黒住考子『道なりに』(編集工房ノア、2011年03月01日発行)
黒住考子『道なりに』は思い出を書いている。その書き方はとても静かである。新しくはないが、なつかしい感じがする。「現代詩」という範疇からは逸脱するかもしれない。けれど、これもまた詩である。
「原っぱ」。
1連目。妹、弟がいるひとなら、一度はそういうことを思ったかもしれない。姉はいつでも損である。妹や弟が泣けば、年上の姉が我慢しなければならない。「私ひとりがいい」そう思うのは無理はない。そういうことを、自然に、あたりまえのように書いている。その自然な文体が気持ちがいい。
そして、それが自然であるからこそ、2連目の、
が、美しく輝く。ひとりがいい--そう思ったはずなのに、泣き叫ぶ弟や妹が憎らしいはずなのに「まだ泣いているだろうか」「もう眠ったろうか」と気づかう。それはむりにする気遣いではなく、自然に動いてしまう気遣いなのである。
詩は、わざと書くものである--というのは西脇順三郎の哲学だが、その観点からすると、これは詩ではない。自然に書かれているからである。けれど美しい。自然に書かれていても美しいものは美しい。その自然は新しくはない。だから、美しい。
と、書きながら、何かを書き落としている気持ちになる。なんだろう。
「節分」という詩にであったとき、あっ、と思った。
最後の「今も」がいい。黒住は思い出を書いているのだが、それは「今も」はっきり見える「こと」なのである。それは、「過去」ではなく「今」なのである。
「原っぱ」の詩。「私ひとりがいい と思った」のは「過去」である。しかし、そのことばを書くとき、黒住にとってはその記憶は「今」である。「弟はまだ泣いているかしら/妹はもう眠ったろうか」と思ったのも、ほんとうは遠い「過去」である。けれど、その「こと」を書くとき、それは「今」なのだ。「今」という瞬間、時間が消えてしまう。--という言い方は少し乱暴だけれど、このときの「時間が消える」というのは……。
「私ひとりがいい と思った」とき(A)
「弟はまだ泣いていているかしら/妹はもう眠ったろうか(と思った)」とき(B)
というふたつの「とき」、つまりA-Bには「時間」という「間」があるはずなのに、、そのことばを書いているとき(C)から見つめなおすと、A-Cの「間」、B-Cの「間」は、ない、ということである。Aを書くときAとCはぴったり重なり、Bを書くときBとCはぴったり重なる。そこにあるはCという「とき」だけである。「C」のなかにAとBが噴出してくるのだ。
別な言い方をすると、AもBも、Cという「とき」に結びつけられて、Cとして存在しているだけなのだ。「時間」の「間」が消え、「とき」だけがあるのだ。
と、書きながら、あ、これは、どこかで感じたことだなあ……と思いながら詩集を読み返すと、あった。「木戸 プロローグ」の最終連。
黒住は「思い出」を書いているのではないのだ。「今」「ここ」で「思い出す」ということを書いている。そして、それは「一度」ではなく、「何度も」思い出す「思い出」なのだ。何度も何度も「過去」を「今」「ここ」にしっかりと結びつける。その「何度も」という繰り返しが黒住のことばから夾雑物を振るい落とし、ことばをまっすぐにし、自然にするのだ。
黒住考子『道なりに』は思い出を書いている。その書き方はとても静かである。新しくはないが、なつかしい感じがする。「現代詩」という範疇からは逸脱するかもしれない。けれど、これもまた詩である。
「原っぱ」。
ある日
妹が大泣きしていた
弟も泣きながらわめいていた
私は広げっぱなしのおもちゃの中に立ち上がり
私ひとりがいい と思った
友達のいる原っぱへ出かけた
それから町はずれの丘へ探検隊に加わって
小高い丘から町を見下ろした
私の家は原っぱの向こうの家並みの右から三軒目
おもちゃみたいに小さい
あそこで弟はまだ泣いているかしら
妹はもう眠ったろうか
1連目。妹、弟がいるひとなら、一度はそういうことを思ったかもしれない。姉はいつでも損である。妹や弟が泣けば、年上の姉が我慢しなければならない。「私ひとりがいい」そう思うのは無理はない。そういうことを、自然に、あたりまえのように書いている。その自然な文体が気持ちがいい。
そして、それが自然であるからこそ、2連目の、
あそこで弟はまだ泣いているかしら
妹はもう眠ったろうか
が、美しく輝く。ひとりがいい--そう思ったはずなのに、泣き叫ぶ弟や妹が憎らしいはずなのに「まだ泣いているだろうか」「もう眠ったろうか」と気づかう。それはむりにする気遣いではなく、自然に動いてしまう気遣いなのである。
詩は、わざと書くものである--というのは西脇順三郎の哲学だが、その観点からすると、これは詩ではない。自然に書かれているからである。けれど美しい。自然に書かれていても美しいものは美しい。その自然は新しくはない。だから、美しい。
と、書きながら、何かを書き落としている気持ちになる。なんだろう。
「節分」という詩にであったとき、あっ、と思った。
夕食がすむと母は目配せをして
子供たちの籠に炒り豆を入れてくれる
仏間 茶の間 台所 廊下から玄関へ
唱えながらひょいひょいと豆を撒く父
後に連なる子供たち
最後に雨戸を開けて ぱっくり開いた闇へ
力を込めて豆を放つ 放つ
それから皆で神妙に歳の数だけ豆を食べる
よーくかみなさいと母
節分からしばらくは
廊下の隅にころころと豆
今も
最後の「今も」がいい。黒住は思い出を書いているのだが、それは「今も」はっきり見える「こと」なのである。それは、「過去」ではなく「今」なのである。
「原っぱ」の詩。「私ひとりがいい と思った」のは「過去」である。しかし、そのことばを書くとき、黒住にとってはその記憶は「今」である。「弟はまだ泣いているかしら/妹はもう眠ったろうか」と思ったのも、ほんとうは遠い「過去」である。けれど、その「こと」を書くとき、それは「今」なのだ。「今」という瞬間、時間が消えてしまう。--という言い方は少し乱暴だけれど、このときの「時間が消える」というのは……。
「私ひとりがいい と思った」とき(A)
「弟はまだ泣いていているかしら/妹はもう眠ったろうか(と思った)」とき(B)
というふたつの「とき」、つまりA-Bには「時間」という「間」があるはずなのに、、そのことばを書いているとき(C)から見つめなおすと、A-Cの「間」、B-Cの「間」は、ない、ということである。Aを書くときAとCはぴったり重なり、Bを書くときBとCはぴったり重なる。そこにあるはCという「とき」だけである。「C」のなかにAとBが噴出してくるのだ。
別な言い方をすると、AもBも、Cという「とき」に結びつけられて、Cとして存在しているだけなのだ。「時間」の「間」が消え、「とき」だけがあるのだ。
と、書きながら、あ、これは、どこかで感じたことだなあ……と思いながら詩集を読み返すと、あった。「木戸 プロローグ」の最終連。
ひそやかに木戸の前に立ち
かすかな音を軋ませて押し開き
踏み出した 何度も
そして今ここに立ち止まっている
黒住は「思い出」を書いているのではないのだ。「今」「ここ」で「思い出す」ということを書いている。そして、それは「一度」ではなく、「何度も」思い出す「思い出」なのだ。何度も何度も「過去」を「今」「ここ」にしっかりと結びつける。その「何度も」という繰り返しが黒住のことばから夾雑物を振るい落とし、ことばをまっすぐにし、自然にするのだ。