詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹「星工」

2011-03-20 23:59:59 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹「星工」(「歴程」573 、2011年02月20日発行)

 池井昌樹「星工」は、いつのことを書いているのだろう。

ふるさとのしおたのうらのとまやには
だれがすもうていたかしらない
だれがすもうていたのかしれない
とんてんかんてんとんてんかん
ふるさとのしおたのうらのとまやでは
なにがなされていたかしらない
なにがなされていたのかしれない
とんてんかんてんとんてんかん
ふるさとのしおたのうらのあれはてた
とまやいづればもうただのひと
おもてへでればもうただのかお

 1行目を漢字まじりで書けば「ふるさとの塩田の浦の苫屋には」になるのかもしれない。私は「塩田」も「苫屋」も見たことがない。だから、それを想像する(思い描く)こともできないのだが、具体的な風景を思い描く前に、「意味」が見えてきて、肝心の風景が見えなくなる。
 これは、つまらないなあ。
 ところが、ひらがなだけの詩にもどると、その印象ががらりとかわる。「ぼんやり」する。「しおた」って何? 「とまや」って何? 聞いたことがある。どこかで聞いたことがある。そういうものが「記憶」の奥に残っている。「記憶」といっても、はっきりしたものではなく、何といえばいいのだろう、「肉体」の奥に残っている「傷」のような感じである。ぼんやりしているのだが、あ、それはあったかもしれない、と思うような何かである。
 「塩田」「苫屋」ではなく「しおた」「とまや」であるときの、ぼんやりした何か--それが「意味」を洗い流す。
 ここには「意味」はない。--では、何があるのか。

 「ふるさとのしおたのうらのとまやには」には、「ふるさとの塩田の浦の苫屋には」では聞こえてこない音がある。「お」の音が、ゆらぎながら動いている。そして、

だれがすもうていたかしらない
だれがすもうていたのかしれない

 この2行で繰り返される「すもうて」のなかにも「お」の音がある。「だれが住んでいたかしらない」「だれが住んでいたのかしれない」ではなく、「すもうて」というとき、「お」の深い音のなかに、肉体がすーっと引きこまれていく。
 「すもうて」のなかにあるのは「お」だけではないのだが、「お」のゆらぎが、とても気持ちがいいのだ。
 音のゆらぎ--という点では「しらない」「しれない」にもある。
 そして、ここにはもうひとつ不思議なことが書かれている。「しらない」の主語は「私」。「しれない」の「だれにも」である。「私」と「だれにも(不特定多数)」が、この瞬間にすれ違う。「ら」と「れ」の音の違いの中で、「私」と「すべてのひと」が交錯する。すれ違いながら、溶け合ってしまう。
 ふるさと--とは、そういう「場」かもしれない。

 こういう印象のあとに、

とんてんかんてんとんてんかん

 という音が来る。
 これは、何の音?
 私には、風の音に聞こえる。風といっても、ただ風が吹いているのではない。「とまや」の扉が風に吹かれている。開いたり、閉じたり。そのたびに木がぶつかり「とんてんかんてんとんてんかん」。それは木のぶつかる音であり、風の音である。音の中で風と木が一体になっている。
 あるいは、風ではない何かの動きのために、「とまや」がゆらぎ、それが音を立てている。でも、たとえば池井が「あれは何の音?」と聞いたとき、父は「あれは風がとまやを揺する音」といったのかもしれない。その音の「意味」を池井はそんなふうに聞いたのかもしれない。
 このすれ違いと、そこから始まる「物語」。それは「しらない」「しれない」という音の中で「私」と「だれ(に)も」が出会い、一体になっているのに似ている。

 音の中で、ことばの中で、「私」と「私以外の人(私のまわりにいる人)」が出会い、溶け合い、一体になる。

だれがすもうといるのやら
なにがなされているのやら
とんてんかんてんとんてんかん
かぜたつよわもいやますやみも
うしろゆびさしさげすむこえも
しらぬかお もうただのゆめ
とんてんかんてんとんてんかん
おやすみのあさ ゆにつかり
めをつむり まためをつむり
しおたのうらにまだひとり
とんてんかんてんとんてんかん
ほしづくり やよ ほしづくり

 「しらない」「しれない」--そういう音のゆらぎのなかを通って、池井は「ふるさと」よりももっともっと遠いところへ帰っていく。
 「とんてんかんてんとんてんかん」という音を繰り返すたびに、「物語」は進みながら、「物語」以前へ帰っていく。「私」と「私以外の人」は一体になりながら、「私」でも「私以外の人」でもないものになっていく。出会うことが、別れになり、その遠くに、全体的な「孤独の人」が、ふいにあらわれる。

