詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中川佐和子「海辺の鳥の嘴を知って」、鳴海宥「匙と皿」

2011-03-24 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
中川佐和子「海辺の鳥の嘴を知って」、鳴海宥「匙と皿」(「カラ」10、2011年03月01日発行)

 中川佐和子「海辺の鳥の嘴を知って」は、詩のような前書きがついている短歌である。その前書きは、私には少しうるさく感じられた。だから、ここでは省略する。

停まるたび駅名読みて坐りおり電車の席が森ならいいのに

 これは上の「五七五」がおもしろい。季語が詠み込めれば俳句になるのかな? 「読みて」と「坐りおり」と動詞がふたつあるのを整理してくれると、気持ちがいい句になるだろうと思った。
 でも、中川は、その上の句ではなく、下の句の「森ならいいのに」の方を読者にとどけたいのかもしれない。電車の座席は森ではない、だからこそ森を思い描く--そのときの森はどこにあるのだろう。
 いま、ここには、ない。
 そのいま、ここにはないものを思い描くというこころが、なんとなく、なつかしい気持ちを呼び起こす。青春の悲しみを思い起こさせる。
 でも、これでは「意味」に引っ張られすぎているかもしれない。

冬海と富士を見てきて帰りたり海辺の鳥の嘴を知って

 冬海、富士という大きなものと鳥の嘴が意識のなかで拮抗する--その瞬間をおもしろいと思う。しかし、これもまた「意味」に引っ張られた読み方かもしれないなあ。
 一瞬、この歌はいいなあ、と思うのだが、どうしていいのかなあ、と思いはじめたときから、何か違った方向に意識が動いて行ってしまう。そういう変な体験をしてしまう。
 この歌も、「見てきて」と「帰りたり」「知って」と動詞が多いのが気になる。
 動詞にひっぱりまわされて、「鳥の嘴」が見えなくなってしまうのかもしれない。ことばを捨て去れば、きっとおもしろい短歌になるのだと思う。

夕暮れは冬も素足のままにきて海と陸との境を暗くす

 うーん。ここでも、私は、「意味」が多すぎるような気持ちになる。ことばが多すぎると思う。それは、何といえばいいのだろう、「説明」が多すぎるということかもしれない。
 「夕暮れは冬も素足のままにきて」というのは、「現代詩」だなあ、と思う。「境を暗くす(る)」の「境」にこだわるのも「現代詩」だと思う。
 「境を暗くす(る)」を「ひとつのことば」でいいきることができれば「素足」がとても生きてくると思う。ことばが多すぎて、素足が素足ではなくなってしまうような気がする。

 ほんとうは、ここに感心した、ここかおもしろい、とだけ書くつもりだったのだが、書いているうちに否定的なことばかり書いてしまったなあ。



 鳴海宥「匙と皿」は、音が非常におもしろい。

匙と皿さらなる悲運さしのぼる月にし浮かぶ食卓のうへ

 「さ」「し」「ら」「る」「の」「く」という音が入り乱れる。それは同じ音が繰り返されるわけだから、音の数そのものは減るということになるはずだが、不思議なことに、繰り返されることで音が増える、響きあう感じがして、あ、音が多い--と思うのである。音が溶け合わずに、ぶつかりあう。にぎやかである。
 歌の「意味」(情景?)は夜の食卓のむこうに月が昇ってきたくらいのことなのだろうけれど、その情景を忘れてしまうね。その情景など、きっとどうでもいい。その情景は、ここに書かれている音を定着させるためのものにすぎない。音の響きあい、にぎやかな交響曲--それを覚えやすくするための「道具」にすぎない。

目のなかにうつつを崩す雲ありき戒名はその背後に響き

 この歌も音が多い。「匙と皿」のように、同じ音が何度もでてくるわけではない。そういう意味ではほんとうに「音」の数(種類)が多いのかもしれない。--まあ、そういうことは、どうでもよくて……。
 その音が、この一首の「意味」を破壊して、動き回る。その結果、ことばの、その音の強さがとても印象に残る。私は音読をするわけではないのだが、あ、音がひとつひとつ粒立っていると感じる。それをおもしろいと思う。
 いいたとえではないかもしれないが、強烈な声をもった歌手の歌を聞いている感じである。歌にはもちろん「意味」はなるだろうけれど、歌を聞くとき、私は「意味」なんかどうでもいい感じで聞いている。「声」そのものを聞いている。「肉体」を聞いている。次はどんな「声」が出てくるのだろうと思う。その「声」に自分の肉体が反応するのを感じている。「意味」ではなく、「声」の強さに反応するのである。

