詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「下弦」、池井昌樹「鈍竜」(「桜尺」38、2011年02月28日発行)

2011-03-04 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
 岩佐なを「下弦」はとても変である。「下弦」は下弦の月。朝方の半分欠けた月。しかも、それは太陽の光の影響もあって薄れていくだけの存在。それを見ながら、岩佐は、人間は死んだら星(や月)になるというけれど、父や母もそうだろうか、下弦の月はどっちだろう--というようなことを思うのだ。

すると、兄が「俺だよ」と笑って言う。坂のそらみみ。全く兄のことは知らないから、なるべく関わらずに生きていきたいのに、死んでいきたいのに。「ははは、俺だよ」と言う兄。(ミアゲルナ・キコエナイフリ)生まれてすぐ死んだくせに立派に成長して端正な幻影でわりこんでくる。うすっぺらの半月だとしても、脳にしみこませる言の葉を降らせてくる。ほら、冬の一日が始まって、樹木にはあたらしい芽。兄の肉の手を握るまで、下弦の月を見つけては黙礼する自分。よく見て。後頭部が禿げている。

 そうだねえ。上弦の月の形の禿はないよなあ。でも、おかしいねえ。禿げというのは、髪の毛の欠けた(?)部分。もし、それを月にあてはめるなら上弦の月の方が、禿げ頭ということになるのかもしれないけれど、ほら、光っているのは上弦の月は下、下弦の月は上、と奇妙にねじれるからなあ。なにか、おかしいねえ。「日本語」がおかしいのかな?私の論理のどこかがおかしいのかな? 論理と見かけは違うということかな?
 どうでもいいのだけれど、そのどうでもいいところへことばが自然に動いて行ってしまう。それがおかしい。
 で、読み返すと、この奇妙な混乱は、

なるべく関わらずに生きていきたいのに、死んでいきたいのに。

 から始まっている。(もっと前から、かもしれないけれど。)
 「生きていきたいのに」「死んでいきたいのに」と、反対のことが読点「、」を挟んで繰り返される。そして、そんなふうにつづいてしまうと、あれ、どっちだろうと思ってしまう。そこに、どんな違いがある? 生きていくと死んでいくって、どこが違う? 違うようで、違わないねえ。生きて行ったその果てに死があるのだから、生きていくということは死んでいくことにほかならない。
 それと、半欠けの月の「禿げ」の感じがそっくり。いや、まったく違うのだけれど、どこかですれ違ったときに、どうして違ってしまったのかわからないくらいに似ている。
 髪の毛が抜けた部分(欠けた部分)を「禿げ」というのなら、月の上半分が欠けた上弦の月の方が禿の月であるはずだけれど、その欠けた部分が暗く(黒く)、欠けていない部分が光っているので、あれ? この光と影を中心に見つめなおせば、下弦の方が禿げ頭に似ている。
 変でしょ?
 こんなことは、考えちゃいけないことだったのかもしれない。
 (ミアゲルナ・キコエナイフリ)という岩佐のことばをまねして、考えるな、読まなかったふり、と言い聞かせ、別な感想でも書いた方がいいのかもしれない。
 でも、書いてしまったからねえ。

兄の肉の手を握るまで、

 という1行も変だよねえ。岩佐の詩に従えば、兄は死んでいるのだから、その手を岩佐が握ることがあるとしても、それは岩佐が死んだとき。天国なんてあるかどうかしらないが、兄と手を握るのはその天国ということになる。でも、天国でも、私たちの肉体は肉体? 肉体があるなら、そこは天国じゃないのでは?
 ほら、また、罠にかかってわけのわからないことを書きはじめてしまう。もう、やめようね。同じことばを繰り返し繰り返し書いてしまうことになる。



 池井昌樹「鈍竜」も、繰り返し繰り返しなのだが、岩佐の詩の進む方向とはまったく違う。

じぶんさえよければいいむれのどこかで
じぶんではないだれをもおしのけ
じぶんではないだれかをかきわけ
じぶんさえよければいいむれのどこかで
だれよりはやくあそこへと
だれよりあかるいあそこへと
じぶんさえよければいいむれのどこかで
きょうもきょうとておんなをもとめ
あすはあすとておとこをもとめ
じぶんさえよければいいむれはすこうしすすみ
じぶんさえよければいいむれはまたあともどり
じぶんさえよければいいむれはふくらみつづけ
じぶんさえよければいいむれはくろくものよう
いよいよふくらみふくらみきわまり
じぶんさえよければいいながいしっぽは
かこのとばりにくらくおおわれ
じぶんさえよければいいちいさいおむつは
いましもあんぐりくちをあける
あかるくはてないならくのほうへ