とんてんかんてんとんてんかん

 あれは、星をつくっている音。風の音でも、苫屋のゆらぐ音でもない。「めをつむり まためをつむり」--その繰り返しの果てに、ふいにあらわれる「神話」。
 この「ほしづくり」の「宇宙」は、たとえば谷川俊太郎の「宇宙」とはまったく違うなあ。谷川俊太郎は最初からひとり。最初から孤独の透明な音楽を響かせる。その響きが宇宙と向き合う。それにこたえて宇宙も音楽を奏でる。
 けれど、池井は、だれかとつながって、つながりつづけて(たとえば、ふるさと、たとえば父母とつながりつづけて)、つながりの中で「ひとり」になって、「孤独」になって、絶対的な孤独の人が「宇宙」でつくりつづけている音楽を聞き取る。
 池井は「声」の人間であるよりも、「耳」の人間、「耳」の詩人なんだなあ、と、きょうふいに気がついた。

母家
池井 昌樹
思潮社
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誰も書かなかった西脇順三郎(196 )

2011-03-20 14:45:10 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 『禮記』のつづき。「田園の憂鬱(哀歌)」の次の部分がとても好きだ。

もう春も秋もやつて来ない
でも地球には秋が来るとまた
路ばたにマンダラゲが咲く
法隆寺へいく路に春が来ると
ゲンゲ天人唐草(てんにんからくさ)スミレが咲く
ああ長江の宿も
熊野の海に吹く鯨のしおも
バルコンもコスモスもライターも
秋刀魚も「ツァラトゥストラ」も
すべて追憶は去つてしまつた

 秋、路ばたにマンダラゲが咲く、春、法隆寺へ行く路にゲンゲ、天人唐草、スミレが咲く。そのことがなぜ、詩、になるのか。そこには、いったい何が書かれているのか。秋の花、春の花の名前が語るのは何なのか--という問いは正しくない。正しくないというか、私の書きたいことからずれてしまう。私がこの部分がなぜ好きなのか。そこに「意味」を感じているからではない。その自然の花の美しさを感じているからではない。私はそこに「音」があること、その「音」が一種類ではないことに、喜びを感じるのだ。
 いろんな音が炸裂している。咲き競っている。
 そのなかでも、私がいちばん驚くのは「天人唐草(てんにんからくさ)」である。西脇はわざわざルビを振っている。そう「読ませたい」のだ。「意味」だけなら、ルビはひつようとはしないだろう。ゲンゲ・てんにんからくさ・スミレ。その音の響き具合を聞いてほしいと願っているのだ。ゲンゲとスミレに挟まれて「てんにんからくさ」は、とてもなめらかな響きで輝く。
 これが、もし「いぬふぐり」であったら、どうだろう。「いぬふぐり」は「天人唐草」の別称である。「意味」は同じである。でも、ゲンゲ・いぬふぐり・スミレ、では、音がまったく違ってしまう。
 さらに「ゲンゲ」ではなく「れんげ」「れんげ草(そう)」の場合も音が違ってくる。おもしろみが減ってしまう。        

 詩は「意味」のなかにあるのではないのだ。

 「熊野の海に吹く鯨のしおも」も、とてもおかしい。ごくふつうに「意味」をつたえるなら「熊野の海に(海で)、鯨の吹くしおも」だろう。(意味は少し違うが、熊野の海に、潮を吹く鯨も、という言い方もあるだろう。)「吹く鯨のしお」というのでは、「吹く」の主語を一瞬見失ってしまう。「鯨がしおを吹く」という基本的な「事実」が、どこかへ消えてしまう。そして、そこに音が残される。
 すべての追憶は去ってしまって、音が残される。「意味」を欠いた音が残される。そうしてみると、追憶とは「意味」かもしれないなあ。
 ほら。

 秋刀魚も「ツァラトゥストラ」も

 この1行で思い出すのは何? ふと、「作者」(筆者)を思い出さない?
 でも、我慢しよう。「作者」を思い出し、その名前を口にすれば、そこに「意味」が生まれる。西脇は、その「意味」を拒絶して、秋刀魚も「ツァラトゥストラ」もというときの肉体のなかに広がる音を楽しんでいるのだ。





西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会



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