴だからなのか)、音にいつもつまずいてしまう。そうすると、妙に気持ちがいらだつのである。そのいらだちが違和感である。
この書き出しには、タイトルと同じような違和感がある。
「雨に濡れて押し黙る樹皮」「陽を縫えば極寒の海の色」「何度も試された口づての吃音」は、とても美しい。先に書いたことと矛盾するかもしれないけれど、その音を聞いたとき、たぶん私はそれが何を言っているかわからないと思う。しかし、わからないはずのその音に酔ってしまう。わからなくていい、と感じてしまう。いつか、あるとき、きっとそれが瞬間的にわかるときがやってくる。それまで、それはその音であればいいと思うのだ。それは、そこにある音が、きっと美しいイメージにつながるという予感に満ちている。繰り返しているうちに、だんだんそのことばが描写するものが見えてくる。そして、見えてくるのだけれど、私は、それを見ない。見るのではなく、その音へ帰りたいと、激しく思うのだ。見えるもの、イメージなど、どうでもいい。それは音の付録である。
「日付変更線を追う枝」(鳴り、は含まない)「したたりを秘密の」「消印として」も、それに近い。
一方、「夢に載るだけの光の縞」「事務机から林道へ」「一通のジョウビタキの飛来のために」「空き缶もころがり」には、音がない。音がないというと、杉本にしかられるかもしれないが、私には音が聞こえない。ノイズでもない。こういう音の組み合わせを私は私の肉体をとおして聞いたことがない、発したことがない、と反発してしまうのである。「空き缶もころがり」くらいは、どこかで聞いているはずの音かもしれないが、「も」ではなく「が」、「空き缶がころがり」だったら、聞き逃したかもしれない。「も」であるために、私はつまずいたのである。
こういうことは、杉本の責任(?)ではなく、私の肉体の問題なのだが、きのう書いたこととのつながりで書いておきたいと思ったのである。
音が呼びあって、肉体のなかでつくる「意味」がある。その一方で、音が反発しあって、音が離れあって(?)--音が互いに遠ざかって行って、「意味」にならないことがある。「そりとかご」というタイトルはその「典型」である。「そり」という音と「かご」という音が、ふたつを結びつけるはずの「と」という音を中心にして、ぱっと離れてしまう。そして、そこに「文字」は残るのだが、音はまったく聞こえなくなる。そういうことが、私には起きるのだ。そして、その瞬間、私は難読症になった恐怖心に襲われる。
だったら、書かなければいいのに……。
そうだよね。書かなければいいのかもしれない。でも、書きたい。というのも、どうにも私には聞き取れない音がある一方、杉本のことばには不思議な美しさが同時に輝いている。何度が繰り返される「水脈(みお)、のち曇り、……」は、音になっていない「……」さえもが私の肉体に響いてくる。不思議な「無音」を呼び覚ます。
とくに、次の3行が好きだ。
「眼をつむり、眼をひらき、わずかな陽の移り」の「わずかな」はだれもがつかう平凡な(?)ことばかもしれないが、ここではこの世で一回かぎりのような美しさだ。「わずかな」がいったいどれくらいの量、どれくらいの明るさなのか、何もわからない。けれど、そのわからない量、明るさが、とても静かに肉体のなかへ入ってきて、「わずかな」なのに、それが全体になる。それは、私の肉体のすみずみにまで広がっていくのか、あるいはまったく逆にその光にむかって私の肉体が収縮していくのかわからないが--きっと、それは同じことだろう--、うっとりしてしまうのだ。
「わずかな」ということば、その音のなかで、私はどこまでも広がる光と、どこまでも収縮していく肉体という「矛盾」を体験する。それは、俳句のことばで言えば「遠心・求心」が結合したような「矛盾」である。そういう瞬間をくぐりぬけると、そのあとにつづくことば、その音は、どこまでも自由になる。「矛盾」は「矛盾」ではなく、「自由」と同義になる。
--私の書いていることは、論理的ではない。だから、きょう私が書いていることは「批評」ではない。「批評」になっていない。
それは、つまり、私が杉本の書いていることばを理解していないという意味でもある。たしかに私は「橇と籠」という作品のことばのほとんどを理解していない。理解していないけれど、その理解できないところに魅力を感じている。
いつか、私が魅力を感じている部分について、私以外のだれかにわかる形で、きちんと書いてみたいと思う。書ける日がくるのではないかな、とも思っている。そのことを書く日のために、私は「意味」にならないことば、「批評」にならないことばをメモとして残しておくのである。
