浦歌無子「K」、藤維夫「破鏡」(「SEED」25、2011年03月05日発行)
浦歌無子「K」について、書き残したことがある。書き出しの1行。
ここには「絡んだコードを無理にいつも引っぱるから」と正確に書かれているにもかかわらず、その直後に「片耳」ということばがでてきた瞬間、私はコードを忘れてしまう。片方の耳が引っ張られと読み違えてしまう。「誤読」してしまう。
きのう書いたことだが、コードを引っ張った結果として聞こえなくなったのは「片耳」ではない。耳は聞こえている。耳が聞こえなくなったのではなく、イヤホンから音がでなくなったのだが、浦はそうしたことを
と書かない。「もの」と「肉体」を別個の存在として正確に(客観的に?)書くのではなく、「もの」の状態を「肉体」の状態に引きつけて書く。「肉体」を「もの」に滑り込ませ、「肉体」のことばとしてそこに存在させる。
その力に引きずられ、「もの」ではなく「肉体」の方がみえてしまうのである。迫ってくるのである。絡んだコードを無理やりひっぱるのは、イヤホンを耳につける前のことかもしれない。けれど、「絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片耳聞こえなくなったイヤホンで」と書かれると、耳にイヤホンをさしたままコードを引っ張り、その結果耳もひっ張られて、そのついでに(?)、なんだか耳の奥--脳の中まで引っ張りだされる感じがするのである。
コードがなければ、耳が引っ張られても脳の中は出てこない。耳の中にイヤホンがあり、それにコードがつながっているから、コードを引っ張ると耳が引っ張られ、その延長線上へと引っ張る力は伸びて行き、脳の中まで引っ張りださせる。
この詩は、1行目に「音が出なくなった」ではなく「片耳聞こえなくなった」と書くことで、一気に、不思議な世界を納得させるのである。
脳の中まで引っ張りだされれば、脳の中は狂ってしまう。狂ってしまえば、そこで見る世界はいままでと違っていて当然なのである。
しかし、そこで簡単に浦は「答え」を出さない。「片耳」と書いたことの理由を説明しない。「片耳」を引きずって、つまり「肉体」と「もの」との距離を、「肉体」からとらえ直しつづける。
その結果、
という濃密な浦ワールドが出現する。
「Kの名前が出てこないかたちにならない/口を開けたまま息苦しくなって」は、「Kの名前が」脳から「出てこない」、脳からでてきてKという「かたちにならない」という意味であると同時に、口がKという音を出すかたちにならない、その結果、Kという名前が出てこないなのである。
片耳を引っ張られ、脳の中が引っ張りだされ、そのために起きている「異変」を、浦は脳の問題(肉体の見えない部分の問題)ではなく、身近な「口」の問題に重ねて言語化するのだ。
口は開いている。開いているのに、出そうとする音が喉につっかかって、あるいは舌が息を塞いで、苦しくなる--あ、まるで、夢のなかのできごとのようだ。
肉体--しかも、あくまで手で触れることができ部分、目で見ることができる部分にこだわって、つまり、肉体を肉体で描写するのだ。
この結果、ことばは変質する。その変質が、詩、なのだ。
*
藤維夫「破鏡」の1連目。
「どんな道順もわからないままの捨てられた道」という1行が非常に美しい。まあ、こんな「道」は、世界にはない。これは、言い換えれば、藤が絶対に通らないであろう道のことである。道順がわからないから捨てられたのではなく、ほかの道順を知っているからその道を利用しないだけのことである。ここでの「捨てられた」は「意識」(思考)から捨てられた(除外された)ということになる。
藤は、浦とは違って「精神(思考)」を基準にして世界をみつめるのである。