フィブリノーゲンA1cのかなしさよおのが穿刺ののちなる博徒

 この歌では、私は「A1c」を読むことができない。「穿刺」も私の知らないことばだ。だから、「音」が聞こえない。そして、ふつうは、聞こえない音にであったとき私はそういうことばが嫌いなのだが、なぜか鳴海のこの歌の場合、えっ、これ、どういう音? 聞きたい、と思ってしまうのだ。
 ほかの歌の影響である。
 どの歌も、それぞれに強い音をもっている。強い音が「意味」をたたき壊しながら五七五七七を駆け抜ける。
 これはおもしろいなあ。正調か乱調か、見当もつかない。

だから道が、枝が、腐つた格言の海をただよふ皿また月を

少年の扉閉じられあるゆふべあな気丈なりその反抗期

 このことば、音の強さは、最近の「現代詩」ではみかけなくなったものだ。




中川佐和子歌集 (現代短歌文庫)
中川 佐和子
砂子屋書房
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誰も書かなかった西脇順三郎(200 )

2011-03-24 12:31:42 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「野原の夢」のつづき。

もうわからなくなつた
あのせせらぎのせせらぎの
そのせせらぎの
あの絃琴のせせらぎ!
ああまたわからなくなつた
オオ パ パイ
ああ あのすべては
すべてでなくなつた

 「もうわからなくなつた」。この1行がおもしろい。何かを感じる。感じるけれど、ことばにするとわからなくなる。わからなくなったと書くことで、「音」を隠してしまう「ことば」を取り払おうとしているように私には感じられる。
 「音」はことばになる。けれど「ことば」になってしまうと、「音」のほんとうの何か--「音」が「音」として生まれてくるときの動きが見えなくなる。「音」そのものが、どこか遠くへいってしまう。
 遠くへいってしまうことで「すべて」である「音」は「すべて」ではなくなる。単なることばになる。
 
ああ すべては流れている
またすべては流れている
ああ また生垣の後に
女の音がする
人間の苦しみの音がする
クルベの女が夢をみている
ああ また音がする
それはすべての音だ

これは確かに
すべての音だ
私は私でないものに
私を発見する音だ

 「音」、その最高のものを、「私は私でないものに/私を発見する音だ」と西脇は定義している。
 「音」のなかには「私」以前があるのだ。「私」が生まれてくる「場」があるのだ。「音」を通って、「私」は生まれてくる。しかも、それは「私」ではないことによって「私」になる。「私を発見する」。
 色でも形でも線でもない。「音」なのだ。それも女の「音」なのだ。

 そして、この「音」は、まだ「音楽」にはなっていない。「音楽」になっていないことによって、「音楽」を超えている。それは「音」がことばになっていないことによってことばを超越しているのに似ている--と、独断で書いておく。
 その「理由」「根拠」をつかみ取りたいけれど、私には、それができない。直感として、そう思うだけである。そういう直感を呼び覚ましてくれたのが、西脇順三郎の詩なのである。だから、私は西脇の詩について、ああでもない、こうでもないと、わけのわからないことを書いているのである。

 あ、何かを書き間違えた気がする。

私は私でないものに
私を発見する音だ

 この2行の不思議さは、「音」を消してみるとわかる。

私は私でないものに
私を発見する

 こう書いてしまうと、それは詩の「哲学」になる。「詩学」になる。詩はいつでも私が私ではないものに私を発見すること。他者(もの)のなかに私を発見し、私が他者(もの)になってしまうことである。
 その過程を、西脇は「音」ということばであらわしている。「音」という余分なことばをつけくわえることで書こうとしている。この「余分」、書かずにはいられないことばのなかに西脇が存在するのだ。
 ひとには、どうしても書かなければ気が済まないことばがある。
 また、自分には密着しすぎていて書き忘れてしまうことばがある。
 詩は、そういうことばのなかにある。




西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会



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