詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浦歌無子「K」、藤維夫「破鏡」

2011-03-13 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
浦歌無子「K」、藤維夫「破鏡」(「SEED」25、2011年03月05日発行)

 浦歌無子「K」について、書き残したことがある。書き出しの1行。

絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片耳聞こえなくなったイヤホンで

 ここには「絡んだコードを無理にいつも引っぱるから」と正確に書かれているにもかかわらず、その直後に「片耳」ということばがでてきた瞬間、私はコードを忘れてしまう。片方の耳が引っ張られと読み違えてしまう。「誤読」してしまう。
 きのう書いたことだが、コードを引っ張った結果として聞こえなくなったのは「片耳」ではない。耳は聞こえている。耳が聞こえなくなったのではなく、イヤホンから音がでなくなったのだが、浦はそうしたことを

絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片方音の出なくなったイヤホンで

 と書かない。「もの」と「肉体」を別個の存在として正確に(客観的に?)書くのではなく、「もの」の状態を「肉体」の状態に引きつけて書く。「肉体」を「もの」に滑り込ませ、「肉体」のことばとしてそこに存在させる。
 その力に引きずられ、「もの」ではなく「肉体」の方がみえてしまうのである。迫ってくるのである。絡んだコードを無理やりひっぱるのは、イヤホンを耳につける前のことかもしれない。けれど、「絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片耳聞こえなくなったイヤホンで」と書かれると、耳にイヤホンをさしたままコードを引っ張り、その結果耳もひっ張られて、そのついでに(?)、なんだか耳の奥--脳の中まで引っ張りだされる感じがするのである。
 コードがなければ、耳が引っ張られても脳の中は出てこない。耳の中にイヤホンがあり、それにコードがつながっているから、コードを引っ張ると耳が引っ張られ、その延長線上へと引っ張る力は伸びて行き、脳の中まで引っ張りださせる。
 この詩は、1行目に「音が出なくなった」ではなく「片耳聞こえなくなった」と書くことで、一気に、不思議な世界を納得させるのである。
 脳の中まで引っ張りだされれば、脳の中は狂ってしまう。狂ってしまえば、そこで見る世界はいままでと違っていて当然なのである。

絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片耳聞こえなくなったイヤホンで
オンガクを聴いている地下鉄車内(デイ トゥ デイ
と聞こえてきたところでK駅で降りそこなったことに気がついた

 しかし、そこで簡単に浦は「答え」を出さない。「片耳」と書いたことの理由を説明しない。「片耳」を引きずって、つまり「肉体」と「もの」との距離を、「肉体」からとらえ直しつづける。
 その結果、

Kの名前が出てこないかたちにならない
口を開けたまま息苦しくなって激しく咳き込むガタンゴトンと電車は走り続ける
ない
降りる駅がない
名前も忘れた形も色も手触りも匂いももう忘れた
なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから
ぴったりを全身に被せるくまなく密着させるD駅で降りる

 という濃密な浦ワールドが出現する。
 「Kの名前が出てこないかたちにならない/口を開けたまま息苦しくなって」は、「Kの名前が」脳から「出てこない」、脳からでてきてKという「かたちにならない」という意味であると同時に、口がKという音を出すかたちにならない、その結果、Kという名前が出てこないなのである。
 片耳を引っ張られ、脳の中が引っ張りだされ、そのために起きている「異変」を、浦は脳の問題(肉体の見えない部分の問題)ではなく、身近な「口」の問題に重ねて言語化するのだ。
 口は開いている。開いているのに、出そうとする音が喉につっかかって、あるいは舌が息を塞いで、苦しくなる--あ、まるで、夢のなかのできごとのようだ。
 肉体--しかも、あくまで手で触れることができ部分、目で見ることができる部分にこだわって、つまり、肉体を肉体で描写するのだ。
 この結果、ことばは変質する。その変質が、詩、なのだ。



 藤維夫「破鏡」の1連目。

待ちくたびれて庭を戻り
これから渡る橋が近くに見える
思いが深く 透明な思考の差ははなれる
犬も猫とともに恭順されたさみしい時間
どんな道順もわからないままの捨てられた道
いつもまたという繰り返しの瀬音が聞こえる

