詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「星工」(追加)、黒岩隆「水仙忌」

2011-03-21 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「星工」(追加)、黒岩隆「水仙忌」(「歴程」573 、2011年02月20日発行)

 池井昌樹「星工」について、書き漏らしたことがある。書こうとして書けなかったこと、がある。
  生きている過程で「知らないこと」「知れないこと」というのはたくさんある。そしてその「知らないこと」「知れないこと」は、それ自体はわからないのに、何か別なもののなかで生きていて、それももちろん「知らないこと」「知れないこと」なのに、何かがわかる--そう感じることがある。
 あ、これでは抽象的過ぎるね。

ふるさとのしおたのうらのとまやには
だれがすもうていたかしらない
だれがすもうていたのかしれない
とんてんかんてんとんてんかん
ふるさとのしおたのうらのとまやでは
なにがなされていたかしらない
なにがなされていたのかしれない
とんてんかんてんとんてんかん
 
 この詩の書き出し。ふるさとのしおたのとまやに、だれが住んでいるのか、何がおこなわれていたのか、それは「知らない」(知れない)。そのとまやでわかることといえば、「とんてんかんてんとんてんかん」という音なのだ。とまやは、そのとき建物であると同時に音なのだ。その音がいったい何によるものか、だれが住み、何をすることによって起きる音なのかは「知らない」(知れない)が、その音だけははっきりと耳を通って肉体のなかに入ってくる。もちろん、そのときとまやの何かは目を通って、やはり肉体のなかに入っているのだけれど、池井はそのことを書いていない。ただ、「音」を書いている。
 そして、このとき「音」というのは不思議な働きをする。「音」にあわせて、肉体の何かが動く。「音」を聞くとき、肉体は動くのだ。
 あ、これも、たぶんもっと丁寧な説明がいることかもしれない。もちろん肉体の反応というのは個人差があるだろうから、これは私だけのことかもしれない。したがって、池井とは無関係なことなのかもしれないが……。
 何かを見る--見たものが肉体のなかに入ってくる。そのとき、私の肉体は動かない。ある風景を見る。そのとき、私はただそれを見る。もし、それを再現しようとするならば紙が必要になり、筆が必要になる。筆をつかうとき、私の肉体は(腕は)動くだろうが、紙も筆もないとき、私はただ、それを見つめているだけである。あとで絵に描いてみようと思って、じーっと見続けるということはあるかもしれない。
 ところが聞くということは、見るということとまったく違う。聞く。そして、その音が肉体に入ってくる。それを私は喉や口をつかって声に出してみることができる。そして、その声に出した音を耳でもう一度聞く。それはもちろんそっくりそのままの音ではない。正確な音ではない。けれど、とりあえず、声、音として「記憶」することができる。また、人につたえることができる。
 記憶する、つたえるということなら、見たものも「どこそこの浦の東側、友達の家の近くに塩田があって、その広さは……」と言うことができるかもしれない。けれど、それは「見る」ではなく、いったん「ことば」にしている。「音」にしている。視覚をそのまま肉体で再現し、それを自分の記憶にすることはできないし、その視覚を他人につたえることはできない。
 音--聴覚(同時に、発声)というのは、視覚とは違った力を持っているのである。
 音は肉体のなかにはいり、それから声として出ていくとき(そして、その声を音として聞き直すとき)、肉体に「意味」の傷跡を残していくのである。「意味」がわからなくても、その「音」から肉体は「意味」を感じ取ってしまうのである。肉体のなかに、「音」が「意味」を知らず知らずに蓄積するのである。
 視覚にもし、その音に重なるものがあるとすれば「色」がそうかもしれない。「色」が「肉体」に「意味」を残すのである。
 このときの「音」(色)には、もちろん個人的な体験だけではなく、その「音」(色)をつかう人々の共通の感覚が反映され、そこから「意味」が出てくるのだけれど……。
 寄り道が長くなったけれど……。
 とまやにだれが住んでいるのか、何をしているか知らない。けれど「とんてんかんてんとんてんかん」という音がしていることは知っている。そして、そこから聞こえる音を「とんてんかんてんとんてんかん」ということばにした瞬間、肉体のなかに何かが刻印されるのである。その音に「意味」(頭で定義し直すことのできることがら)はないのだけれど、肉体は感じるのだ。あ、これは、あのときの音だと。聞いたことがある、と、わかってしまうのだ。
 わかるといっても、もちろん、正確ではない。ぼんやりである。しかし、そのぼんやりが繰り返されると、だんだんぼんやりではなくなる。たしかなことになる。
 耳は、見えないことを知ってしまうのである。
 音のなかには、見えないものが動いている。

