詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

陳育虹「あなたに告げた」

2011-03-31 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
陳育虹「あなたに告げた」(佐藤普美子訳)ほか(「現代詩手帖」2011年03月号)

 翻訳の詩に対する感想は、どこまで書いていいのかわからない。私は外国語ができないし、雑誌に掲載されている作品はたいてい日本語だけだから、両方を比較して見ることもできない。読めないのに外国語の作品を掲載しても仕方がないではないかと思うかもしれないけれど……私はちょっと変な体験をしたことがある。イタロ・カルビーノのなんという小説かも忘れてしまったが、あるとき空港でペーパーバックを買った。飛行機のなかで読めない本を開いていたら、あ、これは美しいことばだなあ、気持ちのいい文体だなあ、と感じたのである。アルファベットをそれこそローマ字読みしているだけなのだが、集中して読めば何かがわかるかもしれない、と錯覚する。そういう音の美しさ、--音のとどこおりなさ、軽快な動きを感じたのだ。そういうことは、どの国語・外国語においても起きうることのように思えるのである。
 あ、何を書いているか、ちょっとわからない方向へずれていってしまったが--日本語で外国語の詩を読む。そのとき私が読んでいるのはあくまで日本語である。そして日本語の音に反応している。その音にうまく体がついていけないとき、もとの詩がどんなにすばらしいものであっても私にはなじめないものになる。逆に、その日本語が音として私の肉体を揺り動かせば、その詩が好きになる。だから、私の感想は、翻訳前の詩に対する感想ではなく、あくまで日本語の詩に対する感想になってしまう。そんなことを、私は、いま思っている。
 「現代詩手帖」の何篇かの作品では、私は佐藤普美子の訳している詩はどれもおもしろいと思った。
 松浦恒雄の訳は、どれもこれも苦手である。「意味」はわかるけれど、音が「意味」に重ならない。分離している。「意味」を追っているとき音は完全に消えてしまっていて、それが不気味である。--詩が、ではなく、私の肉体のなかで起きていることが気持ち悪いのである。
 佐藤の訳は、そういうことが起きない。音が肉体のすみずみにまで広がる。リズムが肉体をかってに動かす。
 「あなたに告げた」。

あなたに告げた私のひたい私の髪はあなたが恋しい
なぜなら雲は天上で毛繕いするから私のうなじ私の耳たぶはあなたが恋しい
なぜなら懸橋街や草橋通りはうら寂しげでなぜなら無伴奏のバッハが静かに町外れの
 河に滑り込むから
私の目さすらう目はあなたが恋しいなぜなら梧桐のスズメがみな舞い落ちるからなぜ
なら風はガラスの破片だから

 「なぜなら」ということばは堅苦しい。なぜ堅苦しいかというと「なぜなら」は「……だから」ということばを必要とし、その枠のなかでことばを動かすからである。(論理的?だからである。)けれど、その「枠」の存在が、逆にことばを自由にする。どんなふうに動いてもからなず「なぜなら……だから」という「音」のなかに入ってしまう。そして、その途中の「……」はもちろん「意味」ではあるのだけれど、「意味」でもない。
 特に、この詩のように「恋」を語る詩の場合、「……」に「意味」などない。ほんとうに恋をしているとき、ひとは「意味」なんか語らない。どれだけたくさん「……」を言えるかだけなのである。「……」の「意味」(中身?)が前に言ったことといま言ったこととが違っていてもまったくかまわない。ただ音が通過し、そのとき何かを動かせばそれでいいのだ。
 佐藤は、そういう「なぜなら……だから」を、単に「意味構造」(文章構造)として動かしているだけではなく、呼吸として動かしている。ことばのスピードに肉体の負荷をかけている。その感じも「恋」そのもの。性急さも、「恋」そのものなのだ。

