池井昌樹「星工」(「歴程」573 、2011年02月20日発行)
池井昌樹「星工」は、いつのことを書いているのだろう。
1行目を漢字まじりで書けば「ふるさとの塩田の浦の苫屋には」になるのかもしれない。私は「塩田」も「苫屋」も見たことがない。だから、それを想像する(思い描く)こともできないのだが、具体的な風景を思い描く前に、「意味」が見えてきて、肝心の風景が見えなくなる。
これは、つまらないなあ。
ところが、ひらがなだけの詩にもどると、その印象ががらりとかわる。「ぼんやり」する。「しおた」って何? 「とまや」って何? 聞いたことがある。どこかで聞いたことがある。そういうものが「記憶」の奥に残っている。「記憶」といっても、はっきりしたものではなく、何といえばいいのだろう、「肉体」の奥に残っている「傷」のような感じである。ぼんやりしているのだが、あ、それはあったかもしれない、と思うような何かである。
「塩田」「苫屋」ではなく「しおた」「とまや」であるときの、ぼんやりした何か--それが「意味」を洗い流す。
ここには「意味」はない。--では、何があるのか。
「ふるさとのしおたのうらのとまやには」には、「ふるさとの塩田の浦の苫屋には」では聞こえてこない音がある。「お」の音が、ゆらぎながら動いている。そして、
この2行で繰り返される「すもうて」のなかにも「お」の音がある。「だれが住んでいたかしらない」「だれが住んでいたのかしれない」ではなく、「すもうて」というとき、「お」の深い音のなかに、肉体がすーっと引きこまれていく。
「すもうて」のなかにあるのは「お」だけではないのだが、「お」のゆらぎが、とても気持ちがいいのだ。
音のゆらぎ--という点では「しらない」「しれない」にもある。
そして、ここにはもうひとつ不思議なことが書かれている。「しらない」の主語は「私」。「しれない」の「だれにも」である。「私」と「だれにも(不特定多数)」が、この瞬間にすれ違う。「ら」と「れ」の音の違いの中で、「私」と「すべてのひと」が交錯する。すれ違いながら、溶け合ってしまう。
ふるさと--とは、そういう「場」かもしれない。
こういう印象のあとに、
という音が来る。
これは、何の音?
私には、風の音に聞こえる。風といっても、ただ風が吹いているのではない。「とまや」の扉が風に吹かれている。開いたり、閉じたり。そのたびに木がぶつかり「とんてんかんてんとんてんかん」。それは木のぶつかる音であり、風の音である。音の中で風と木が一体になっている。
あるいは、風ではない何かの動きのために、「とまや」がゆらぎ、それが音を立てている。でも、たとえば池井が「あれは何の音?」と聞いたとき、父は「あれは風がとまやを揺する音」といったのかもしれない。その音の「意味」を池井はそんなふうに聞いたのかもしれない。
このすれ違いと、そこから始まる「物語」。それは「しらない」「しれない」という音の中で「私」と「だれ(に)も」が出会い、一体になっているのに似ている。
音の中で、ことばの中で、「私」と「私以外の人(私のまわりにいる人)」が出会い、溶け合い、一体になる。
「しらない」「しれない」--そういう音のゆらぎのなかを通って、池井は「ふるさと」よりももっともっと遠いところへ帰っていく。
「とんてんかんてんとんてんかん」という音を繰り返すたびに、「物語」は進みながら、「物語」以前へ帰っていく。「私」と「私以外の人」は一体になりながら、「私」でも「私以外の人」でもないものになっていく。出会うことが、別れになり、その遠くに、全体的な「孤独の人」が、ふいにあらわれる。
あれは、星をつくっている音。風の音でも、苫屋のゆらぐ音でもない。「めをつむり まためをつむり」--その繰り返しの果てに、ふいにあらわれる「神話」。
この「ほしづくり」の「宇宙」は、たとえば谷川俊太郎の「宇宙」とはまったく違うなあ。谷川俊太郎は最初からひとり。最初から孤独の透明な音楽を響かせる。その響きが宇宙と向き合う。それにこたえて宇宙も音楽を奏でる。
けれど、池井は、だれかとつながって、つながりつづけて(たとえば、ふるさと、たとえば父母とつながりつづけて)、つながりの中で「ひとり」になって、「孤独」になって、絶対的な孤独の人が「宇宙」でつくりつづけている音楽を聞き取る。
池井は「声」の人間であるよりも、「耳」の人間、「耳」の詩人なんだなあ、と、きょうふいに気がついた。
池井昌樹「星工」は、いつのことを書いているのだろう。
ふるさとのしおたのうらのとまやには
だれがすもうていたかしらない
だれがすもうていたのかしれない
とんてんかんてんとんてんかん
ふるさとのしおたのうらのとまやでは
なにがなされていたかしらない
なにがなされていたのかしれない
とんてんかんてんとんてんかん
ふるさとのしおたのうらのあれはてた
とまやいづればもうただのひと
おもてへでればもうただのかお