 「どんな道順もわからないままの捨てられた道」という1行が非常に美しい。まあ、こんな「道」は、世界にはない。これは、言い換えれば、藤が絶対に通らないであろう道のことである。道順がわからないから捨てられたのではなく、ほかの道順を知っているからその道を利用しないだけのことである。ここでの「捨てられた」は「意識」(思考)から捨てられた(除外された)ということになる。
 藤は、浦とは違って「精神(思考)」を基準にして世界をみつめるのである。
 2行目「これから渡る橋が近くに見える」には「見える(見る)」という肉体(目)と深く結びついたことばがある。「肉体」を除外して叙述すれば、2行目は「これから渡る橋が近くにある」になるはずである。そういう叙述が可能であるにもかかわらず、藤が「見える」ということばを選んだのは1行目の「戻り(戻る)」という動詞の影響があるからだ。「戻り」の主語(藤)が「見る」の主語でもある。そして、とても巧妙(?)なことに、藤は「肉体」と関係する「見る」を、「肉体」と切り離したかたち、「見える」と活用させている。「見える」は藤には「見える」であると同時に、藤以外の人間もその場に立てば「見える」--つまり客観的な事実として叙述することで、橋の存在を「ある」という「肉体」から離れた存在に近づけるのである。
 藤は「肉体」を描いても、それを引きずらない。浦のように「肉体」でことばを動かしてはいかない。「見る」を「見える」にかえるように、「肉体」を「思考」にかえるのである。

思いが深く 透明な思考の差ははなれる

 これは、「肉体」ではなく、思考の独立宣言のようなものである。そして、その思考にとって重要なことは「深く」あること。「深い」ことである。どこまで思考を深めることができるか。思考の深さが、藤の「肉体」なのである。深くなれば、それこそそこに不要なものも出てくるかもしれない。「どんな思考かもわからないまま捨てられてしまったことば」というものが出てくるかもしれない。しかし、藤は、「捨てられててしまったさことば」があることを思考としてつかみとっている。それが「捨てらられた道」という具体的な比喩になってあらわれてきている。
 比喩は、藤にとっては、ことばの肉体である。比喩によって、ことばを結晶化させ、思考がつかみとれる「もの」にかえるのだ。





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ウィリアム・ワイラー監督「大いなる西部」(★★★★)

2011-03-13 01:15:54 | 午前十時の映画祭
監督 ウィリアム・ワイラー 出演 グレゴリー・ペック、ジーン・シモンズ、キャロル・ベイカー、バール・アイヴス

 題材は西部劇だが、内容は西部劇じゃないなあ。何度か繰り返されるグレゴリー・ペックの台詞「自分の居場所はわかる(知っている)」が象徴的だが、まあ、なんというか説教臭い映画である。
 ウィリアム・ワイラーとしては異色の西部劇をつくってみたかったということなんだろうなあ。だから、主人公は東部の船乗り(船長)という「大いなる西部」とはまったく異質なものを狂言回しにしている。異質なものが西部にまぎれこむことで、西部の「本質」を浮かび上がらせているのだ。
 で、この狙いというか、意図を具現化しているのがバール・アイヴス。ヘネシー。ブロンコ谷の野蛮な一家の父親。太っていて醜く、たぶん教養もない、という設定。けれど、この親父は人の本質を見抜く。真実を生きている人間を見抜く。「正義」を見抜く。
 ひとは見かけで判断してはいけないんだねえ。
 彼が信じているのは、卑怯なことはしない。正々堂々と向き合い、真剣に勝負するのが男であるという思想である。それが、親父の「正義」である。彼は「正義」を実行している。いつでも、「正義」だけを実行する。
 この愚直なまでの「正義」のこころは、ときに悲劇を呼ぶ。
 卑劣な行為をする人間がいれば、それが自分の息子であろうと殺す。もちろん、殺したあと、親父は悲しむのだが、その悲しみはギリシャ悲劇のように感動的であり、同時に官能的である。正義の悲しみが、とても美しい。
 最後の少佐との決闘も、劇の結末をぐいと引き寄せ、結晶させる。そこにも「正義」の力がある。
 バール・アイヴスの演技をみていると、ウィリアム・ワイラーは、無法者を保安官が倒すという「正義」ではなく、カウボーイの「正義」、西部を開拓して生きる男の「正義」を描きたかったのだということがわかる。バール・アイヴスはウィリアム・ワイラーの思想を肉体で具体化している。
 この映画のもうひとつの見物は広大な風景である。
 ブロンコ谷(白い谷)の岩の美しさ。砂漠といっていいような荒地と、うねるような大地の起伏、そのどこかにある水。そして、光。その広大な世界を生きていくには、バール・アイヴスの「正義」が絶対必要なのだと感じさせてくれる。
 あるいは逆に言うべきなのか。
 「正義」によって、広大な土地が絶対的な美しさに変わっていく。バール・アイヴスの存在が、この西部劇の舞台そのものを完璧な美しい土地に変えてしまう。
              (「午前十時の映画祭」青シリーズ6本目、天神東宝)


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