あなたに告げた私のひたい私の髪はあなたが恋しい
なぜなら雲は天上で毛繕いするから私のうなじ私の耳たぶはあなたが恋しい

 この2行を、句読点をつかって散文化すると、「あなたに告げた。私のひたい、私の髪はあなたが恋しい。なぜなら雲は天上で毛繕いするから。私のうなじ私の耳たぶはあなたが恋しい。」ということになる。「なぜなら雲は天上で毛繕いするから私のうなじ私の耳たぶはあなたが恋しい」は「なぜなら雲は天上で毛繕いするから/私のうなじ私の耳たぶはあなたが恋しい」と切断されなければならない。けれど、佐藤は切断しない。接続というより密着させてしまう。そうすると、ことばが加速する。
 この詩は、私の○○はあなたが恋しい、なぜなら……だから、という構文が「並列」されて動いているはずなのに、その「並列」が、「直列」にかわって、まるで直列配置の電池のように、並列のときとはパワーが違ってしまう。そうして、「私の○○はあなたが恋しい、なぜなら……だから」の「……」が「意味」から消えてしまう。そこから、「声(肉体の音)」をとどけたいという苦しいような肉体の力があふれてくる。「直列」が一個一個の電池のパワーを跳び越えて巨大化するように、ことばを発するたびに、声にするたびに、「恋しい」という気持ちが「私」を超えて、飛び出していく。その「声」、その「肉体の音」が「恋」なのだ。
 佐藤の訳には、ことばを肉体で受け止め、動かしているという感じがする。その感じが「音」のなかに、「リズム」のなかにある。



 黄聖喜「アリスの家」(韓成礼訳)。韓の訳には、松浦の訳とも佐藤の訳とも違った音がある。韓国語で詩を書き、日本語でも詩を書く(自分で訳す)という体験がことばのなかで動いているのだろうか。音の動きが「外国」を感じさせない。感じさせない--と書いてしまうと、まあ、違うのだろうけれど、松浦や佐藤の訳と違って「意味」への意識があいまいになっている、気楽になっている感じがある。日本語になっていなくもいいじゃないか、私は韓国語の詩を母国語として読んでいるのだから--という自信のようなものがあるのかもしれない。ことばへの自信が音を伸びやかにしている。

揺れる水面に夜空が映る。
ヘッドライトをつけた自動車が近付く。
驚いた影たちが体の外へ飛び出す。

魚一匹が弁当を持って小走りする時の風景だ。

 「驚いた影たち」の「たち」がいいなあ。「影」の複数形って「たち」? そもそも「影」に複数形がある? いや、日本語そのものにも複数形なんて、ないんじゃない? だから、佐藤は「それらの」ということばをつかっていたじゃない? --などというのは、やめよう。(書いてしまったけれど。)
 「影たち」。そのことばが音になる瞬間、「日本語」が壊れるんだけれど、壊れながら、逆に私の「肉体」が生まれ変わるような感じもするなあ。そうか、影「たち」と言ってしまえばいいんだ。
 この「影たち」は、「文字」(印刷)で読むときよりも、耳で聞いたときの方が、鮮やかに飛び散るなあ。それこそ「体の外へ飛び出す」。とってもおもしろい。
 2連目の「小走り」もいいなあ。おいおい、魚に足があるかい? 足がないのに走るのかい? 魚は泳ぐんだろう? --原文はどういうものか知らないが、松浦恒雄には思いつかない訳だろうなあ。もし原文に「小走り」のような漢字(ハングルだから漢字ではないのだが、もし漢字で書かれた作品だとしたら、という過程である)の表記があったら、どうするだろう。「小走り」とつかってしまうか、魚は泳ぐものだからと逆にかえてしまうか……。悩むだろうなあ。でも、韓は、どんな悩みもみせず、ためらいもなく「小走り」とことばにしている。そういう強さを、句点「。」の打ち方を含めて強く感じた。



今月のお薦め。
1 池井昌樹「星工」
2 浦歌無子「K」
3 藤井五月「さかな」


現代詩手帖 2011年 03月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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デヴィッド・O・ラッセル監督「ザ・ファイター」(★★★★)

2011-03-31 09:47:21 | 映画
監督 デヴィッド・O・ラッセル 出演 マーク・ウォールバーグ、クリスチャン・ベール、エイミー・アダムス、メリッサ・レオ、ジャック・マッギー