1行目を漢字まじりで書けば「ふるさとの塩田の浦の苫屋には」になるのかもしれない。私は「塩田」も「苫屋」も見たことがない。だから、それを想像する(思い描く)こともできないのだが、具体的な風景を思い描く前に、「意味」が見えてきて、肝心の風景が見えなくなる。
これは、つまらないなあ。
ところが、ひらがなだけの詩にもどると、その印象ががらりとかわる。「ぼんやり」する。「しおた」って何? 「とまや」って何? 聞いたことがある。どこかで聞いたことがある。そういうものが「記憶」の奥に残っている。「記憶」といっても、はっきりしたものではなく、何といえばいいのだろう、「肉体」の奥に残っている「傷」のような感じである。ぼんやりしているのだが、あ、それはあったかもしれない、と思うような何かである。
「塩田」「苫屋」ではなく「しおた」「とまや」であるときの、ぼんやりした何か--それが「意味」を洗い流す。
ここには「意味」はない。--では、何があるのか。
「ふるさとのしおたのうらのとまやには」には、「ふるさとの塩田の浦の苫屋には」では聞こえてこない音がある。「お」の音が、ゆらぎながら動いている。そして、
だれがすもうていたかしらない
だれがすもうていたのかしれない
この2行で繰り返される「すもうて」のなかにも「お」の音がある。「だれが住んでいたかしらない」「だれが住んでいたのかしれない」ではなく、「すもうて」というとき、「お」の深い音のなかに、肉体がすーっと引きこまれていく。
「すもうて」のなかにあるのは「お」だけではないのだが、「お」のゆらぎが、とても気持ちがいいのだ。
音のゆらぎ--という点では「しらない」「しれない」にもある。
そして、ここにはもうひとつ不思議なことが書かれている。「しらない」の主語は「私」。「しれない」の「だれにも」である。「私」と「だれにも(不特定多数)」が、この瞬間にすれ違う。「ら」と「れ」の音の違いの中で、「私」と「すべてのひと」が交錯する。すれ違いながら、溶け合ってしまう。
ふるさと--とは、そういう「場」かもしれない。
こういう印象のあとに、
とんてんかんてんとんてんかん
という音が来る。
これは、何の音?
私には、風の音に聞こえる。風といっても、ただ風が吹いているのではない。「とまや」の扉が風に吹かれている。開いたり、閉じたり。そのたびに木がぶつかり「とんてんかんてんとんてんかん」。それは木のぶつかる音であり、風の音である。音の中で風と木が一体になっている。
あるいは、風ではない何かの動きのために、「とまや」がゆらぎ、それが音を立てている。でも、たとえば池井が「あれは何の音?」と聞いたとき、父は「あれは風がとまやを揺する音」といったのかもしれない。その音の「意味」を池井はそんなふうに聞いたのかもしれない。
このすれ違いと、そこから始まる「物語」。それは「しらない」「しれない」という音の中で「私」と「だれ(に)も」が出会い、一体になっているのに似ている。
音の中で、ことばの中で、「私」と「私以外の人(私のまわりにいる人)」が出会い、溶け合い、一体になる。
だれがすもうといるのやら
なにがなされているのやら
とんてんかんてんとんてんかん
かぜたつよわもいやますやみも
うしろゆびさしさげすむこえも
しらぬかお もうただのゆめ
とんてんかんてんとんてんかん
おやすみのあさ ゆにつかり
めをつむり まためをつむり
しおたのうらにまだひとり
とんてんかんてんとんてんかん
ほしづくり やよ ほしづくり
「しらない」「しれない」--そういう音のゆらぎのなかを通って、池井は「ふるさと」よりももっともっと遠いところへ帰っていく。
「とんてんかんてんとんてんかん」という音を繰り返すたびに、「物語」は進みながら、「物語」以前へ帰っていく。「私」と「私以外の人」は一体になりながら、「私」でも「私以外の人」でもないものになっていく。出会うことが、別れになり、その遠くに、全体的な「孤独の人」が、ふいにあらわれる。
とんてんかんてんとんてんかん
あれは、星をつくっている音。風の音でも、苫屋のゆらぐ音でもない。「めをつむり まためをつむり」--その繰り返しの果てに、ふいにあらわれる「神話」。
この「ほしづくり」の「宇宙」は、たとえば谷川俊太郎の「宇宙」とはまったく違うなあ。谷川俊太郎は最初からひとり。最初から孤独の透明な音楽を響かせる。その響きが宇宙と向き合う。それにこたえて宇宙も音楽を奏でる。
けれど、池井は、だれかとつながって、つながりつづけて(たとえば、ふるさと、たとえば父母とつながりつづけて)、つながりの中で「ひとり」になって、「孤独」になって、絶対的な孤独の人が「宇宙」でつくりつづけている音楽を聞き取る。
池井は「声」の人間であるよりも、「耳」の人間、「耳」の詩人なんだなあ、と、きょうふいに気がついた。
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