 「じぶんさえよければいい」と繰り返し、どんどんかわっていく。でも、ほんとうはかわらない。行き着く先は「あかるくてはてないならく」である。「明るい」と「奈落」はほんとうは(というか、常識では、)矛盾している。暗いのが奈落である。でも、その「あかるくてはてないならく」ということばが与える印象は、岩佐の書いている下弦の月の禿げ頭のようには、おかしくはない。変ではない。
 「明るい」と「奈落」が矛盾せずに存在する「場」があるのだ。そして、その一転すると「矛盾」したものの結合である「場」は「じぶんさえよければいい」という欲望の繰り返し、欲望の果てにやってくるものなのである。
 その欲望を声に対して、池井は岩佐のように(ミアゲルナ・キコエナイフリ)とは言わない。絶対に言わない。かわりに、「みあげろ、きけ」というのである。否定しない。ただ肯定を繰り返す。きょう女を求めたなら、あすは男を求める。方向を限定しない。「すこうしすみ」「またあともどり」しながら、「ふくらみつづけ」、明るい奈落そのものになるのだ。矛盾そのものになることで「変」とか「奇妙」とかの安直な批評のことばを拒絶する。

 あ、これは、岩佐の「変」「奇妙」が安直という意味ではありません。それじゃあ、何、と質問されると、ちょっと答えるのが面倒くさい。
 次の機会に。



 浅山泰美「春」は、最後が俳句のようである。

新月の晩
掌の中でみどりの小鳥が死んだ
その記憶が鏡のように曇っている 冬の空に

秘密は守られているだろうか 遠くで。

 秘密が「近く」で守られているのではなく、「遠く」で守られていてほしい--という抒情が、世界を押し広げる。それも掌の中で死んだ小鳥という具体的な肉体とものとの出会いの中に凝縮することで。
 遠心と求心の強い結合がある。これは、岩佐の「変」「奇妙」とも、池井の「絶対矛盾」とも違った何かである。西脇の書いている「淋しい」を抒情にすると、浅山のようになるのかな、とも思った。






しましまの
岩佐 なを
思潮社

母家
池井 昌樹
思潮社
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誰も書かなかった西脇順三郎(190 )

2011-03-04 10:05:28 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』。「タランボウ」という詩がある。

ハナズホウやマメいろにそめた
袖なしを着て四人の男が
タランボウの木の
みおさめに
雷のならないうちに歩いた

 の「タランボウ」が実はわからない。「タラノ木」というものが『宝石の眠り』に出てくるので、これだろうと、いいかげんな見当をつけている。音が楽しい。「ボウ」にはなんとなく親しいものに対する呼びかけのようなものがある。愛称、っぽい。それが、なんとなくうれしいのである。
 その書き出しの、少し後。

こわれた花瓶のような坂を越えた
トウダイグサやアザミの藪で
キリギリスは呪文をとなえる
人間の声におどろいて半分でやめる

 この「人間の声におどろいて半分でやめる」が、特に「半分」がとても好きだ。途中で、というのと「意味」は同じだろう。途中、といっても、それがほんとうに「途中」かどうかは人間にはわからないことである。同じように「半分」もそれがほんとうに「半分」かどうかなど、人間にはわかるはずがない。けれど、そのわからないものを「半分」と言い切ってしまうところがおもしろい。「途中」よりも「半分」の方が、全体(?)が見えそうでおかしい。それに、音がとてもいい。「途中」でやめるだと、奇妙に重たい。真剣というか、真面目な感じがする。「半分」は軽い。その軽さが「呪文」の重さを洗い流す。
 このあ、詩は、

人間の言葉は悪魔の咳にすぎない

 という行へとつづくのだが、このなにやら重大なのか、冗談なのかわからないことばの運動も「半分」のおかげで、とても軽く弾む。重大な意味にも、冗談にもならなず、「半分」のことばそのままに、その「真ん中(半分のところ)」を動いていく。
 あらゆることばが、「意味」から「半分」離れて動いていく。

ある粘土の井戸もなくなつた
コンクリートの電気ポンプになつた
ノビラ氏はものの涙のために
悲しい「ダ」の宴を開いてくれた
麦酒赤飯油いためのサヤマメやニンジン
青紫の皮のやわらかなナス
「菊」を「ジコウ」に酌んだ
主人とともに絃琴に合わせて
農業政策と物価論を歌つた

 「農業政策」「物価論」を「語った」ではなく、「歌った」--そんなものなど歌えないだろう。でも、歌ってしまうのだ。
 「歌った」の方が音がおもしろい。
 そして、このときの音というのは、現実に「耳」が聞く音ではなく、意識が聞く音である。「歌った」という、ありきたりのことばのなかにある音が、「農業政策」「物価論」という音とぶつかって、「農業政策」「物価論」を「意味」ではなく、音そのものにしてしまう。実際に何を語ったかは問題ではない。「のうぎょうせいさく」(のーぎょーせーさく)「ぶっかろん」という音が「意味」から剥がされて浮かんでいる感じが「歌つた」によって生まれてくるのである。




西脇順三郎詩集 (新潮文庫 に 3-1)
西脇 順三郎
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