*
竹内敏喜「木々の」は、杉本の音に比べると繊細な印象を欠いている。しかし、それは悪いことではない。不思議な強さがある。繊細には繊細の強さがあるが、そういうものとは完全に違ったゆったりした強さがある。
この「さっぱり」の、それこそさっぱりした強さ。何か、ひとの生き方(竹内の生き方)を感じさせる。あ、私は竹内という人間をまったく知らないのだけれど。そして、その「さっぱり」の前にある「そこへ、」の読点「、」の呼吸。その呼吸がもっている不思議な音、間、としての音が、竹内の強さなのだと思う。
竹内のことば、その音は、間を持っている。それは杉本の「……」の無音とは違う。「無」を超越してそこにある。「無」を肉体で押さえつけているような感じである。(と、また、無責任に、私は感覚的なことばを並べるしかないのだが……)
この読点「、」の不思議な間、間を越えてことばが音として動いていく感じは、そのあともつづく。
いいなあ、この音の大雑把な(?)余裕。何が起きようと肉体があって、その肉体がすべてを解決する。木々に吸い込まれるのさえ、肉体の呼吸、ことばとことば、音と音の間のひとつである。
あ、これは、ちょっと失敗したなあ。書き方を間違えたなあ。あした、また、竹内の詩について書いてみたい。
杉本徹「橇と籠」はタイトルに違和感を感じて読みはじめた。どんな違和感かというと、音があわない、という違和感である。--これは、説明がとてもむずかしいのだが、「そりとかご」と音で聞いたとき、私はそれが何をあらわしているかわからないに違いないと思うということだ。音を聞いてもわからないことば、そのことばのつながり--そういうものに私は違和感を感じる。「そりとかご」。えっ、何と何? つながらないのだ。
私は音痴のくせに(あるいは音痴だからなのか)、音にいつもつまずいてしまう。そうすると、妙に気持ちがいらだつのである。そのいらだちが違和感である。
あけがたの夢に載るだけの光の縞を登記した、事務机から林道へ--きのうの
雨に濡れて押し黙る樹皮と踊場は、一通のジョウビタキの飛来のために。陽を
縫えば極寒の海の色で空き缶もころがり、何度も試された口づての吃音を、見
上げれば過ぎる。日付変更線を追う枝鳴りの暗さが、その先のしたたりを秘密
の羽に、……颯と、消印として。
この書き出しには、タイトルと同じような違和感がある。
「雨に濡れて押し黙る樹皮」「陽を縫えば極寒の海の色」「何度も試された口づての吃音」は、とても美しい。先に書いたことと矛盾するかもしれないけれど、その音を聞いたとき、たぶん私はそれが何を言っているかわからないと思う。しかし、わからないはずのその音に酔ってしまう。わからなくていい、と感じてしまう。いつか、あるとき、きっとそれが瞬間的にわかるときがやってくる。それまで、それはその音であればいいと思うのだ。それは、そこにある音が、きっと美しいイメージにつながるという予感に満ちている。繰り返しているうちに、だんだんそのことばが描写するものが見えてくる。そして、見えてくるのだけれど、私は、それを見ない。見るのではなく、その音へ帰りたいと、激しく思うのだ。見えるもの、イメージなど、どうでもいい。それは音の付録である。
「日付変更線を追う枝」(鳴り、は含まない)「したたりを秘密の」「消印として」も、それに近い。
一方、「夢に載るだけの光の縞」「事務机から林道へ」「一通のジョウビタキの飛来のために」「空き缶もころがり」には、音がない。音がないというと、杉本にしかられるかもしれないが、私には音が聞こえない。ノイズでもない。こういう音の組み合わせを私は私の肉体をとおして聞いたことがない、発したことがない、と反発してしまうのである。「空き缶もころがり」くらいは、どこかで聞いているはずの音かもしれないが、「も」ではなく「が」、「空き缶がころがり」だったら、聞き逃したかもしれない。「も」であるために、私はつまずいたのである。
こういうことは、杉本の責任(?)ではなく、私の肉体の問題なのだが、きのう書いたこととのつながりで書いておきたいと思ったのである。
音が呼びあって、肉体のなかでつくる「意味」がある。その一方で、音が反発しあって、音が離れあって(?)--音が互いに遠ざかって行って、「意味」にならないことがある。「そりとかご」というタイトルはその「典型」である。「そり」という音と「かご」という音が、ふたつを結びつけるはずの「と」という音を中心にして、ぱっと離れてしまう。そして、そこに「文字」は残るのだが、音はまったく聞こえなくなる。そういうことが、私には起きるのだ。そして、その瞬間、私は難読症になった恐怖心に襲われる。