2行目「これから渡る橋が近くに見える」には「見える(見る)」という肉体(目)と深く結びついたことばがある。「肉体」を除外して叙述すれば、2行目は「これから渡る橋が近くにある」になるはずである。そういう叙述が可能であるにもかかわらず、藤が「見える」ということばを選んだのは1行目の「戻り(戻る)」という動詞の影響があるからだ。「戻り」の主語(藤)が「見る」の主語でもある。そして、とても巧妙(?)なことに、藤は「肉体」と関係する「見る」を、「肉体」と切り離したかたち、「見える」と活用させている。「見える」は藤には「見える」であると同時に、藤以外の人間もその場に立てば「見える」--つまり客観的な事実として叙述することで、橋の存在を「ある」という「肉体」から離れた存在に近づけるのである。
藤は「肉体」を描いても、それを引きずらない。浦のように「肉体」でことばを動かしてはいかない。「見る」を「見える」にかえるように、「肉体」を「思考」にかえるのである。
これは、「肉体」ではなく、思考の独立宣言のようなものである。そして、その思考にとって重要なことは「深く」あること。「深い」ことである。どこまで思考を深めることができるか。思考の深さが、藤の「肉体」なのである。深くなれば、それこそそこに不要なものも出てくるかもしれない。「どんな思考かもわからないまま捨てられてしまったことば」というものが出てくるかもしれない。しかし、藤は、「捨てられててしまったさことば」があることを思考としてつかみとっている。それが「捨てらられた道」という具体的な比喩になってあらわれてきている。
比喩は、藤にとっては、ことばの肉体である。比喩によって、ことばを結晶化させ、思考がつかみとれる「もの」にかえるのだ。
浦歌無子「K」について、書き残したことがある。書き出しの1行。
絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片耳聞こえなくなったイヤホンで
ここには「絡んだコードを無理にいつも引っぱるから」と正確に書かれているにもかかわらず、その直後に「片耳」ということばがでてきた瞬間、私はコードを忘れてしまう。片方の耳が引っ張られと読み違えてしまう。「誤読」してしまう。
きのう書いたことだが、コードを引っ張った結果として聞こえなくなったのは「片耳」ではない。耳は聞こえている。耳が聞こえなくなったのではなく、イヤホンから音がでなくなったのだが、浦はそうしたことを
絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片方音の出なくなったイヤホンで
と書かない。「もの」と「肉体」を別個の存在として正確に(客観的に?)書くのではなく、「もの」の状態を「肉体」の状態に引きつけて書く。「肉体」を「もの」に滑り込ませ、「肉体」のことばとしてそこに存在させる。
その力に引きずられ、「もの」ではなく「肉体」の方がみえてしまうのである。迫ってくるのである。絡んだコードを無理やりひっぱるのは、イヤホンを耳につける前のことかもしれない。けれど、「絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片耳聞こえなくなったイヤホンで」と書かれると、耳にイヤホンをさしたままコードを引っ張り、その結果耳もひっ張られて、そのついでに(?)、なんだか耳の奥--脳の中まで引っ張りだされる感じがするのである。
コードがなければ、耳が引っ張られても脳の中は出てこない。耳の中にイヤホンがあり、それにコードがつながっているから、コードを引っ張ると耳が引っ張られ、その延長線上へと引っ張る力は伸びて行き、脳の中まで引っ張りださせる。
この詩は、1行目に「音が出なくなった」ではなく「片耳聞こえなくなった」と書くことで、一気に、不思議な世界を納得させるのである。
脳の中まで引っ張りだされれば、脳の中は狂ってしまう。狂ってしまえば、そこで見る世界はいままでと違っていて当然なのである。
絡んだコードを無理にいつも引っぱるから片耳聞こえなくなったイヤホンで
オンガクを聴いている地下鉄車内(デイ トゥ デイ
と聞こえてきたところでK駅で降りそこなったことに気がついた
