詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

黒住考子『道なりに』

2011-03-01 23:59:59 | 詩集
黒住考子『道なりに』(編集工房ノア、2011年03月01日発行)

 黒住考子『道なりに』は思い出を書いている。その書き方はとても静かである。新しくはないが、なつかしい感じがする。「現代詩」という範疇からは逸脱するかもしれない。けれど、これもまた詩である。
 「原っぱ」。

ある日
妹が大泣きしていた
弟も泣きながらわめいていた
私は広げっぱなしのおもちゃの中に立ち上がり
私ひとりがいい と思った

友達のいる原っぱへ出かけた
それから町はずれの丘へ探検隊に加わって
小高い丘から町を見下ろした
私の家は原っぱの向こうの家並みの右から三軒目
おもちゃみたいに小さい
あそこで弟はまだ泣いているかしら
妹はもう眠ったろうか

 1連目。妹、弟がいるひとなら、一度はそういうことを思ったかもしれない。姉はいつでも損である。妹や弟が泣けば、年上の姉が我慢しなければならない。「私ひとりがいい」そう思うのは無理はない。そういうことを、自然に、あたりまえのように書いている。その自然な文体が気持ちがいい。
 そして、それが自然であるからこそ、2連目の、

あそこで弟はまだ泣いているかしら
妹はもう眠ったろうか

 が、美しく輝く。ひとりがいい--そう思ったはずなのに、泣き叫ぶ弟や妹が憎らしいはずなのに「まだ泣いているだろうか」「もう眠ったろうか」と気づかう。それはむりにする気遣いではなく、自然に動いてしまう気遣いなのである。
 詩は、わざと書くものである--というのは西脇順三郎の哲学だが、その観点からすると、これは詩ではない。自然に書かれているからである。けれど美しい。自然に書かれていても美しいものは美しい。その自然は新しくはない。だから、美しい。
 と、書きながら、何かを書き落としている気持ちになる。なんだろう。
 「節分」という詩にであったとき、あっ、と思った。

夕食がすむと母は目配せをして
子供たちの籠に炒り豆を入れてくれる
仏間 茶の間 台所 廊下から玄関へ
唱えながらひょいひょいと豆を撒く父
後に連なる子供たち
最後に雨戸を開けて ぱっくり開いた闇へ
力を込めて豆を放つ 放つ
それから皆で神妙に歳の数だけ豆を食べる
よーくかみなさいと母

節分からしばらくは
廊下の隅にころころと豆
今も

 最後の「今も」がいい。黒住は思い出を書いているのだが、それは「今も」はっきり見える「こと」なのである。それは、「過去」ではなく「今」なのである。
 「原っぱ」の詩。「私ひとりがいい と思った」のは「過去」である。しかし、そのことばを書くとき、黒住にとってはその記憶は「今」である。「弟はまだ泣いているかしら/妹はもう眠ったろうか」と思ったのも、ほんとうは遠い「過去」である。けれど、その「こと」を書くとき、それは「今」なのだ。「今」という瞬間、時間が消えてしまう。--という言い方は少し乱暴だけれど、このときの「時間が消える」というのは……。
 「私ひとりがいい と思った」とき(A)
 「弟はまだ泣いていているかしら/妹はもう眠ったろうか(と思った)」とき(B)
 というふたつの「とき」、つまりA-Bには「時間」という「間」があるはずなのに、、そのことばを書いているとき(C)から見つめなおすと、A-Cの「間」、B-Cの「間」は、ない、ということである。Aを書くときAとCはぴったり重なり、Bを書くときBとCはぴったり重なる。そこにあるはCという「とき」だけである。「C」のなかにAとBが噴出してくるのだ。
 別な言い方をすると、AもBも、Cという「とき」に結びつけられて、Cとして存在しているだけなのだ。「時間」の「間」が消え、「とき」だけがあるのだ。
 と、書きながら、あ、これは、どこかで感じたことだなあ……と思いながら詩集を読み返すと、あった。「木戸 プロローグ」の最終連。

ひそやかに木戸の前に立ち
かすかな音を軋ませて押し開き
踏み出した 何度も
そして今ここに立ち止まっている

 黒住は「思い出」を書いているのではないのだ。「今」「ここ」で「思い出す」ということを書いている。そして、それは「一度」ではなく、「何度も」思い出す「思い出」なのだ。何度も何度も「過去」を「今」「ここ」にしっかりと結びつける。その「何度も」という繰り返しが黒住のことばから夾雑物を振るい落とし、ことばをまっすぐにし、自然にするのだ。


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誰も書かなかった西脇順三郎(187 )

2011-03-01 10:24:57 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『宝石の眠り』のつづき。「イタリア紀行」の書き出し。

疲れた若い
労働者の夫婦が
窓のところへ椅子を
引き寄せて
トスカーナの野に沈む
太陽を
淋しそうに
見ていた

 すばやく書かれたスケッチのように感じられる。この連では「引き寄せて」という1行にひきつけられる。
 西脇は、若い夫婦が実際に椅子を引き寄せる瞬間を見たわけではないだろう。西脇が見たときは、すでに椅子は窓辺にあって、ふたりは椅子にすわっていただろう。けれど、それを「窓辺の椅子にすわって」にしてしまうと、とてもつまらなくなる。スケッチが止まってしまう。そこではひとが動いていないのだが、その動いていない現実の中へ「過去」をもってくる。過去という「下絵」をわざとすかしてみせる。そうするとそこに「時間」が生まれ、「淋しそう(淋しさ)」が時間に関係していることがわかってくる。

「ローマの休日」にも、肉体の動きを強く感じさせる部分がある。

烏も雀も鶏も
いないが
寺院のチャイムがある
踵の感覚は
材木から大理石へと変化した

 歩き回っている。そのとき足が感じる通りの変化。足裏ではなく、「踵」とより限定的にことばを動かすことで、まるで歩いている感じになる。そして、ここでは肉体の動きは、単に筋肉の動きではなく、肉体の内部を動く「感覚」というのもおもしろい。
 こういう感覚--感覚の覚醒が、そして、実は「脳髄」の運動へとつながっていくというのが西脇の特徴である。(逆もある。つまり脳髄の運動のあとに、それを解放する肉体の運動がくる、という動きもある。)
 詩のつぎき。

ニイチェのように眠られない
眠ることは芸術だ
芥子粒は魔術だ
今日は
マルコニー侯爵婦人の名前の
スペリングを間違えたから
謝りに行かなければ
ならない

 踵からニイチェへ。芸術へ。そしてスペリングのミス。この変化に、肉体の運動が響きあっている。



西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会



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