だったら、書かなければいいのに……。
そうだよね。書かなければいいのかもしれない。でも、書きたい。というのも、どうにも私には聞き取れない音がある一方、杉本のことばには不思議な美しさが同時に輝いている。何度が繰り返される「水脈(みお)、のち曇り、……」は、音になっていない「……」さえもが私の肉体に響いてくる。不思議な「無音」を呼び覚ます。
とくに、次の3行が好きだ。
……それから道半ばを覆う黒い樹に眼をつむり、眼をひらき、わずかな陽の移
りに巧緻な歴史を読む。測候所の守衛が鷲であった日と問えば、彼の、眺め下
ろした雪の世がまぶしい。あれは風を孕む背嚢、辞書の一片など底で翻る。
「眼をつむり、眼をひらき、わずかな陽の移り」の「わずかな」はだれもがつかう平凡な(?)ことばかもしれないが、ここではこの世で一回かぎりのような美しさだ。「わずかな」がいったいどれくらいの量、どれくらいの明るさなのか、何もわからない。けれど、そのわからない量、明るさが、とても静かに肉体のなかへ入ってきて、「わずかな」なのに、それが全体になる。それは、私の肉体のすみずみにまで広がっていくのか、あるいはまったく逆にその光にむかって私の肉体が収縮していくのかわからないが--きっと、それは同じことだろう--、うっとりしてしまうのだ。
「わずかな」ということば、その音のなかで、私はどこまでも広がる光と、どこまでも収縮していく肉体という「矛盾」を体験する。それは、俳句のことばで言えば「遠心・求心」が結合したような「矛盾」である。そういう瞬間をくぐりぬけると、そのあとにつづくことば、その音は、どこまでも自由になる。「矛盾」は「矛盾」ではなく、「自由」と同義になる。
--私の書いていることは、論理的ではない。だから、きょう私が書いていることは「批評」ではない。「批評」になっていない。
それは、つまり、私が杉本の書いていることばを理解していないという意味でもある。たしかに私は「橇と籠」という作品のことばのほとんどを理解していない。理解していないけれど、その理解できないところに魅力を感じている。
いつか、私が魅力を感じている部分について、私以外のだれかにわかる形で、きちんと書いてみたいと思う。書ける日がくるのではないかな、とも思っている。そのことを書く日のために、私は「意味」にならないことば、「批評」にならないことばをメモとして残しておくのである。
*
竹内敏喜「木々の」は、杉本の音に比べると繊細な印象を欠いている。しかし、それは悪いことではない。不思議な強さがある。繊細には繊細の強さがあるが、そういうものとは完全に違ったゆったりした強さがある。
数十年も放ってあった病院まえの雑木林に
業者が入ると
そこへ、さっぱりした遊歩道ができた
この「さっぱり」の、それこそさっぱりした強さ。何か、ひとの生き方(竹内の生き方)を感じさせる。あ、私は竹内という人間をまったく知らないのだけれど。そして、その「さっぱり」の前にある「そこへ、」の読点「、」の呼吸。その呼吸がもっている不思議な音、間、としての音が、竹内の強さなのだと思う。
竹内のことば、その音は、間を持っている。それは杉本の「……」の無音とは違う。「無」を超越してそこにある。「無」を肉体で押さえつけているような感じである。(と、また、無責任に、私は感覚的なことばを並べるしかないのだが……)
この読点「、」の不思議な間、間を越えてことばが音として動いていく感じは、そのあともつづく。
整備されると、なんのことはない
奥行き四〇メートル
道を歩けば一周一〇〇メートルほどで足りてしまう土地だ
みえないということは
いかにも人間の想像力を刺激するのだろうと
しみじみ、理解する仕儀となった
失われたものを惜しみ嘆く立場でもないから
休日の午後、妻が料理するあいだ
一歳児を抱いて遊歩道を進むたのしさ
風いろになった木々に吸い込まれて
いいなあ、この音の大雑把な(?)余裕。何が起きようと肉体があって、その肉体がすべてを解決する。木々に吸い込まれるのさえ、肉体の呼吸、ことばとことば、音と音の間のひとつである。
あ、これは、ちょっと失敗したなあ。書き方を間違えたなあ。あした、また、竹内の詩について書いてみたい。
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