 アカデミー賞の助演賞を獲得したので、クリスチャン・ベールとメリッサ・レオが注目されているが(もちろん 2人の演技はすばらしい。特に私はメリッサ・レオに感激してしまった)、マーク・ウォールバーグがとてもいい。クリスチャン・ベールとメリッサ・レオのエキセントリックな演技をしっかりと受け止めて、映画の骨格を支えている。
 「ブギーナイツ」のときから主役なのに、他の役者を押し退けて自己主張するというより、他の役者の演技を受け止めて映画の骨格をつくりあげるような渋い役者だったが、なんといえばいいのか、風格のようなものがある。オーラではなく、他人のオーラを受け止めて、他人を輝かせる。そして、知らないうちに、全体を支えている。
 マーク・ウォールバーグがいるから、クリスチャン・ベールとメリッサ・レオは、自由に逸脱できる。映画のストーリーそのままに、クリスチャン・ベールとメリッサ・レオは、映画からはみだしてゆく。スクリーンからはみだしてゆく。スクリーンから飛び出て、観客席の、その目の前にまでやってくる。
 長男を溺愛する母親、母親に溺愛され、まわりが見えなくなる長男。彼らにはそれぞれ「家族」があるのだけれど、それは付録という感じだ。ふたりだけで「愛」が完結している。その完結した「愛」のなかに他の家族を引きこむことが、ふたりにとっては「愛」そのものなのだ。
 ここで自己を確立するのは難しいなあ。ほかの姉たちのように、母親べったりになって、「母」と自分の見分けをなくしてしまうしかない。この「愛」のなかで、マーク・ウォールバーグはもがくわけだけれど、彼にとってむずかしいのは、母親よりも(? たぶん)、兄の方が重要であるということだ。兄をとおして母と向き合う。ボクサーとしての先輩である兄をとおして、母と向き合う。また、ボクシングをとおして母と向き合う。「家族」にとって「兄=ボクシング(ボクサー)」なので、どうしても、そんな構図になる。どうしても、そこにひとつ「クッション」がある。直接、母とは触れあえないのだ。
 マーク・ウォールバーグはリングで相手のボクサーと戦っているだけではなく、ボクシングという「もの」そのものと戦っている。向き合っている。この感じを、「敵」ではなく、そこにある「ボクシング」という「もの」と格闘している感じを、マーク・ウォールバーグは肉体で具体化する。一方で、クリスチャン・ベールとメリッサ・レオの演技と向き合いながら、それを越えてというか、それを統一するために「ボクシング」という「もの」と戦う。
 それもボクシングシーンで、それを具現化するのだけではない。ボクシングシーンもいいけれど、ボクシングをしていないシーンがいい。いつも「ボクシング」の影を引きずっているのだ。クリスチャン・ベールのボクシングがあくまでリングの上での戦いを現実のなかに引きずっている(これが、過去の栄光への未練という「こころ」としてあらわれてもいるのだが)のに対し、マーク・ウォールバーグは「試合(リングの上での肉体)」を現実に引きこむのではない。むしろ、リングの上の肉体を隠す。隠すことで、その底から静かにせり上がってくる「ボクシング」と戦う。
 マーク・ウォールバーグは「ボクシング」を乗り越えないことには「家族」に出会えないということを知っている。そういう哀しみを「肉体」にまとわせている。哀しみを隠している。まるで、その「肉体」をトレーナーや何かで押し隠すかのように、哀しみを「肉体」で、その静かな動きで、押し隠している。
 うーん。
 演技を通り越している。悲しいことにというべきなのかどうなのかわからないけれど、こういう演技は目を引きにくいね。でも、こういう演技にこそ、賞をやりたいねえ。ヒーローなのに、自分がヒーローであるのは兄と母のおかげとでもいうように、そっとわきに引いて、母と長男の絆を、さらには家族の絆を円満にし、その見えない要になっていく--あ、この映画は実話だというが、たぶん、その主人公の「人生」のなかにマーク・ウォールバーグはしっかり食い込んで肉体を動かしているんだねえ。
                     (2011年03月30日、福岡・中州大洋1)

3月のお薦め--今月は6本。
1 白いリボン(見逃したら一生後悔する)
2 再会の食卓
3 ザ・ファイター
4 アレクサンドリア
5 冬の小鳥
6 トゥルー・グリッド
   (「白いリボン」「冬の小鳥」は2010年公開作品。
     いまは、一般上映していないかもしれない。)
 


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