 池井は、この詩のなかで何度も「とんてんかんてんとんてんかん」を繰り返している。繰り返すことで、肉体の奥へ奥へとさかのぼっている。肉体の「ふるさと」へ帰っていく。
 「とんてんかんてんとんてんかん」という「音」は、その弾むような響きだけで独立しているわけではない。「とんてんかんてんとんてんかん」のまわりには、次のような音もある。

うしろゆびさしこえひそめ
おしえてくれたそのちちも
みまかりてはやときはゆき
とんてんかんてんとんてんかん
ふるさとのしおたのうらのしらさびた
とまやはいまもゆねのうち
だれがすもうているのやら
なにがなされているのやら

 う「し」ろゆびさ「し」こえひそめ、ふるさとの「し」おたのうらの「し」らさびた、ふるさとのしおたのう「ら」のし「ら」さびた--という具合に繰り返される音。「しらさびた」ということばのなかで交錯する母音「あ・い」、前後する「さ行」。それが「ひそめ」という音とも響きあう。呼びあう。
 それは、私に、何かしら、悲しいもの、悲しいけれど避けることのできない何かとして、肉体に影を落とす。
 音は音自体で「意味」を持つのだ。

 その「意味」を突き抜けて(突き抜けるところまで、耳を澄まして)、池井の声は「ほしづくり」という「宇宙」に飛び出していく。
 「とんてんかんてんとんてんかん」から「ほしづくり」への飛躍、飛翔。それを、池井は、具体的には説明していない。どうして「とんてんかんてんとんてんかん」が「ほしづくり」か、何も書かない。--それは、書けないのだ。池井の肉体だけが知っている「企業秘密」なのだ。

ふるさとのしおたのうらのとまやには
だれがすもうていたかしらない
だれがすもうていたのかしれない

という音の微妙な連続感じ。それとは対照的な

とんてんかんてんとんてんかん

 という音。それを繰り返し繰り返し肉体のなかにいれながら、池井は「ほしづくり」へと動いていく。なぜ、そうなのか、わからない。けれど、「ほしづくり」と聞くと、ああ、そうなのだと納得してしまう。
 この納得を、私は、ほんとうは書かなければならないのかもしれないが、どうにも書けない。あ、そうなのだ、と思うことしかできない。そして、あ、そうなのだ、と思い、思った瞬間、この飛躍のなかに、池井の詩のすべてがあると感じ、池井の詩が好きになる。
 あ、また、書こうとして書けなかったことが、さらに書けなかったのかもしれない。しかたがない。
 ちょっと別な形で補足する。補足にならないかもしれないけれど。



 黒岩隆「水仙忌」。その1連目。

浅い夢のうしろで
空き缶の転がる音がする
風もないのに
遠くに
近くに
暗くて寒い夜明けだ

 「夢のうしろ」というから、黒岩はそれを半分目覚めながら聞いているのだろう。それは遠くであるようにも聞こえるし、近くであるようにも聞こえる。遠くと近くはまったくちがったものだけれど、それが区別できない。
 そして。
 その区別できないものが、「暗くて」ということばのなかで、一体になる。
 このとき「遠く」「近く」「暗く」という音のなかにある「く」の存在が、その一体感を堅固なものにする。「遠く」と「近く」が「暗く」のなかで、さらに距離をなくしてしまう。
 私は音読はしない。黙読しかしないのだが、「遠く」「近く」「暗く」ということばを読むとき、無意識に喉や口蓋が動いていて、その動きのなかで、三つのことばが一つになっていき、「意味」をつくりだしていることを感じてしまうのだ。
 黒岩の詩のことばは、このあと「静かにわらっているひと」へと動いていくのだが、そのひとは「遠く」、そして「近く」にいつもいる。いつもいるのだけれど、その「遠く」と「近く」の距離は「暗く」あるのだ。悲しい距離があるのだ。この悲しい距離は「遠く」「近く」「暗く」という音がつれてきたものである。




星の家
黒岩 隆
思潮社



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ルネ・クレマン監督「禁じられた遊び」(★★)

2011-03-21 16:24:02 | 午前十時の映画祭
監督 ルネ・クレマン 出演 ブリジット・フォッセー、ジョルジュ・プージュリー

 私はこの映画がそんなに好きではない。子供の描き方が気に食わない。無垢と無知は違ったものだが、この映画ではそれが混同されているように思う。
 幼い少女は「死」について無知である。そこから「無垢」な「遊び」が始まる。この前提が私には奇妙なものに思える。死について何も知らなくても、実際に体験するとそこからなにごとかを感じてしまう本能が人間にある。両親が死んだとき、ポレットは母の頬に手を触れ、自分の頬の感じと違うことを知る。(そんなに早く、体温が奪われているとは思わないけれど。)この、肉体を通して知った「事実」というものは重いものである。それがこの映画の中では丁寧に取り扱われていない。
 少女は死んだ犬のことを気にしているが、その前に母の頬に触り、その異変を知っているのだから、母を置き去りにして犬を気にするというのはあまりにも変である。その直前の、犬を追い掛けるシーンは、まだ母が生きているからありうるが、母に異変があったと知って、それも肉体で確かめた後、それでも母を見捨て犬を追い掛けるとしたら、これは「無知」というより感じる力をなくしている。
人間の感覚を狂わせてしまうのが戦争であるという見方もあるだろうけれど、そうならそうで、感覚の狂いをもっと丁寧に描くべきだろう。あまりにもご都合主義的な展開である。
この映画では、ポレットとミシェルの「泣かせるストーリー」よりも、ミシェルの家と隣の家のいがみ合いがとてもおもしろい。戦争の最中に、隣人同士がいがみあっている。そのくせ、その家の娘と息子は恋愛関係にあり、フランスだから(?)もちろんセックスもする。この日常感覚が、あ、やっぱりフランス、あくまで「個人のわがまま」を最優先する、というのがいいなあ。両家に、脱走兵がいる、というのも人間っぽくていい。わがままでいい。ミシェルの兄が馬に蹴られて、それが原因で死ぬという「日常」もいいなあ。田舎の「日常」がくっきり描かれているのが、とてもいい。
こういう丁寧な日常を描くくせして、ポレットとミシェルだけが「メルヘン」の残酷さと美しさを生きるというのは、あまりにも変だねえ。
最後の駅のシーン。悲しいというより、フランスの「個人主義」がくっきり出ていて、それもいいんだけれどねえ。



最近「白いリボン」をみた影響かもしれない。厳しい評価になった。
(「午前10時の映画祭」青シリーズ7本目、天神東宝、03月19日)


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誰も書かなかった西脇順三郎(197 )

2011-03-21 09:46:39 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「禮記」には、きのう読んだ「田園の憂鬱(哀歌)」の音(音楽)とはまた違った音楽がある。

このまなこのくらがりにつくつく
ぼうしのなくこの
歴史のせんりつが
セメントをうつ雨のように
きこえる

 ここには互いに反発して輝く音ではなく、深いところで手をつなぎ合う音がある。「このまなこのくらがりにつくつく/ぼうしのなくこの」という2行のなかに「この」が3回繰り返される。ただし、そのうちの1回は「まな・この」だから、その前後の「この」とは「意味」が違う。「意味」が違うけれど同じ音であるために、何か「意味」を越えて、しっかりと結びついてしまう。そして、その結びつきが「まなこ」ということばの「意味」を遠ざけてしまう。「まなこ」が「まなこ」でなくなってしまう。
 その影響だろうか。「つくつくぼうし」は「つくつく」と「ぼうし」に切り離され、やはり「意味」を失う。ただし--あ、このただし、が変だなあ。ただし、「意味」を切り離されながらも、その「切り離された」という感覚が、不思議と、「意味」を呼び戻すのである。「つくつく/ぼうし」は「つくつくぼうし」と書かれていないけれど「つくつくぼうし」のことなんだ、と意識させる。
 変だよねえ。
 「まなこの」は「まな/この」に切り離され、「つくつく/ぼうし」は切り離されているはずなのに「つくつくぼうし」とくっつけられてしまう。
 「音」は書かれていることばとは違った運動をしてしまうのである。「音」(声)は、書かれたことばの「意味」を越えてしまうのである。「意味」を越えて、遊んでしまう。遊びながら、音と音が手をとりあってしまう。
 これは、いったいなんなのだろう。
 私は書きながら、さっぱりわからない。
 たとえば「つくつくぼうし」ということばは、「つくつく/ぼうし」という具合にばらばらにされてしまう。そうすると、そのばらばらな感じは、くっついているはずの「つくつく」さえも「つ/く/つ/く」という音にしてしまう。そこから、「なく」の「く」が手を結び合うきっかけが生まれ、それは音をさかのぼって「くらがり」の「く」とも結びつく。音というのは一瞬一瞬消えてしまい、そこには同時に存在しないのだが、繰り返されることで同時に存在しないはずのものが、その瞬間に存在してしまう。いま、ここにないものが、音のなかで、なぜか存在し--いや、存在を越えて、どこかへ強く引っ張られていく。
 「いま」が「ここ」から消えていく。
 「つ/く/つ/く」の「つ」は、「歴史のせんりつ」の「つ」になる。「旋律/戦慄」と書いてしまうと「つ」は消えてしまうから、西脇は、あえて「せんりつ」と書くのだ。そして「セメントをうつ雨」の「つ」にもなる。
 同時に「せんりつ」と「セメント」が「せ」「ん」の繰り返しのなかで重なる。「戦慄/戦慄(せんりつ)」と「セメント」は無関係なものであるけれど、音のなかではとても近いものになる。その瞬間に「せんりつ」の「意味」も、「セメント」の「意味」もたたき壊されてしまう。
 「意味」がたたき壊されてしまうから、何を読んでいるのかわからなくなる。
 わかるのは、そこに消えてはあらわれる「音」があるということだけ。あらわれる「音」は不思議なことに、未来へも過去へも自在によびかける。ひとつの音から、それ以前のことばのなかの音が思い出される。また、ひとつの音から、いまとは無関係な別なことばが噴出してくる。
 いま、ここにある音のなかで、過去と未来が出会ってしまう。

 でも、それは「歴史」とは違うなあ。西脇が「歴史」ということばを書いているので、私は、そんなことをふいに考えてしまう。
 それは一般に言う「歴史」とは違う。しかし、どこかで「歴史」以上のものを感じさせる。ひとはなぜ、いくつかの音を出すのか。その音をなぜ、それぞれ聞き分けることができるのか--そのときの、人間の、「歴史」を越えた、不思議な力を思い出させてくれる。感じさせてくれる。
 



西脇順三郎詩集 新装版 (青春の詩集 日本篇 15)
西脇 順三郎
白凰社



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