しかし、そこで簡単に浦は「答え」を出さない。「片耳」と書いたことの理由を説明しない。「片耳」を引きずって、つまり「肉体」と「もの」との距離を、「肉体」からとらえ直しつづける。
その結果、
Kの名前が出てこないかたちにならない
口を開けたまま息苦しくなって激しく咳き込むガタンゴトンと電車は走り続ける
ない
降りる駅がない
名前も忘れた形も色も手触りも匂いももう忘れた
なくなった駅ひとつぶんの闇は全身の皮膚を覆うのにぴったりだったから
ぴったりを全身に被せるくまなく密着させるD駅で降りる
という濃密な浦ワールドが出現する。
「Kの名前が出てこないかたちにならない/口を開けたまま息苦しくなって」は、「Kの名前が」脳から「出てこない」、脳からでてきてKという「かたちにならない」という意味であると同時に、口がKという音を出すかたちにならない、その結果、Kという名前が出てこないなのである。
片耳を引っ張られ、脳の中が引っ張りだされ、そのために起きている「異変」を、浦は脳の問題(肉体の見えない部分の問題)ではなく、身近な「口」の問題に重ねて言語化するのだ。
口は開いている。開いているのに、出そうとする音が喉につっかかって、あるいは舌が息を塞いで、苦しくなる--あ、まるで、夢のなかのできごとのようだ。
肉体--しかも、あくまで手で触れることができ部分、目で見ることができる部分にこだわって、つまり、肉体を肉体で描写するのだ。
この結果、ことばは変質する。その変質が、詩、なのだ。
*
藤維夫「破鏡」の1連目。
待ちくたびれて庭を戻り
これから渡る橋が近くに見える
思いが深く 透明な思考の差ははなれる
犬も猫とともに恭順されたさみしい時間
どんな道順もわからないままの捨てられた道
いつもまたという繰り返しの瀬音が聞こえる
「どんな道順もわからないままの捨てられた道」という1行が非常に美しい。まあ、こんな「道」は、世界にはない。これは、言い換えれば、藤が絶対に通らないであろう道のことである。道順がわからないから捨てられたのではなく、ほかの道順を知っているからその道を利用しないだけのことである。ここでの「捨てられた」は「意識」(思考)から捨てられた(除外された)ということになる。
藤は、浦とは違って「精神(思考)」を基準にして世界をみつめるのである。
2行目「これから渡る橋が近くに見える」には「見える(見る)」という肉体(目)と深く結びついたことばがある。「肉体」を除外して叙述すれば、2行目は「これから渡る橋が近くにある」になるはずである。そういう叙述が可能であるにもかかわらず、藤が「見える」ということばを選んだのは1行目の「戻り(戻る)」という動詞の影響があるからだ。「戻り」の主語(藤)が「見る」の主語でもある。そして、とても巧妙(?)なことに、藤は「肉体」と関係する「見る」を、「肉体」と切り離したかたち、「見える」と活用させている。「見える」は藤には「見える」であると同時に、藤以外の人間もその場に立てば「見える」--つまり客観的な事実として叙述することで、橋の存在を「ある」という「肉体」から離れた存在に近づけるのである。
藤は「肉体」を描いても、それを引きずらない。浦のように「肉体」でことばを動かしてはいかない。「見る」を「見える」にかえるように、「肉体」を「思考」にかえるのである。
思いが深く 透明な思考の差ははなれる
これは、「肉体」ではなく、思考の独立宣言のようなものである。そして、その思考にとって重要なことは「深く」あること。「深い」ことである。どこまで思考を深めることができるか。思考の深さが、藤の「肉体」なのである。深くなれば、それこそそこに不要なものも出てくるかもしれない。「どんな思考かもわからないまま捨てられてしまったことば」というものが出てくるかもしれない。しかし、藤は、「捨てられててしまったさことば」があることを思考としてつかみとっている。それが「捨てらられた道」という具体的な比喩になってあらわれてきている。
比喩は、藤にとっては、ことばの肉体である。比喩によって、ことばを結晶化させ、思考がつかみとれる「もの」にかえるのだ。