詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「天井裏」

2011-03-07 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「天井裏」(「鰐組」263 、2011年01月01日発行)

 坂多瑩子「天井裏」は、わからないところがある。ふと覗いてみた天井裏から、急に昔を思い出したのだろうか。天井裏と言えば、ねずみ、そしてねずみといえば子だくさん。それを利用(?)してつくられた「算数」の問題……。

むかしむかし
お正月にお母さんが子どもを12匹生みました
お父さんいれて14匹になりました
2月にそれぞれ12匹ずつ生みました
毎月それぞれが12匹ずつ生みました
死ぬことなんて
考えないでいいと先生が言ったから
どんどん計算していったら
だれもが消えてしまった
ここには生活がないから
やさしく
白い月がでている
一年たったら何匹になるでしょう

 ここには、不思議な「自律」の美しさがある。「ここには生活がない」と坂多は書いているが、「生活」を押し切って、ただ「論理」が動いていく美しさがある。算数の計算は純粋に計算である。「死ぬことなんて/考えなくていい」。数字と数字を積み重ねていく。そのとき、「人間」が消えていく。この人間が消えていくことを、美しいと思うかどうかは、まあ、むずかしい問題だけれど、私は美しいと思う。美しさとは、人間が消えてしまったところにあると思う。
 もちろんそれとはまったく逆の美しさ--人間の生活でありつづける美しさもあるのだが、生活を拒絶して、ことばが自律してしまう美しさもある。その自律は「白い月」のように、人間に対して配慮しない。人間の思いなど気にしない。
 坂多は、そういう美しさがあることを、どこかで自覚している。その美しさに深くかかわっていく詩人ではないのだが、それがあることはしっかり自覚している。そして、その美しさを「天井裏」と結びつけているところが、おもしろい。なるほどなあ、と感じさせる。
 坂多は「天井裏」ではなく「天井」の「下」で生きている。そうして、ときどき「天井裏」を覗いてみる。「生活」を生きる人間がだれもいない世界を覗いてみる。そうすると、ちょっと変なのである。天井裏と言うと、蜘蛛の巣なんかが張っていて、……。では、ないのである。順序が逆になるが、先の引用部分は詩の後半。詩は、ほんとうは次のように始まっている。

天井の板のすきまから見ると
辺り一面
アルミ板におおわれていて
あかるい
ゴミひとつなく
銀白色
走りたくなった

 実際に見た「天井裏」は美しかったのだ。予想外だったのだ。そして、そこからことばが走りはじめる。「走りたくなった」のは、坂多のことば自身である。そして、実際に、坂多のことばが走りはじめる。天井裏を坂多自身が走るわけにはいかないから、ことばがかわりに走るのだ。
 そうすると……。

前肢の爪があたって
すべる
一直線のところ
隅をこそこそ
隠れる場所もない

 あ、ことばが「ねずみ」になってしまっている。どうみても、その天井裏を天井裏ではなく、生きる場所として選んでいる「ねずみ」が走っている。いや、「すべ(って)る」。あ、それは、なんだか遊んでいるようにも見えるなあ。ねずみがぴかぴかの、銀白色の床の上で滑って遊んでいる。「隠れる場所」がないことも忘れて、夢中になっている。その夢中であることが、遊び。
 それを私は「遊び」の「自律」と呼びたい。

 で。

 これが、実は後半の「ねずみ算」の計算そのものにつながる。ねずみが毎月12匹ずつ子どもを産んでいく。1年で何匹になる? この計算にはなんの「意味」もない。ただの、計算である。計算のための計算である。なんの意味もないことを、坂多は「だれもが消えてしまった」といっているように思う。「意味」と「人間(だれか)」は重なるのである。
 そういう「意味」と無関係に、ただ、計算が計算として成り立つ。それと同じようにして、ことばがことばとして「成り立つ」、というか、自律して動いていく。そのとき、算数の中にある「美しさ」と通じるものが、ことばのなかにも動いている。
 そして、それは「白い月」と同じように、全体的な美しさなのだ。

 --うまく書けたかな? 私の思っていること、私が考えたことが、きちんと他人に伝わる形で書けたかな? よくわからない。
 萩原健次郎の「スミレ論」との関係で言えば(私はいつでもこんなふうにして強引に「誤読」のなかへ入っていくのだが)、萩原のことばと違って、坂多のことばは「自律」によって動いていく。その「自律」にこそ、私はいつも美しさを感じる。詩を感じるのだ。


人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする