池井昌樹「星工」(追加)、黒岩隆「水仙忌」(「歴程」573 、2011年02月20日発行)
池井昌樹「星工」について、書き漏らしたことがある。書こうとして書けなかったこと、がある。
生きている過程で「知らないこと」「知れないこと」というのはたくさんある。そしてその「知らないこと」「知れないこと」は、それ自体はわからないのに、何か別なもののなかで生きていて、それももちろん「知らないこと」「知れないこと」なのに、何かがわかる--そう感じることがある。
あ、これでは抽象的過ぎるね。
この詩の書き出し。ふるさとのしおたのとまやに、だれが住んでいるのか、何がおこなわれていたのか、それは「知らない」(知れない)。そのとまやでわかることといえば、「とんてんかんてんとんてんかん」という音なのだ。とまやは、そのとき建物であると同時に音なのだ。その音がいったい何によるものか、だれが住み、何をすることによって起きる音なのかは「知らない」(知れない)が、その音だけははっきりと耳を通って肉体のなかに入ってくる。もちろん、そのときとまやの何かは目を通って、やはり肉体のなかに入っているのだけれど、池井はそのことを書いていない。ただ、「音」を書いている。
そして、このとき「音」というのは不思議な働きをする。「音」にあわせて、肉体の何かが動く。「音」を聞くとき、肉体は動くのだ。
あ、これも、たぶんもっと丁寧な説明がいることかもしれない。もちろん肉体の反応というのは個人差があるだろうから、これは私だけのことかもしれない。したがって、池井とは無関係なことなのかもしれないが……。
何かを見る--見たものが肉体のなかに入ってくる。そのとき、私の肉体は動かない。ある風景を見る。そのとき、私はただそれを見る。もし、それを再現しようとするならば紙が必要になり、筆が必要になる。筆をつかうとき、私の肉体は(腕は)動くだろうが、紙も筆もないとき、私はただ、それを見つめているだけである。あとで絵に描いてみようと思って、じーっと見続けるということはあるかもしれない。
ところが聞くということは、見るということとまったく違う。聞く。そして、その音が肉体に入ってくる。それを私は喉や口をつかって声に出してみることができる。そして、その声に出した音を耳でもう一度聞く。それはもちろんそっくりそのままの音ではない。正確な音ではない。けれど、とりあえず、声、音として「記憶」することができる。また、人につたえることができる。
記憶する、つたえるということなら、見たものも「どこそこの浦の東側、友達の家の近くに塩田があって、その広さは……」と言うことができるかもしれない。けれど、それは「見る」ではなく、いったん「ことば」にしている。「音」にしている。視覚をそのまま肉体で再現し、それを自分の記憶にすることはできないし、その視覚を他人につたえることはできない。
音--聴覚(同時に、発声)というのは、視覚とは違った力を持っているのである。
音は肉体のなかにはいり、それから声として出ていくとき(そして、その声を音として聞き直すとき)、肉体に「意味」の傷跡を残していくのである。「意味」がわからなくても、その「音」から肉体は「意味」を感じ取ってしまうのである。肉体のなかに、「音」が「意味」を知らず知らずに蓄積するのである。
視覚にもし、その音に重なるものがあるとすれば「色」がそうかもしれない。「色」が「肉体」に「意味」を残すのである。
このときの「音」(色)には、もちろん個人的な体験だけではなく、その「音」(色)をつかう人々の共通の感覚が反映され、そこから「意味」が出てくるのだけれど……。
寄り道が長くなったけれど……。
とまやにだれが住んでいるのか、何をしているか知らない。けれど「とんてんかんてんとんてんかん」という音がしていることは知っている。そして、そこから聞こえる音を「とんてんかんてんとんてんかん」ということばにした瞬間、肉体のなかに何かが刻印されるのである。その音に「意味」(頭で定義し直すことのできることがら)はないのだけれど、肉体は感じるのだ。あ、これは、あのときの音だと。聞いたことがある、と、わかってしまうのだ。
わかるといっても、もちろん、正確ではない。ぼんやりである。しかし、そのぼんやりが繰り返されると、だんだんぼんやりではなくなる。たしかなことになる。
耳は、見えないことを知ってしまうのである。
音のなかには、見えないものが動いている。
池井は、この詩のなかで何度も「とんてんかんてんとんてんかん」を繰り返している。繰り返すことで、肉体の奥へ奥へとさかのぼっている。肉体の「ふるさと」へ帰っていく。
「とんてんかんてんとんてんかん」という「音」は、その弾むような響きだけで独立しているわけではない。「とんてんかんてんとんてんかん」のまわりには、次のような音もある。
う「し」ろゆびさ「し」こえひそめ、ふるさとの「し」おたのうらの「し」らさびた、ふるさとのしおたのう「ら」のし「ら」さびた--という具合に繰り返される音。「しらさびた」ということばのなかで交錯する母音「あ・い」、前後する「さ行」。それが「ひそめ」という音とも響きあう。呼びあう。
それは、私に、何かしら、悲しいもの、悲しいけれど避けることのできない何かとして、肉体に影を落とす。
音は音自体で「意味」を持つのだ。
その「意味」を突き抜けて(突き抜けるところまで、耳を澄まして)、池井の声は「ほしづくり」という「宇宙」に飛び出していく。
「とんてんかんてんとんてんかん」から「ほしづくり」への飛躍、飛翔。それを、池井は、具体的には説明していない。どうして「とんてんかんてんとんてんかん」が「ほしづくり」か、何も書かない。--それは、書けないのだ。池井の肉体だけが知っている「企業秘密」なのだ。
という音の微妙な連続感じ。それとは対照的な
という音。それを繰り返し繰り返し肉体のなかにいれながら、池井は「ほしづくり」へと動いていく。なぜ、そうなのか、わからない。けれど、「ほしづくり」と聞くと、ああ、そうなのだと納得してしまう。
この納得を、私は、ほんとうは書かなければならないのかもしれないが、どうにも書けない。あ、そうなのだ、と思うことしかできない。そして、あ、そうなのだ、と思い、思った瞬間、この飛躍のなかに、池井の詩のすべてがあると感じ、池井の詩が好きになる。
あ、また、書こうとして書けなかったことが、さらに書けなかったのかもしれない。しかたがない。
ちょっと別な形で補足する。補足にならないかもしれないけれど。
*
黒岩隆「水仙忌」。その1連目。
「夢のうしろ」というから、黒岩はそれを半分目覚めながら聞いているのだろう。それは遠くであるようにも聞こえるし、近くであるようにも聞こえる。遠くと近くはまったくちがったものだけれど、それが区別できない。
そして。
その区別できないものが、「暗くて」ということばのなかで、一体になる。
このとき「遠く」「近く」「暗く」という音のなかにある「く」の存在が、その一体感を堅固なものにする。「遠く」と「近く」が「暗く」のなかで、さらに距離をなくしてしまう。
私は音読はしない。黙読しかしないのだが、「遠く」「近く」「暗く」ということばを読むとき、無意識に喉や口蓋が動いていて、その動きのなかで、三つのことばが一つになっていき、「意味」をつくりだしていることを感じてしまうのだ。
黒岩の詩のことばは、このあと「静かにわらっているひと」へと動いていくのだが、そのひとは「遠く」、そして「近く」にいつもいる。いつもいるのだけれど、その「遠く」と「近く」の距離は「暗く」あるのだ。悲しい距離があるのだ。この悲しい距離は「遠く」「近く」「暗く」という音がつれてきたものである。
池井昌樹「星工」について、書き漏らしたことがある。書こうとして書けなかったこと、がある。
生きている過程で「知らないこと」「知れないこと」というのはたくさんある。そしてその「知らないこと」「知れないこと」は、それ自体はわからないのに、何か別なもののなかで生きていて、それももちろん「知らないこと」「知れないこと」なのに、何かがわかる--そう感じることがある。
あ、これでは抽象的過ぎるね。
ふるさとのしおたのうらのとまやには
だれがすもうていたかしらない
だれがすもうていたのかしれない
とんてんかんてんとんてんかん
ふるさとのしおたのうらのとまやでは
なにがなされていたかしらない
なにがなされていたのかしれない
とんてんかんてんとんてんかん
この詩の書き出し。ふるさとのしおたのとまやに、だれが住んでいるのか、何がおこなわれていたのか、それは「知らない」(知れない)。そのとまやでわかることといえば、「とんてんかんてんとんてんかん」という音なのだ。とまやは、そのとき建物であると同時に音なのだ。その音がいったい何によるものか、だれが住み、何をすることによって起きる音なのかは「知らない」(知れない)が、その音だけははっきりと耳を通って肉体のなかに入ってくる。もちろん、そのときとまやの何かは目を通って、やはり肉体のなかに入っているのだけれど、池井はそのことを書いていない。ただ、「音」を書いている。
そして、このとき「音」というのは不思議な働きをする。「音」にあわせて、肉体の何かが動く。「音」を聞くとき、肉体は動くのだ。
あ、これも、たぶんもっと丁寧な説明がいることかもしれない。もちろん肉体の反応というのは個人差があるだろうから、これは私だけのことかもしれない。したがって、池井とは無関係なことなのかもしれないが……。
何かを見る--見たものが肉体のなかに入ってくる。そのとき、私の肉体は動かない。ある風景を見る。そのとき、私はただそれを見る。もし、それを再現しようとするならば紙が必要になり、筆が必要になる。筆をつかうとき、私の肉体は(腕は)動くだろうが、紙も筆もないとき、私はただ、それを見つめているだけである。あとで絵に描いてみようと思って、じーっと見続けるということはあるかもしれない。
ところが聞くということは、見るということとまったく違う。聞く。そして、その音が肉体に入ってくる。それを私は喉や口をつかって声に出してみることができる。そして、その声に出した音を耳でもう一度聞く。それはもちろんそっくりそのままの音ではない。正確な音ではない。けれど、とりあえず、声、音として「記憶」することができる。また、人につたえることができる。
記憶する、つたえるということなら、見たものも「どこそこの浦の東側、友達の家の近くに塩田があって、その広さは……」と言うことができるかもしれない。けれど、それは「見る」ではなく、いったん「ことば」にしている。「音」にしている。視覚をそのまま肉体で再現し、それを自分の記憶にすることはできないし、その視覚を他人につたえることはできない。
音--聴覚(同時に、発声)というのは、視覚とは違った力を持っているのである。
音は肉体のなかにはいり、それから声として出ていくとき(そして、その声を音として聞き直すとき)、肉体に「意味」の傷跡を残していくのである。「意味」がわからなくても、その「音」から肉体は「意味」を感じ取ってしまうのである。肉体のなかに、「音」が「意味」を知らず知らずに蓄積するのである。
視覚にもし、その音に重なるものがあるとすれば「色」がそうかもしれない。「色」が「肉体」に「意味」を残すのである。
このときの「音」(色)には、もちろん個人的な体験だけではなく、その「音」(色)をつかう人々の共通の感覚が反映され、そこから「意味」が出てくるのだけれど……。
寄り道が長くなったけれど……。
とまやにだれが住んでいるのか、何をしているか知らない。けれど「とんてんかんてんとんてんかん」という音がしていることは知っている。そして、そこから聞こえる音を「とんてんかんてんとんてんかん」ということばにした瞬間、肉体のなかに何かが刻印されるのである。その音に「意味」(頭で定義し直すことのできることがら)はないのだけれど、肉体は感じるのだ。あ、これは、あのときの音だと。聞いたことがある、と、わかってしまうのだ。
わかるといっても、もちろん、正確ではない。ぼんやりである。しかし、そのぼんやりが繰り返されると、だんだんぼんやりではなくなる。たしかなことになる。
耳は、見えないことを知ってしまうのである。
音のなかには、見えないものが動いている。
池井は、この詩のなかで何度も「とんてんかんてんとんてんかん」を繰り返している。繰り返すことで、肉体の奥へ奥へとさかのぼっている。肉体の「ふるさと」へ帰っていく。
「とんてんかんてんとんてんかん」という「音」は、その弾むような響きだけで独立しているわけではない。「とんてんかんてんとんてんかん」のまわりには、次のような音もある。
うしろゆびさしこえひそめ
おしえてくれたそのちちも
みまかりてはやときはゆき
とんてんかんてんとんてんかん
ふるさとのしおたのうらのしらさびた
とまやはいまもゆねのうち
だれがすもうているのやら
なにがなされているのやら
う「し」ろゆびさ「し」こえひそめ、ふるさとの「し」おたのうらの「し」らさびた、ふるさとのしおたのう「ら」のし「ら」さびた--という具合に繰り返される音。「しらさびた」ということばのなかで交錯する母音「あ・い」、前後する「さ行」。それが「ひそめ」という音とも響きあう。呼びあう。
それは、私に、何かしら、悲しいもの、悲しいけれど避けることのできない何かとして、肉体に影を落とす。
音は音自体で「意味」を持つのだ。
その「意味」を突き抜けて(突き抜けるところまで、耳を澄まして)、池井の声は「ほしづくり」という「宇宙」に飛び出していく。
「とんてんかんてんとんてんかん」から「ほしづくり」への飛躍、飛翔。それを、池井は、具体的には説明していない。どうして「とんてんかんてんとんてんかん」が「ほしづくり」か、何も書かない。--それは、書けないのだ。池井の肉体だけが知っている「企業秘密」なのだ。
ふるさとのしおたのうらのとまやには
だれがすもうていたかしらない
だれがすもうていたのかしれない
という音の微妙な連続感じ。それとは対照的な
とんてんかんてんとんてんかん
という音。それを繰り返し繰り返し肉体のなかにいれながら、池井は「ほしづくり」へと動いていく。なぜ、そうなのか、わからない。けれど、「ほしづくり」と聞くと、ああ、そうなのだと納得してしまう。
この納得を、私は、ほんとうは書かなければならないのかもしれないが、どうにも書けない。あ、そうなのだ、と思うことしかできない。そして、あ、そうなのだ、と思い、思った瞬間、この飛躍のなかに、池井の詩のすべてがあると感じ、池井の詩が好きになる。
あ、また、書こうとして書けなかったことが、さらに書けなかったのかもしれない。しかたがない。
ちょっと別な形で補足する。補足にならないかもしれないけれど。
*
黒岩隆「水仙忌」。その1連目。
浅い夢のうしろで
空き缶の転がる音がする
風もないのに
遠くに
近くに
暗くて寒い夜明けだ
「夢のうしろ」というから、黒岩はそれを半分目覚めながら聞いているのだろう。それは遠くであるようにも聞こえるし、近くであるようにも聞こえる。遠くと近くはまったくちがったものだけれど、それが区別できない。
そして。
その区別できないものが、「暗くて」ということばのなかで、一体になる。
このとき「遠く」「近く」「暗く」という音のなかにある「く」の存在が、その一体感を堅固なものにする。「遠く」と「近く」が「暗く」のなかで、さらに距離をなくしてしまう。
私は音読はしない。黙読しかしないのだが、「遠く」「近く」「暗く」ということばを読むとき、無意識に喉や口蓋が動いていて、その動きのなかで、三つのことばが一つになっていき、「意味」をつくりだしていることを感じてしまうのだ。
黒岩の詩のことばは、このあと「静かにわらっているひと」へと動いていくのだが、そのひとは「遠く」、そして「近く」にいつもいる。いつもいるのだけれど、その「遠く」と「近く」の距離は「暗く」あるのだ。悲しい距離があるのだ。この悲しい距離は「遠く」「近く」「暗く」という音がつれてきたものである。
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